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さいごに 1/2

 あれは会社から家に帰っている途中の電車のなかだったと思います。本を読んでいて、ちーさな雷に頭を撃たれたような衝撃を受けて、しばらく身体中が軽くビリビリしているような気持ちになりました。読んでいた本には別に大したことは書いてはいない部分だったのですが、“神様がいる”と確信をした瞬間であり、私が悟りを開いた瞬間でもありました。

 ちーさな雷に撃たれた後、本をゆっくり閉じて車窓に映る自分の姿をぽけーっと眺めていました。いっぱい乗客がおられる中で、自分だけが車窓に映る自分のことを見ていました。

 悟りを開く瞬間に雷に撃たれたような感覚になるとか今でも無いと思っています。人それぞれ違う気もしています。私もちーさな雷に撃たれたような感覚になったことで悟りを開いたとは少しの間は考えていませんでした。でも、その日を境に考えると、この世とあの世について疑問に思っていたことが分かっていくことが多くなりました。本もあれからさらによく読むようになったと思います。読めば読むほど、世界の仕組みについて理解が深まっていった気がします。そう考えると、やっぱりちーさな雷に撃たれた感覚になった瞬間が私にとって悟りを開いた瞬間と言える気がしています。

 満員電車のなかで悟りを開く。なんか矛盾している気がしないでもないですけど、周りにいたひとは全員知らないので自分は一人だったと考えるとあり得るのかなとか考えてみましたが、悟りって別にどの瞬間でも開ける気がするので、シチュエーションは関係ない気もします。

 それから、私は考えたことがあります。現代はどこにいれば悟りを開きやすいのかとか、そもそも人は悟りを開く必要があるのかとか。

 私の身近にいらっしゃるお坊さんとかは“職業”としてそれをやっておられるだけで、“悟る”ためにはやっておられない方々が多いと思っています。そもそも、“悟る”ってことを知識としては持っておられるんですけど、それ以上深堀している様子はありません。教えてもらっていることを口にしているだけというか、他人からの借り物で自分のものになっていないというか。もう出来上がっている大きな大きな歯車なかで生活されていることに多少の疑問がいくつも浮かび上がることはあれど、どうせ答えは出ないだろうと思って突き詰めない、あきらめてしまっている。あるいは答えが出ないことが正しいと思っている。そんな感じでしょうか。

 別に文化を壊す必要はないと思います。でも、ブッダや達磨大師(だるまだいし)三蔵法師(さんぞうほうし)たちが至った“悟り”とは何かを現代風に突き詰めてみて、自分自身も悟りを開き、文化を壊すことなく可能な範囲で正法(しょうぼう)を行う(正しい教えを説く)というのはアリだと思います。

 では、比較的新しい新興宗教を私がのぞいてみてどうだったのかというと、人を癒やすという部分では非常に大きな役割を果たしておられると思いましたが、そこにいれば“悟れる”感じはしませんでした。まあ、表面しか触っていませんので何とも言えないですけど。

 でも、これは持論ですけど、現代は情報が溢れている時代と言われていますから、ひとつの教えに固執(こしつ)するよりも可能な範囲で色々なジャンルの精神世界系の本を読んだり、さまざまな大家(たいか)の方々の話を聞いてみたりするほうが良いと思います。そのほうが経済的にも優しいと思います。ただし、別に悟りたいと思っていない人たちはそんなことをする必要は全くないと思います。

 これは何度もお話してきましたが、悟りなんて別に開かなくても立派な人生は歩めると思います。もしあなたの人生に悟ることが必要であれば、何かに導かれていくようなことがあると思いますし、そういうのが無いなら無視でいいと思います。数多(あまた)の山道は必ず同じ頂上に辿たどり着きます。野球が好きなひとは野球道を歩めばいい。プロになんてなる必要はありません。草野球でも学べるものはいっぱいあります。草野球でしか学べないこともいっぱいです。マンガ道でもキャンプ道でもカメラ道でも何でも良いと思いますし、色々組み合わせて自分の好きなようにアレンジして道を切り開いて行っても良いと思います。それはどこまでも自由です。悟りを開いていく道とそれらに違いや、ましてや優劣なんてありません。全部同じ道です。

 私が歩んでいる道は夫婦道とか子育て道とかプロマネ道とかエンジニア道とか他にもあるわけですけど、今回は悟りを開く道についての話をしているので、そこに話を戻したいと思います。

 悟りを開きやすい場所ですが、それは無い気がします。あまりひとつの場所や本、教えにこだわらず、真実を求めようとするために色々手を出すことが重要な気がします。ブッダや達磨大師だるまたいし三蔵法師さんぞうほうしがもし現代に生きるとしたら、自分の手に届く精神世界系の情報は全て目を通すことをすると思います。三蔵法師なんて、身の危険を冒してまで真実に手を伸ばそうとした人です。現代に生きていれば、プロテスタントもカトリックも仏教も儒教も関係ありません。全てに目を通したいと考えている人間のようにも見えます。真実に辿り着いてから、さらに理解を深めつつも今度はアウトプットを行っていく。情報のインプット→悟りを開く(世界の真実に気付く)→アウトプットを世間にしていくのが、正しい流れだと私は考えます。悟る人間なんてそうそういないと思いますので、悟ったらさらにもっと深く潜りつつも、アウトプットをどんなに小さな世界に向けてでも良いからやっていくのが悟った人の使命なのではないかと私は考えています。初めは借り物の言葉をいっぱい使っていいと思います。でも、自分が悟りを開いているという自覚があるのであれば、だんだんだんだん自分の言葉で、自分にしか作れない話で、文章で、この世で一緒に個となった仲間たちに向けてエールを送るのが良いと思います。

 昨年2020年の夏から吐き出したいものをつらつらと書き出して、2021年の年初からなろう系で公開し始めました。開始当初はやっぱり世界の片隅まっしぐらでしたが、信じられないことに急に爆発的に読者が増え、この分だと世界の片隅へ行くのはもう少し先になりそうです。この文章を見つけて下さったみなさまのおかげです。本当に有り難うございます。

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