5 デボラ妃殿下
「本日は、ラント歴454年8月末日でございます」
前回同様、下女は真顔で応えてくれる。
3年前か。
高等部が明日から始まるのか。
そう言えば、背や四肢の肉に違和感がある。少し華奢だ。
私が高等部に入ってから、鍛錬のおかげか成長期だったのか、背が伸び筋肉が付いた。それを母は満足げに
「お父様を越えてしまったわね」
と微笑んだものだ。
本当は、父ではなく、兄をと言いたかっただろうが。
私の父には妻が二人いる。
側妃のセリア様は、父の婚約者だった公爵令嬢の侍女を勤めていた女性だそうだ。出自が古い伯爵家だったので、お祖母様が母の侍女に登用した。
その時に、父に見初められ、側室となった。
「セリアは私に忠実だったし、今も誠実よ。
セリアの様なこの国らしい女が王家には必要だったと言う事よ」
母の内心は、私には測れないが、私だったら深く傷ついただろう。信頼していた侍女が夫を奪ったなんて。
セリア妃殿下は、40代後半だと言うのに、今だ華奢で美しい人だ。瑞々しい、という言葉がぴったりで、柔らかな微笑と物静かな風情が、慎ましい賢夫人と評価される人だ。
だからこそ、母より先に男子を産んだセリア妃がお祖母様に気に入られ、その息子である兄デュランがお祖母様贔屓であるのも、致し方ないのだろう。
私の母デボラは、里の国の第二王女だった。
母の国は、直系長子が継ぐ。それが男でなくとも、ひ弱であっても、揺るがない。
里の国では、王とは国のシンボルであり広告塔であり、国の諸侯を繋ぐ存在なのだから。
里の国では、性による地位の区別が曖昧で、女性が強い。そんな国で育った母は、気が強く自信家で、陽気で利発で、人の上に立つことが当然という姫だった。
(エラントでは、浮いただろうな)
国同士の利得で結ばれた婚姻だったが、父は母に夢中になったと言う。
母もそんな父に絆されて、相愛となった。
政略には珍しい。
だから、何故、この国の男としては珍しい程、母を尊重している父が、母の懐妊中にセリア妃を見初めたのかは、私には理解出来ない。
同じ年に兄デュランと、私の姉が産まれているのだから、その事実を不実と呼ぶに相応しいだろう?
「私はあくまでも側室の子。ジェイを支えていく人生に迷いはないよ」
そう言うデュランは、母親に似て、謙虚で聡明な人だ。
しかも、見た目は、父たる王太子によく似ている。
そのため、幼い頃から、兄こそが、という人が絶えないのだ。
私と兄は、そんな空気の中で、比較され、期待され、育ってきた。だから、母が口に出さなくとも、母がどんな物差しで私を見ているかは、自ずと理解していた。
「明日から高等部が始まるのね。精進なさい」
まだまだ残暑が厳しいが、この北側のテラスは、鬱蒼とした木々と苔むした地面のせいか、覆いさえあれば過ごしやすい。
母は執務の合間に、アフタヌーンティーでもてなしてくれた。
30代も後半となった母もまた、セリア妃同様時が止まったかのような容貌だ。私の幼い頃から、変わることの無い艶やかな黒髪と紅玉の瞳。陶器に例えられる肌は輝くようで、私は母が誇らしかった。
「ありがとうございます。おば様のお言葉には、いつも背を押される心持ちですわ」
無邪気なロゼッタが嬉しそうに応える。おや、ロゼッタは15の時はそばかすがあったんだな。
「本当に……王太子妃殿下のお姿を目標に励みます」
柔らかなアルトの声は、フランカ。
……最後に見たフランカは、私に糾弾されても、その居住まいを崩さす、美しかった。
その時より、少しだけふっくらとした少女は、そう言って母に微笑んだ。
「フランカ、貴女が新入生代表となるのね。首席入学おめでとう」
「……女の身で恐縮です」
「学業に女も男もないわ。私はね、これからはエラントも女性が活躍して欲しいの。王家の嫁が聡明なのは結構な事よ」
母はそういってフランカを励ました。その言葉に偽りはないだろうが、デュランが常に学年首席であったのだから、私に対する落胆は心根にあるだろうな、と思いながら、ティーカップに口をつけた。
「ジェイったら、もう生徒会に引っ張られてるんですよ。お陰で私まで捕まっちゃいましたわ。ねえ、ジェイ」
ロゼッタが話題を振ってきた。彼女なりの気遣いだと悟って、苦笑いした。
覚えている。
この時、私は、劣等意識から、学業が全てではない、私は生徒会で人心掌握の腕を磨くのだ、などと応えて……
母の落胆の表情を引き出してしまった。
今思えば、恥じ入るばかりだ。
たかが生徒会の長。王子であれば学院が配慮して就ける立ち位置だ。父も伯父もデュランも会長職をこなしていた。言わば王家の学生の名誉職なのだ。
三人の関心が私に向いた所で、私はカップを置いて答えた。
「……学業を疎かにせず、フランカの隣に立つ者らしく邁進します。
加えて、父が始めた歳となりましたので、進講にて帝王学を学びたいと思います」
母はゆっくり深く頷いた。
「そうね。フランカ、貴女も妃教育を始めましょう。二人の成長が楽しみだわ」
茶会はお開きとなり、ロゼッタが嬉しそうに
「おば様、お喜びよ。ジェイ、あなた反抗期が終わったのかしら」
と、私の腕をポンポンと叩いた。
そんなにこの頃の私は態度が悪かっただろうか?
そんな気持ちでいると、視線を感じた。
フランカがじっと私を見ていた。目が合うと、微笑むとも哀しむとも判ぜられない表情を浮かべた。
(……?)
明日は入学式。
リルに初めて会う日だ。




