24 図書室の恋人
あの王子はね、まだ私に未練一杯なの。でなきゃ階段の一件で私を断罪してるわ。これ以上私とあまりに親密になると、公爵の娘が黙ってはいない、王家が動く、彼はそう察してわざと冷たくしてるの。
この私が、あんな済ました女に負けるわけがないでしょう?
みんな、私の方が、魅力も知性もあるって言ってるわ。
貴族が何?
家名がなけりゃ、あんな女。
……私、やり遂げるわ。
叛乱の女神として、先ずは王家を陥落させる。
王家の傲慢と放蕩と堕落を知らしめてやるわ。あの王子を含めて、ね。そりゃ、私だって、好みがあるのよ?……きちんとした常識と、公正な振る舞い、高潔な精神……そんなお方に憧れるわ……
でも、生まれついた美貌を活かせと、その方が仰るのですもの。
王子には、何がなんでも私の虜になってもらわなきゃ。
今はぐらついているあの女への思いをズタズタにしなくちゃね。
邪魔な者には、消えるか汚名を被って、罵られそしられる宿命が待っているの。
……大丈夫。貴方を含め、皆さんには迷惑をかけない。全ては私が。
気になさらないで!
私はこの世を正すために、殉ずる事を自ら選んだの……
空気が動いて、無音となっても、私はしばらく動けなかった。
空腹なのに、吐き気がする。
(……殿下)
随行が、かくれんぼから出て、私を案じているが、それでも私は覆った口の震えが収まらない。
我知らず、私は泣いていた。
悲しいのか?
哀れんだのだ。
以前の私を。
あんな女にホイホイと籠絡されて、一人の人間として男として、女神を得たと舞い上がっていた王子のことを。
怒っているのだ。
そんな女が、王家=専横な堕落した一族と見なし、国の悪となし、突き崩さんとしていることを
王が……そして父が、どれほどの欲や我を押し殺して、その役を全うしている事か!
リル、お前の言う正さねばならない世に、どれだけの美しく良き人々の平穏があると思っているんだ!
(……そっちがその気なら)
受けて立つよ。
事件なんかおこさせるもんか!
ふうっと一息吐いて、随行に視線を合わせず
「参る」
と告げた。
フランカに会わなくては。
久しぶりの学校には、課題やレポートが逃げずに待っていた。
……先生方、意地悪だわ。
お義父様のおっしゃる通り、このまま辞めればよかったかしら。
そんな考えがよぎる。
(……どうせしがない公爵令嬢。
バルトーク家に相応しい男性が見つかれば、結婚して家を守るんだわ。ロゼッタとしての価値なんか、これっぽっちもないんですもの)
昔から。
私はフランカの引き立て役。同じ金髪でも私の癖のある銀に寄った金髪は、まるで太陽の後ろの月みたい。
そばかすは、高等部に入って、淑やかに!と叱られて、早駆けとか球技とかを控えさせられて、薄くなった。それでも、フランカの陶器の様な肌を見ると、自分の肌が出来損ないの素焼きに感じる。
好ましい殿方なんて、現れなかった。
ジェイは馬鹿だけど顔は誰よりも私好みだったから。
ジェイは馬鹿だけど、食事の作法が綺麗で、歩いたり座ったりの姿勢も美しい。
ジェイは馬鹿だけど、声がよくて、得意な語学では朗々と外国の詩を詠じる姿は吟詠詩人のよう。
ジェイは馬鹿だけど、地頭は良くて、勉強はやれば出来て、早駆けも追いつけなくて、
ジェイは馬鹿だけど、
(フランカの婚約者なのよ……)
フランカはどうしちゃったのかしら。
婚約が決まってから、あの子は聡いから、決して私を蔑ろにはしなかった。決してジェイに馴れ馴れしくしなかった。
そのうち、二人とも、将来の為の進講や教育が始まって忙しくなった。
中等部からよね、ジェイが反抗期になっちゃって。
反抗期から馬鹿になったのよ。
フランカは、気高い淑女に邁進したわ。本当に、あんなに優しくて賢くて綺麗な人、間近に居てもドキッとするもの。
そして、高等部。
リルのご登場。
ジェイの馬鹿に、色ボケが加わって、不満の矛先が、フランカに向かって……
結局、あの馬鹿は、劣等感でフランカを退けたんだわ。それなのにフランカは不平一つ言わずに。
もう、どうして私が、ってくらい、二人に気を使って取り成して、取り持って。
やっと馬鹿が目覚めたというのに、フランカに優しい目を向けて、嬉しそうにしてるのに、フランカの目はなんだか哀しそうで。相変わらずの距離で。
私なら、もう、腕をとってくっついちゃうわよフランカ。
「……うわ、不毛」
(ホント、私、このまま卒業していいのかしら。恋のひとつもなさないで、決められた結婚をするのかしら)
そんな不毛な事を巡らしていたら、図書室に着いてしまった。
午後の作法の授業はおサボり。たまった宿題をやっつけたいと思ったのだ。
そっと重い扉を開ける。さすが図書室、音もなく開いて閉まる。
毛の長い絨毯は、足音も掴んでくれる。私は司書様に一礼し、奥へと進んだ。2,3人の学生が静かに読書や調べ物をしている。授業のおサボりが目立たないように、もっと奥に陣取ろうかと、目を遣ると
(フランカ)
私は声を飲み込んだ。
そこにいるフランカは、私の知っているフランカではなかった。
図書室の閉架室との間の閲覧室。
一人フランカは、立ったまま一冊の本を読んでいた。
その微笑みは幸福そうで、柔らかく細めた目に金の睫毛が金の影を落していた。午後の日差しが分厚い窓ガラスからやわやわと揺れて落ち、フランカの金髪に照り返る。
光に縁取られた頬は、ほんのりと桜色。僅かに上がった口角が艶やかな唇から少しだけ影を作る。
愛おしい。
そんな表情だった。
そのほんの少し傾けた額も、大事に大事に本を持つ手も、そして、
本の頁、多分文字を……ゆっくりと辿る指も……。
(何の本かしら……)
閉架図書だわ。黒い革張りの装幀は、論文集?
そんな、お堅い書物に、あんな表情になるかしら……
ひらりと頁を捲ったフランカは、またゆっくりと文字を指で追い、端まできたのか、ぴたりと指を止めて、
くるりくるり、と指を動かした。
なぞり書き?
そして、程なく
自分の唇に二つの指を当てて、その箇所にそっと戻した。
(キスを……文字に)
文字、文字?
フランカは、ほう、と薄く息をつき、その本を閉じた。表表紙の金字の〈E〉が、白く長い指の合間から見えた。
そして、閉架室の扉を開けた。本を戻しているようだ。
私がフランカに声をかけようと前に一歩出ると、くん、と後ろに引っ張られた。
(……?)(しーっ)
や……ジェイ?
びっくりしたけど、声を出さず私たちは書架の影に隠れた。
(ちょっと、我慢して)
……やだ、ジェイの胸元に。
男の方に!こんなに接近して!
それがよりにもジェイだなんて。
しばらくして、金の髪を揺らしてフランカが入口へと向かう姿を確認した。その横顔は、いつものフランカ。随行が待ち受けて、扉が開いて閉まった。
「……何故?」
「何故かな……邪魔しちゃいけない気になって」
私達はこそっと話す。授業が始まるのか図書室の学生は私達だけとなった。(随行は別)
「あの子、何してたのかしら」
接近しすぎた距離から遠のき、話を進める。でないと、今の顔色をこの馬鹿は揶揄うに違いない。
「ここで、卒業論文を閲覧しているって、聞いて探しに来たんだが」
「卒論?」
……確かに、あの黒革表紙は、普通の本ではなく、手作業で綴じた冊子だった。
あれは、卒業生の論文集だったのか。
「そろそろテーマを決めるだろう?ヒントが欲しいと言ってた、とお友達が」
「……探しましょ!Eって見えたわ」
私は閉架室の戸をあけて、電灯を付けた。戸は開けたまま、ジェイを呼ぶ。
「Eって、エミリオ?お兄様の論文でも探したのかしら」
「何年のかな。十年分はある」
適当に手をとると、それらは手書きの論文をそのまま綴ったものだった。家名の順に並べられ、一人一人論文の最後に、本人の署名と、担当教授のサインが記されていて。
(……あ)
これだわ。
一冊だけ、僅かにずれて背が出ている。
黒革の、E……三年前。
三年前!
「見せて、ロゼッタ」
「いえっ!いいじゃない。じゅ、授業に行きましょ、ねっほら時間が」
「見せて」
……ああ、守護精霊さま!
ジェイは、その本を手に、パラパラと捲った。そして確実にその頁を開いた。
「ロゼッタ」「は、はい?」
ジェイは、小さな小さな吐息を洩らし、あんな風に笑えるんだね、と、寂しそうに呟いて、
「誰にも言ってはいけないよ」
「ジェイ、あの」
「フランカにも尋ねてはいけない」
「……」
ジェイは、にこっとして、
「大丈夫。散々放蕩した私が、何かを言える筈がないだろう?人には触れてはいけない領域がある。私たちは偶然それを知ってしまった。ならば、忘れることが友愛の示し方ではないかな」
だけど、ジェイ、貴方……
貴方、フランカの婚約者なのよ?
ジェイが手にした頁には
『デュラン-エル・エラント』
の署名が、流麗に記されていた。




