8:身売り
アリスを身売りする。
父さんはそう言ったが、俺は、すぐにはその言葉の意味を理解することができなかった。やがて、その言葉の意味を理解したとき、俺は絶句した。
「と、父さん……冗談だろ……?」
「いいや、冗談じゃない。本気だ」
「身売りって……つまり、アリスを売るってことかよ!」
「ああ、そういうことになる」
「そ、そんな……」
「…………」
俺は言葉を無くし、父さんは無言になる。辺りに気まずい沈黙が流れる。
今、この家には俺と父さんしかいない。アリスと母さんは街まで買い物に行っている最中だ。やがて、父さんが言い訳をするように弁明の言葉を口にした。
「アリスはまだ子供だが、女だ。幸いなことに、腐敗病を患っていたのにほとんど身体に傷もないし、見た目も他人と比べて、悪くない。このまま成長すれば、それなりの女になるだろう」
そう言って、父さんは俺の右目の眼帯を見た。
たしかに幸いではあるかもしれない。しかし、それはアリスが物として傷が付いていないという意味での幸いだ。俺は、内心、強い憤りを感じて、父さんに食い掛る。
「……なにが言いたいのさ」
「アリスの見た目なら金持ちに買われるかもしれないと言っているんだ。少なくとも、女である以上、労働力としての魅力はない、今より過酷な労働はさせられないだろう」
「ああ、そうだね! でも、アリスは女の子だよ! 最悪の場合……」
その先の言葉を言うことは躊躇われた。
最悪の場合、娼婦として買われるかもしれない。この一言を口に出すことができなかった。
いや、そもそも、もし運良く金持ちに買われたからといって、女中として扱われる保証なんてどこにもない。運が悪ければ、買った人の慰みものとして扱われるかもしれない。
「それでも、この村で暮らしているよりは幸せさ」
父さんは俺の心を見透かした様子で、そう言った。それが、また、癇に障った。
「そんなわけないだろう!」
「じゃあ、どうするんだ!」
「!」
父さんが声を荒げた。その途端に、俺は驚き、萎縮してしまう。
「このままじゃあ、家族全員が飢え死にするだけだぞ!」
「で、でも……」
「他になにか方法があるのか! あるなら言ってみろ!」
「…………」
俺はなにも言えずに黙りこくってしまう。
今年は酷い凶作だ。畑の作物の実りも悪く、国中の人々が飢餓に苦しんでいる。我が家のぶどうは比較的実りがいいが、それでも例年と比べると収穫量が少ない。
「金が必要なんだ。生きるために……」
しかも、それに加えて、先日の納税についての改正。昨年よりも収穫できるぶどうが少なく、売り上げも少ないのに、政府が取り決めた納税額を納めないといけないのだ。せっかく、シンディにぶどうを買ってもらえたのに、それでも、まだ、金は足りなかった。
「頼む、わかってくれ。母さんとも話して決めたことなんだ」
「母さんも賛成したの……?」
「……ああ。母さんも辛いんだ。もちろん、父さんも辛い」
「そんな……」
「俺たちだけが生きるためにアリスがいなくなるんじゃない。家族皆が生きるために離れ離れになるだけだ」
「…………」
反対することができなかった。反対に代わる対応策を持っていなかった。
俺は言い返すことができなかった。
「それがアリスのためだ」
「…………」
こうして、アリスの身売りが決まった。
・・・・・
その日の夜、家の近くを流れる川を眺めていると、アリスがやってきた。
「お兄ちゃん」
「アリス……」
「どうかしたの? 最近、変だよ? お兄ちゃんも、お母さんも、お父さんも」
「…………」
「ご飯のときも、皆、暗い顔したまま、黙って、食べてるし」
「…………」
そのときの様子を思い出す。まるで鉛のような飯を食べているかのようだった。
アリスには自身の身売りのことを伝えていない。父さんが言うには、明日、身売りの行商人が引き取りに来るらしい。アリスと一緒にいられるのは、今晩が最後だ。
俺はアリスを見た。兄としての身内贔屓を抜きにしても、アリスは器量が良い。今は可愛いという表現がよく似合う少女だが、数年後には美しいという表現がよく似合う女性に成長するだろう。性格だって、気が強く、お転婆なところはあるが、心は誰よりも強い。そして、なによりも、他人を想い労わる優しい心を持っている。俺にとってアリスは自慢の妹であり、大切な家族だった。
なにもかも、あらいざらい、話してしまいたい。そんな衝動に駆られた。
アリスを助けたい。本気でそう思った。
「アリスっ」
「?」
「じ、実はな……」
「実は?」
「…………」
「本当にどうしたの? あ、もしかして、お母さんやお父さんと喧嘩でもした? だから、皆、いつもと違うの?」
「ち、違う……そうじゃない……」
「あれ? 違うの? うーん……じゃあ、シンディとなにかあった?」
俺は首を横に振った。
「それも違うの? えー、じゃあ、もう、わかんないよ」
「……アリスは」
「ん? なに?」
「アリスは、うちに生まれてきて、幸せだったか?」
「どういう意味?」
「こんな貧乏な農家の家に生まれるよりも、どこかお金持ちの家に生まれたかったとは思わないのか?」
「うーん……そんなこと考えたこともないかな。あ、でもっ」
アリスは少し考えてから言った。
「私が生まれたのは、この家なんだし、この家以外で生まれたら、わたしはお兄ちゃんの妹じゃないよね? それって、わたしなのかな? わたしは違うと思う」
「…………」
「生活は大変だけど、皆が、お兄ちゃんが、お母さんが、お父さんが、シンディがいるから、わたしはがんばれる。わたしは幸せだよ」
「…………」
俺は下を向く。
心の中で、自問自答の声が聞こえた。
お前になにができる?
なにができるかじゃない、やらないといけないんだ。
俺がアリスに身売りのことを話すのは、ただの自己満足じゃないのか?
たしかに自己満足だ。
アリスを身売りさせないで、どうやって、税を払う?
それは……。
お前が、自分を犠牲にして、身売りするのか?
…………。
……それは嫌だ。
ああ、本当に、俺は最低で駄目なやつだ。
俺は心の中でアリスに謝罪した。
ごめんなさい。信じてくれているのに、守ってあげられなくて、ごめんなさい。
弱くて、ごめんなさい。
心の中で何度も謝り、泣いて縋った。
結局、俺はアリスに伝えることができず、夜が明けた。
・・・・・
次の日の昼間。
昼食の準備をしていると、扉を叩く音が聞こえた。家にいたアリス以外の、俺、父さん、母さんは扉を叩く音が聞こえたとき、驚き、心臓がざわつき、動悸が激しくなった。
ついにきた。
「はーい」
たった1人、何も知らないアリスが陽気な声で返事をして、扉を開けた。
扉を開けると、そこには見知らぬ男が2人。2人は家に入り、父さんと母さんに軽く挨拶をしてから、父さんに少しだけ膨らみのある小さな麻袋を手渡した。
いくら入っているんだろう。そう考えると、少しだけ、興奮した。
やがて、2人のうち、1人がアリスに言った。
「じゃあ、行こうか」
「え、わたし? どこに?」
「とりあえず、近隣の大都市かな? 王都に行くかもしれないけど」
「あの……なんで、わたしがそんなところに?」
「君を売るためさ。君、売られたんだよ。家族に」
「え?」
アリスは間延びした声を上げて、笑った。
「あはは、変な冗談やめてよ。ねぇ、お母さん」
「…………」
母さんが目を逸らした。
「……え?」
今度は不安と恐怖を含ませた声を上げて、狼狽する。
「う、嘘だよね……?」
「…………」
「…………」
「…………」
アリスが俺たちのことを見てきた。しかし、誰も、アリスと目を合わせようとしない。
「お、お父さん? お母さん? お兄ちゃん?」
「……すまない、アリス」
「お父さん? なんで? なんで謝るの? 冗談なんでしょ?」
「恨むなら父さんを恨んでくれ。だけど、これだけは信じて……」
「嘘でしょ! 嘘だって言ってよ!」
突然、アリスが叫んだ。その声は悲痛に満ち溢れていた。
「なんで! ねぇ、なんで! なんでなの!」
アリスの顔が絶望に歪む。しかし、アリスの問いかけに答える者はいなかった。
やがて、2人の男がアリスの腕を掴んだ。
「おら、行くぞ」
「いや、はなして!」
男が力ずくでアリスの身体を引っ張る。
「いや!」
「いい加減にしろ! もうお前の代金はお前の家族に払ったんだよ! 諦めろ!」
「!」
目を見開き、俺たちをみる。
小さな麻袋を持つ父さんの手が後ろに回った。それを見たアリスは絶望した様子で泣き叫んだ。
「おら、さっさと来い!」
「いや! お兄ちゃん、助けて!」
「…………」
耳を塞ぎたかった。でも、それはできない。
これは罰だから。妹を裏切った罪への罰なのだから。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃんっ!」
何度も俺を呼ぶ声が聞こえる。しかし、俺は聞こえないふりをした。
「お兄ちゃんっ!」
無理矢理、外に連れ出される瞬間、アリスが俺たち、家族を見た。
その顔は、憎悪に満ちた表情をしており、唇からは真っ赤な血が出ていた。
「畜生っーーーー!」
家の外から、憎しみにまみれた慟哭が聞こえた。
残ったのは、女の子1人分の端金とそれを大切そうに扱う3人の屑だけだった。
・・・・・
その日の夕方。街まで納税に行っていた父さんがパンを買ってきた。
母さんは、泣きながら嗚咽を漏らしながら食べていた。腹を痛めて生んだ実の娘を捨てた母親は、何度も「ごめんね」を繰り返し呟いていた。
父さんは決して食べなかったが、その顔は苦痛で歪んでいた。血を分けた実の娘を売った父親は、娘を売った金で買ったパンは食べないが、その金で税金はしっかりと納めてきたらしい。
俺は貪るように食べた。
美味しい。涙が止まらない。心の底から美味しいと思った。
固いのに。もっと柔らかくて美味しいパンは、前世であんなに食べたのに。パンを、いや、食べ物をこんなにも美味しいと思ったのは初めてだった。俺は、ただひたすらに貪り、食した。
このパンの味を、俺は生涯忘れることはないだろう。
妹を犠牲にして、得たパンの味を。
第一章 ただ、そこにいる俺 了