26:今世
俺とアリスを乗せた馬車が村へと到着した。
馬車を降りて、自分たちをここまで運んでくれた馬車が踵を返して去り行くを見届けた後、俺たちは自分たちの我が家に帰るために歩き出した。
今後のことについては馬車に乗っている際、アリスに話した。俺とマリアが地方の農村で小さな料理店を営みながら一緒に暮らしていることを伝えた上で、アリスも一緒に暮らさないかと誘った。当初は俺の誘いに同意することを渋っていたアリスだったが、自分にそれ以外の選択肢が存在しないことを理解していたアリスは最終的には俺の誘いを受け入れた。
20年もの間、牢獄に入れられていたアリスは生きていくための人生経験、言い換えれば、生きていくための知識や技術を持っていない。それに、長い間、最低限の食事しか与えられず、十分に身体を動かすこともなく、満足に太陽の光を浴びることすらできなかったアリスの身体は酷く衰えており、自分一人の力だけで生きていくのは不可能であったからだ。
我が家への帰り道。
俺はマリアに早く会いたいという逸る気持ちを抑えながら歩く。対して、隣を歩くアリスの表情はどこか暗く、強張っており、マリアと会うことに緊張と不安を感じているように思えた。
「アリス、大丈夫か?」
「なにが?」
「いや、ずいぶんと緊張しているみたいだから……」
「別に大丈夫よ。私は、いつもどおり、いつもと変わらないわ」
「それならいいけど……」
「なに? 私のこと、そんなに心配なの?」
「正直、かなり……」
「余計な心配しなくていいわよ。心配するなら、私じゃなくて、相手の方……そう、マリアとかいう人のことを心配してあげたら?」
「うーん……マリアのことは心配してないかな。俺なんかより、マリアの方がよっぽど精神的に強くて、逞しいし」
「ずいぶんと彼女のこと、信用しているのね?」
「まぁね。俺にとって、マリアは家族みたいなもので、大切な人だから」
だから、本当の家族であるアリスも、俺の大切な人と仲良くしてほしい。
俺たち、3人、皆で、家族になれたら。
それは、俺の我儘でしかないのかもしれないが、そう願っている。
「これから一緒に暮らす家族なんだ。マリアと仲良くしてくれよな」
「……わかってるわよ。私だって、もう子供じゃないし、上手くやるわ」
そう言って、歩みを早めるアリスの横顔からは虞が感じられた。たとえ、自分の感じている緊張や不安を隠すための強がりだったとしても、アリスの言葉には棘が含まれており、愛想が良いとは言えなかった。
アリスとマリアは仲良くなれるだろうか?
そう考えて、心配してしまう自分がいた。
・・・・・
やがて、我が家が見えてきた。
無意識のうちに安堵の溜息を吐く。すっかり、この村が俺の故郷となり、あの家こそが俺の帰るべき場所となっていることを改めて実感することができる。俺は帰るべき家があるという事実に喜びを感じながら、家の中へと入っていた。
「ただいま!」
「あら。ジョン、おかえりなさい」
家に入ると、店内の掃除をしていたアリスが、いつもと何も変わらない態度で接する。そして、俺の半歩後ろに立つアリスを見て、マリアは皮肉を込めたような口調でアリスに話しかける。
「あら、久しぶり」
「お久しぶりです」
アリスとマリアが互いに挨拶を交わす。
「20年ぶりかしら?」
「ええ。ようやく出ることができました」
「どう? 長かったかしら?」
「ええ……いろんなことが全部どうでもよくなっちゃうぐらい、長かったです」
「そう。お務めご苦労さま」
「はい……あのときはありがとうございました」
「あのとき、言ったでしょ? 別に、あんたのためじゃないわよ」
「それでも。今、私が生きているのは、お兄ちゃんやシンディだけじゃなくて、あなたのおかげでもありますから。だから、一応、ありがとうございます」
「……どういたしまして。やっぱり、兄妹ね、あんたたち」
マリアはなぜか苦笑気味に笑いながら答える。
「それにしても……」
そして、アリスの全身を無遠慮にじろじろと見つめる。
「あんた、ずいぶんと痩せ細った身体してるわね。骨と皮だけでガリガリじゃない。それに肌も青白いし、まるで骸骨みたいよ?」
「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫です。自分の身体のことは自分が一番よくわかっていますから」
「ならいいんだけど」
そう言ってから、今度は俺に話しかけてくる。
「ジョン、帰ってきて早々悪いんだけど、お願いしていいかしら?」
「いいよ、なに?」
「今日、お店でザワークラフトを提供するから、そのための野菜を畑から収穫してきてほしいのよ」
「ああ、なるほどね。いいよ」
「ありがとう。あと……これも、帰ってきて早々悪いんだけど、今日から、すぐに厨房に入ってもらっていい?」
「いいよ。ずっと、マリア1人に任せちゃってたしね。すぐに準備して入るよ」
「ありがとう。その間に、お店の開店準備はしておくから」
「わかった。じゃあ、すぐに行って、戻るから」
「お願いね」
結局、3人で話す時間もほとんどないまま、俺はアリスのことをマリアに頼み、若干の不安を感じながらも、荷車を引いて、自分たちの畑へと向かった。
・・・・・
「さてと……アリス」
「はいっ」
「その上辺だけの丁寧な態度、気持ち悪いし、個人的に不快だから、私にはしなくていいわよ」
「…………」
「私も昔から、それこそ、今でも店の客相手にするから、なんとなく見抜けるのよ。だから、やめてちょうだい」
「わかったわ」
「ありがとう。とりあえず、あんたの部屋は2階の物置部屋を整理してつくったから、そこを使って。それと、あんたのふくなんだけど……」
「マリアさん」
「?」
「……なんで?」
「なにが?」
「なんで、あなたは、昔も今も、私を助けるの?」
「…………」
「私……あなたが一番理解できなかったわ。私は……」
「私は、あなたとは何の関係もないのに? ごもっともな話よね」
「なら、どうして……」
「さっきも言ったじゃない。私があんたを助けたのは、あんたのためじゃなくて、自分のためだって」
「……どういうこと?」
「ジョンとは、もう20年以上も一緒に暮らしていて、私にとって、もはや家族みたいなものなのよ。それに、シンディとはもう長いこと会ってはいないけど、私が学校の食堂で働き始めた頃からの親しい友達だし、なにより、シンディには大きな恩があるわ」
「だから、私のことを助けたっていうの……?」
「そうよ。私は、自分と親しいジョンやシンディの、あんたを助けたいっていう気持ちを配慮して、あんたを助けたし、今回も助ける。ただそれだけのことよ」
「…………」
「ところで、アリス」
「なに?」
「最初に、ふたつだけ、言っておくわよ」
「…………」
「ひとつめ。あんたと一緒に暮らすのは構わないけど、ここで暮らすなら、その分、ちゃんとこの店で働いてもらうわよ。うちには穀潰しを養う余裕なんてないし、私にそんな趣味はないから」
「わかってるわ……自分の食い扶持は自分で働いて稼ぐわ」
「そう、いい子ね。頑張って働いてちょうだい」
「それで、ふたつめは?」
「簡単なことよ」
「…………」
「ふたつめ。私、あんたを甘やかす気はないから」
「……それって、どういう意味よ?」
「私とあんたの関係は、今はただの赤の他人よ。あんたがジョンの実の妹でも、シンディの義妹でも、罪を犯した犯罪者でも、そんなこと、私には関係ないわ」
「……?」
「悪いけど、私、あんたが何者でも、態度や付き合い方を変える気はないわよ」
「……!」
「私は、私の目であんたを見て、あんたを評価・判断するわ」
「…………」
「それでいいわよね?」
「……いいわ。それで、いいわ」
「じゃあ、決まりね」
「ええ……マリアさん、私、結構、あなたのそういうところ、好きかもしれない。私、意外と、あなたと仲良くやって行けそうな気がするわ」
「あらそう、よかったわ。まぁ、これからよろしくね」
「はい!」
・・・・・
俺が畑から野菜を収穫して家に帰ってくると、店の中で、予想だにしていなかった光景が広がっていた。
アリスとマリアが楽し気に会話している。
2人とも本当に楽しそうだ。そこに悪意は感じられなかった。
驚きのあまり、俺は扉を開けたまま、そこに立ち尽くしてしまう。
「あら、ジョン。おかえり」
「あ、ああ……ただいま」
「おかえり、お兄ちゃん。今、マリアに店の雑用を教えてもらってたの」
「ああ……ずいぶんと仕事熱心だな、今日くらい、休んでてもいいんだぞ?」
「いいのよ。だって、私も早く店の仕事をを覚えて、役に立ちたいもん」
「そ、そっか……」
「ジョン、もうすぐ開店時間になって客がくるから」
「ああ、わかってる」
「それと、ジョン。今日の夕食もついでに作ってちょうだい。私と、アリスと、ジョンの分で3人分ね」
「はいはい、わかったよ」
そう言って、厨房に入る。
アリスが笑い、シンディが笑い、俺も笑う。
2人が仲良くなれるか心配だったけど、その心配は杞憂だったようだ。
あの2人、意外と気が合いそうじゃないか。
俺なんかより、ずっと仲が良さそうじゃないか。
そう安堵しながら、また、俺は笑い、さっそく仕事に取り掛かった。
・・・・・
その日の夜。
最後の客が店を出た後、俺たちは店を閉めてから、ようやく一息つくことができた。
客がいなくなり、静まりきった店内で、すっかり遅くなった食事を食べる。
久しぶりに身体を動かしたという事実に加えて、慣れない仕事に従事していたアリスは肉体的にも精神的にも疲れ切ってしまったのだろうか、ほとんど食事を食べずに、そのまま、マリアの用意してくれた部屋に入り、眠ってしまった。
食事の後、俺とマリアは片付けをしてから、なんとなく、外に出て、外の空気を吸いたいと思い、外に出た。
外は夜風が心地よく吹いており、ほどよい涼しさを感じさせてくれた。
俺たちは店の近くを流れている川のほとりに座り、静かに夜空を見上げる。
空には満天の星々が広がり、その中央には満月が浮かんでいる。
しかし、俺は夜空の星よりも隣に座るマリアの横顔に心を奪われてしまう。どんな綺麗な星空よりも、どんな見事な満月よりも、今のマリアの美しさには勝てない。本気でそう思った。若い頃ならいざ知らず、すっかり中年となったマリアを見て、そう思ってしまうなんて、我ながら、重症だと思った。
夜空を見上げていたマリアが唐突に言った。
「月が綺麗ね」
その言葉を聞いて、俺は思わず、ほとんど反射的に言った。
「死んでもいい」
しかし、マリアは俺の返事の意味がわからず、怪訝な様子で俺を見つめる。
「あ、いや、冗談だよ、冗談」
なんだか気まずくて、俺は弁解しながら苦笑いをしてしまう。
当たり前のことだが、マリアが自分や俺が言った言葉の意味を知っているわけがない。そう思うと、なんだか自分が滑稽に感じた。
大きな溜息を吐く。
「ジョン」
マリアが俺の名前を呼ぶ。
顔を上げて、マリアの方へと振り向く。
すると、マリアは唐突に両手で俺の両頬に触れて、そのまま顔を近付けてくる。
!
突然のことに驚き、顔を真っ赤に染め上げながら、緊張してしまい、そのまま動けなくなってしまう。
自身の鼓動が高鳴るのがわかった。
しかし、そんな俺に対して、マリアの表情は淡泊だった。
お互いの口と口が接触してしまいそうなほどに顔を近付けてから、数秒後、マリアは顔を離して、冷めた表情を浮かべていたかと思うと、今度は小さく笑い始める。
俺はなにがなんだかわからず、混乱してしまう。
「やっぱり、駄目だわ」
「な、なにが……?」
「私、ジョンのこと、男として見ることができないわ」
絶句した。
唖然とした。
そして、すぐに絶望した。
「私も、もういい年なのに結婚してないし、子供だって欲しくないわけじゃないし……あんたとなら本当の夫婦になっても、上手くやっていけると思うのよ」
マリアが静かに話す。
俺は話を聞くばかり。
「まぁ、結婚に興味があるのかって言われれば、あんまりないし、自分でも、誰かと結婚できるような性格じゃないことは理解しているのよ。だから、ずっと一緒に暮らしてきたジョンと残りの人生を連れ添うのも、いいかもしれないと思ったのよ」
「じゃ、じゃあ……」
「でも、駄目だわ。私にとって、あんたは弟みたいなものなんだもん」
「…………」
無言になってしまう。
俺の想いはマリアに伝えるより前から終わっていた。
しかし、それはわかっていたことでもある。
マリアの気持ちが俺には向けられていないことを俺は知っていた。だからこそ、驚きはあれど、絶望はしても、諦めてはいたことなのかもしれない。だからこそ、俺は、マリアのそばにいられたのかもしれない。
「でも、ジョン」
「……なに?」
「そういうのも、いいんじゃないかしら?」
マリアはそう言って、笑った。
その笑顔は、どこまでも愛おしかった。
俺は、彼女のその笑顔を独占したかった。
「血が繋がっていても繋がらなくても、お互いに想い合っていれば、家族でいられるように」
でも、それは無理だった。
「たとえ、男女の仲でなくても、子供がいなくても、お互いがお互いに限りない大切な存在であれば……一緒に生きていっても、いいんじゃないかしら?」
だって、俺の好きという気持ちとマリアの好きという気持ちは似ても似つかないものだから。
「……そうだね」
なら、せめて。
「マリア」
なら、せめて、知っていてほしいことがある。
「なに?」
「俺、ずっと、マリアに……いや、誰にも話していない秘密があるんだ」
「うん」
大切な人に知ってほしい、秘密と過去。
「実は、俺には前世の記憶があるんだ」
一緒に生きていく人に知ってもらいたい、秘密と過去。
・・・・・
俺はマリアに話す。
生まれて初めて、自分の本当のことを話す。
自分の存在を、自分の過ぎ去った過去を、自分の隠していた秘密を。
全て、洗いざらい、話した。
マリアは俺の話を笑いもせず、何も言わず、ただじっと黙ったまま、静かに聞いてくれた。
「ずっと考えてたんだ。俺は、なんで、この世界に生まれてきたんだろうって。俺は、なんで、生きているんだろうって。だけど、その答えは未だに見つからなくて……」
今まで隠してきた過去を全て話す。
本当は誰にも言うつもりはなかったのに。
……いや、俺は、本当は誰かに話しておきたかったのだろう。
その証拠に、俺は今まで感じたことのない途方もない胸のすくような思いを感じた。
長年の胸の痞えがとれたような気がした。
やがて、マリアは関心した様子で、興味深そうに言った。
「嘘か本当かは定かではないとして、面白い話ね」
「え……?」
対して、俺はマリアの言葉に呆気に取られてしまう。
それは予想していた以上に普通の反応だった。
「だって、死んだら違う世界で生まれ変われるんでしょう? しかも、前の人生の記憶を思い出すことができるなんて、面白いじゃない。ジョンの話を聞いたおかげで、死後の楽しみができたわ」
「そ、そうかな?」
「そうよ。それに、ジョン」
「な、なに?」
「そんなこと、いくら考えても意味ないわよ?」
マリアは言った。
「だって、そんなもの、最初から、ないもの」
その言葉には僅かな迷いも含まれてはいなかった。
「人生なんて、ただの暇潰しよ」
「暇潰し……?」
マリアの言葉が胸に深く突き刺さる。
俺は無意識に反芻していた。
「そう。自分が死ぬまでの暇潰し」
マリアがもう一度強い口調で繰り返す。
「働くのも、結婚するのも、子供を育てるのも、全部、暇潰し」
「…………」
「生きるって、自分が生まれてから死ぬまでの長い長い暇潰しでしかないのよ」
そう言って、マリアはつまらなそうに笑う。
それは、虚ろで、胡乱で、乾いた笑みだった。
それは、泥のように濁り、世の中を深く俯瞰した目だった。
マリアは立ち上がり、そのまま、家の中へと入る。
俺は何をするわけでもなく、川の水面に映る自身の姿を真正面から見つめた。
マリアの言っていた言葉を心の中で、もう一度だけ、反芻する。
俺は思った。
何のために、この世界に生まれてきたのか。
何のために、誰のために、生きているのか。
わかっている。
そんなもの、最初から、存在しない。
それでも。
それでも、探し追い求めずにはいられない。
だからこそ。
それを、探し続けることこそが、生きるということではないだろうか。
俺は立ち上がり、振り返り、我が家を真正面から見つめる。
そして、俺は思った。
今、俺には家族がいて、友達がいて、俺のことを理解してくれる人がいる。
誰かが自分のことを理解してくれている。
そう考えるだけで、救われたような気持ちになる。
だけど。
やっぱり、俺は、これからも悩み、苦しみ、続けるのだろう。
物語の主人公ではなく、脇役でしかない自分に悩み続けるのだろう。
何もできない弱い自分に苦しみ続けるのだろう。
ちっぽけな存在であり続けるのだろう。
それでも。
生きていて、自ら死を選ぶことができないのなら、生きるしかない。
なぜなら、それが自分の運命だから。
自分の人生を変えることはできない。それこそが運命なのだから。
それでもいい。
努力できなくてもいい。
何もできなくてもいい。
幸せになれなくてもいい。
弱くてもいいから。
諦めてもいいから。
報われなくてもいいから。
生きろ。
シンデレラの義妹の兄 了




