25:20年後(下)
目的地に辿り着く。
そこはウィリアム国宝陛下とシンディ王妃が住まわれる御殿であった。
門番に話しかけて、国王と王妃への取り次ぎを求める。すると、門番はあからさまに俺を訝しみ、俺のことを値踏みするかのような目付きで無遠慮に見つめてきた。俺は王家の家紋が施されており、シンディの自筆によって書かれた手紙を証拠として手渡す。門番は、今度は露骨なまでに遜り、慌てた様子で取り次いでくれた。そんな門番の対応の豹変ぶりが、なぜだが可笑しく、また、腹立たしくて、俺は自分でもよくわからないまま笑ってしまった。
すぐに御殿の中に通されて、国王の側近を自称する人物が案内をしてくれた。御殿内の豪華絢爛さに圧倒されながら歩き進む。やがてとある部屋の一室に通された。
部屋に入ると、そこにはシンディ王妃とウィリアム国王がいた。
思わず、俺は再会を喜ぶあまり大声を上げてしまう。対面する2人も、それに呼応して、笑い声をあげた。
目の前で隣り合うシンディと国王を見つめる。
2人とも、ずいぶんと年を取った。
シンディは顔に小皺が目立っている。
国王は身体から微かに加齢臭が漏れている。
2人とも、すっかり、中年になっていた。
どうやら2人がかつて若い頃に誇っていた美しい容姿は時間の経過とともに経年劣化しているようだ。しかし、それでも久しぶりに見た2人からは、俺のような凡人にはない何か特別な雰囲気が感じられて、2人が何者かによって選ばれた特別な存在であり、特別な運命を持ち、物語の主人公とヒロインであることを痛感せずにはいられなかった。
しかし、そんなことは些細なことであった。
シンディの容姿には、もっと大きな、明らかな変化があった。
俺は自身の視線をシンディの顔から彼女の腹部へと下げる。
そこには新たな生命が宿っていた。
俺の下賤な視線にシンディが気が付き、聖母のように微笑む。
「今、7ヶ月目なの」
「そっか……シンディ、おめでとう」
俺は感嘆の声を上げながら祝福の言葉を口にした。
「うん、ありがとう」
シンディはそう言って、また微笑む。
その顔は、心の底から幸福そうだった。
再開した2人と夢中でお互いの近況を話し合っていると、不意に部屋の扉を叩く音が聞こえた。そして、すぐに先程の国王の側近を自称する人物が部屋に入り、国王に小声で耳打ちをした。
曰く、どうやら準備が整ったらしい。
今、アリスをこの部屋に連れてこようとしている最中だという。
俺は国王からその話を聞いて、長年待ち焦がれていたアリスとの再会であるにも関わらず、不安を感じてしまい、そのまま落ち着きなく部屋の中を歩き回った。
ふと、部屋に備え付けてある姿見が視界に入る。
そこにはすでに若者ではなく、中年と呼ぶに相応しい自身の姿が映っていた。
俺も年を取った。
そのことを改めて自覚する。
そして、それはアリスも一緒のはずだ。
アリスは人生において最も多感な時期であるはずの子供としての時間を、俺たち家族によって、台無しにさせられた。そして、本来ならその後に続くはずだった青春とでも呼ぶべきはずの若者としての時間を自分の意思とは関係なしに暗く冷たい檻の中で過ごしてきたことになる。
自分の人生を滅茶苦茶にされたアリスは牢獄の中で何を考えていたのだろうか?
アリスは俺を許してくれるだろうか。
しかし、いくら考えてもその答えは出てこない。
部屋の扉を叩く音が聞こえる。
俺は驚き、鼓動が高鳴り、動くことができなかった。
まだアリスに会うための心の準備ができていない。
動けないでいる俺の代わりに、シンディが緊張した様子で返事をする。
そして扉が開く。
そこには、両手に手錠、両足に鎖によって繋げられた鉄球の足枷を嵌はめ、いかにも防寒具としての機能性が乏しそうな、使い込まれてボロボロに傷んだ布切れに身を包む中年の女が立っていた。
一目見て、わかった。
アリスだ。
その女こそ、アリスだった。
アリスと俺のお互いの左目が残った目が合う。
「アリス……」
「久しぶり、お兄ちゃん」
「あ、ああ……久しぶり……えっと、その……元気だったか……?」
「まぁね。お兄ちゃんも元気そうで安心したわ」
「ま、まぁなっ」
予想外というべきだろうか。
俺が想像していた以上にあっけらかんとした様子で話すアリス。
そんな俺とアリスの様子を見て、シンディが涙ぐむ。
「アリス!」
「シンディ、久しぶり」
「久しぶり! お帰りなさいっ!」
「……うん、ただいま」
「無事でよかった……本当によかった」
「シンディ……うん。ありがとう」
「もう会えないかもしれないって……会ってくれないかもしれないって、思った」
「……シンディ」
「なに? アリス」
「ごめんなさい。あのときは、本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。もう何も言わないで。私の方こそ、ごめんなさい。あのとき、あなたが辛くて苦しいときに傍にいてあげられなくて、ごめんなさい」
アリスとシンディは互いの身を寄せ合い、抱きしめ合う。
相変わらず、2人が一緒にいる、その様子は本当の姉妹のようだった。
お互いに身を寄せ合う2人だったが、すぐにアリスはシンディの腹部の大きな膨らみに気付き、その意味を理解すると、対岸の火事のように、まるで過ぎ去った過去のように、アリスは笑った。
「シンディ……今、幸せ?」
「うん。すっごく、幸せよ」
「そっか……」
「私、この子のことを思うと胸が温かくなるの。たとえ、どんなことがあっても、この子のために頑張ろうって、そう、思えるの」
「うん……そっか……」
そう言って、アリスは感慨に耽る。
今、アリスは何を考えて、何を思っていたのだろうか?
俺には永遠にわからないことだった。
「シンディ、おめでとう。本当におめでとう」
「うん、ありがとう」
そう言って、2人は笑う。
それは心の底からの言葉であった。
そう信じたい。
そんなアリスとシンディの様子を見て、俺は驚き、動揺して、困惑して、その後に何だか拍子抜けしてしまい、苦笑いを浮かべてしまう。
アリスは笑う。
その表情はあの頃とは違い、どこか吹っ切れたような表情だった。
その目は人生を達観或いは諦めたかのような、そんな俯瞰した目をしていた。
・・・・・
アリスの釈放と再会が密かに行われた後、俺とアリスはシンディが用意してくれた馬車に乗り込んだ。
シンディと国王とはそこで別れた。
もっと一緒にいたい。再会の喜びを分かち合いたい。空白の時間を埋めるための時間が欲しいと思うのは誰もが同じであった。しかし、今や王国の国王と王妃になられた2人と過ごせる時間はあまりにも短すぎる。
今回のアリスの釈放に立ち会ってくれたことについても、2人はかなりの無理をして、なんとか時間を確保してくれたようだ。本来なら、俺やアリスのために時間を割くような余裕などなかったのである。それでも、来てくれたのは、アリスに会いたいという思いがあったからだろうか。
別れの間際、シンディは言っていた。
「ジョン、アリスのこと、お願いね」
「……ああ。わかってる」
「もう絶対に手を放しちゃ駄目よ」
「うん……もう絶対にアリスを1人になんてしない」
「……うん! それじゃあ、頑張ってね、ジョン!」
「ああ!」
馬車が走り出した後もシンディは叫んでいた。
「アリス!」
「シンディ!」
「また、いつか、いつか必ず、会いましょうね!」
「ええ! また、いつか、必ず! だから……またね!」
御殿を去る俺とアリス。
そんな俺たちのことをシンディと国王が、いつまでも見送ってくれていた。
俺たちを乗せた馬車は王都を出て、街道を進む。
馬車の中で、俺とアリスしかいない部屋のなかで、俺たち兄妹しかいない空間の中で、俺とアリスは色々なことを話した。お互いの今までの近況や昔の思い出話、他愛のない雑談や世間話など、俺たちは夢中で話した。
それは、まるで失っていた家族の時間を取り戻しているかのようだった。
馬車の中で、俺はアリスに服を手渡した。
それはマリアが譲ってくれたお金で買ったものだ。俺に女が好む服の流行りはわからないが、少なくとも、今アリスが身に着けているボロボロに傷んだ布切れよりは、はるかに綺麗でおしゃれだろう。
アリスは喜びながら、その服を俺の目の前で着替えた。
そこに男女の羞恥心や性的興奮は互いに微塵も感じることはなかった。
その間にも馬車は走り続ける。
日が沈み、夜が更けて、やがて、夜が明けて、陽がまた昇る頃、馬車はようやく目的地へと辿り着いた。
「着いたっ」
「ここは……」
「……ああ、俺たちの村だ」
馬車を降りる。
俺とアリスの眼前には、かつて俺たち兄妹が生まれ育った故郷の成れの果てが広がっていた。
昔、俺とアリスが子供だった頃、いつも見ていたはずの風景。しかし、今では俺もアリスもお互いに視界と視野が狭くなり、また、見ている風景そのものも変わり果てていた。
かつて、ここには小さな農村があった。
田畑があり、のどかな田園風景が広がり、どこにでもある、ありふれた農村があった。人が生まれて、生きて、泣いて、笑って、死んでいく、そんな当たり前のことが繰り返される農村があった。
しかし、今、そこにあるのは誰も手を付けずに荒れ果てた大地と、暮らす家族がいなくなり荒廃した廃墟だけだった。
廃村と呼ぶにはあまりにも何もなかった。
廃村と呼ぶにはあまりにも誰もいなかった。
全て、盗賊の襲撃によって失われてしまった。
「……なにもないね」
「……ああ、アリスがいなくなった後、盗賊の強襲に遭って、本当の意味でなにもなくなっちまった」
他人事のように俺とアリスは話を続ける。
「私、この村を去ってから、こんな村消えてなくなっちゃえばいいって、そう何度も本気で思ったわ」
「……その願い、叶ってたな」
「うん……でも、今、こうして実際にその願いが叶ってるのを見ても、私、ちっとも心が満たされないわ。なんだか、心にぽっかりと穴が空いたみたいな、そんな気分だわ」
「…………」
なんて答えればいいのか、わからなかった。
俺が無言のまま俯いていると、アリスは静かに聞いてきた。
「どんな最期だったの?」
「…………」
「お父ちゃんとお母ちゃん、どんな最期だったの?」
「…………」
「ねぇ、お兄ちゃん」
「……つまらない最期だったよ」
俺はありのままを話した。
アリスはただじっと黙ったまま俺の話を聞いていた。
「そっか……ねぇ、お墓はどこにあるの?」
「そんなものないよ……俺も後から知ったことだけど、見つかった死体は全部まとめて、焼かれて、そのままどこかに埋められて、わからずじまいだ」
「ふーん……」
「腐敗病が流行した村だって、盗賊の強襲に遭い、滅んだ村を調査した兵たちがやったんだって……」
「そっか……残念だわ」
「どうして?」
「お父ちゃんとお母ちゃんに伝えたいことや言いたいこと、たくさんあったんだもん」
「なんて言うつもりだったんだ?」
「…………」
アリスは何も答えない。
無言のまま、かつて、俺たちの村だった場所を一望する。
やがてアリスが再び口を開いた。
「私、皆に捨てられて、売られて、恨んだわ」
「…………」
「皆、死んじゃえばいいって、そう何度も憎んだわ」
「…………」
「恨んで、恨んで、恨み尽くして……私はいったいなにを恨んでいたのかさえ、自分でもわからなくなっちゃって」
「…………」
「それが今となっては……なんかもう、どうでもよくなっちゃった」
アリスは乾いた笑みを浮かべる。
「地下の冷たい檻の中に閉じ込められて、何をするでもなく、ただ何かを考えて……無駄な時間を過ごしていくうちに自分が老いていくのを痛感したわ」
「……お互い、年を取ったよな」
「ええ、本当に……年、取ったわ。私も、もうすっかり、おばあちゃんよ」
「…………」
「皆を恨む気力も、皆を憎む気力さえ、もう残っていないわ」
俺はアリスの顔を真正面から見つめる。
お互いに年を取り、相応に人生を顔に刻んでいた。
違いがあるとすれば、長い時間、ほとんど太陽の光を浴びていなかったアリスの肌が薄気味悪いほどに青白いことぐらいだった。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「……なに?」
「あのとき、どうして、今更、私を助けたの?」
「…………」
アリスは俺の顔を真正面から見る。
俺は静かに答えた。
「罪悪感を感じたから……」
それが俺の本当の気持ちだった。
家族だから助けたい。その気持ちに嘘偽りはなかった。
その想いは本物だ。
だけど、それだけじゃない。
あそこでアリスを庇わなかったら、今度こそ、罪悪感に耐えられなかっただろう。
だから、アリスを助けた。
その想いもまた本物だった。
アリスを助けたのは、そのふたつの感情が理由だ。
結局、俺は自分のためにしか行動していない。
それが俺の全てだった。
「そっか……ようやく、お互い、腹を割って本音を話せたね」
「そうだなっ」
「あーあ、長かったわ。20年は」
「……お疲れ様」
「ねえ、お兄ちゃん」
「……なに?」
「とりあえず、あれよ、あれ、私、ずっとやりたかったこと、やるね」
「……ああ」
「お兄ちゃんの馬鹿!」
「!」
アリスは力の限り、叫んだ。
アリスは力の限り、俺を殴った。
「お兄ちゃんの馬鹿! 馬鹿! 馬鹿! お父ちゃんの馬鹿! お母ちゃんの馬鹿! どうして、皆、私を捨てるのよ!」
「……ごめん」
「辛くて! 苦しくて! 悔しくて! 憎くて! でも、それ以上に悲しかった!」
「……本当にごめん」
「あたしの時間と人生を返してよ!」
「!」
「人生、やり直させてよ!」
「…………」
一頻り叫び終えて、俺を殴り終えて、アリスは一息つく。
その顔は実に晴れやかだった。
世界は不条理だ。
神様がいるとしたら理不尽だ。
どうしてアリスじゃなくて俺だったんだろう。
「あとは、そうね……」
「……?」
「もう会えないと思っていた私を見て、大人になった私を見て、お父ちゃんとお母ちゃんはなんて言うんだろう、どう思うんだろう……それが知りたかったなぁ」
アリスは顔を背ける。
その声は、確かにかすれていた。
俺は地面に倒れこんだまま荒れ果てた大地を見つめる。
そこには微かではあるが、草花を咲かせるいじらしい自然があった。




