20:前夜
運命の日の前夜、俺は夜更かしをした。
人々が寝静まった深夜のことである。
自分の部屋の窓を開けると外から部屋の中へと風が入り込む。冷たく、静かな夜風が俺の頬を撫でる。俺は若干の肌寒さと心地よさを感じながら、窓の外の見つめて、物思いにふけていた。
明日はこの学校の創立記念日だ。
長い歴史と伝統を誇るこの学校は、その歴史の中で、多くの優れた名士を輩出してきた。そのため、明日は、かつての卒業生であり、強い権力を持った来賓の方々が、この学校に訪れる。一部の学生や教員たちの噂によれば、ウィリアム王子の父親である国王や王国最大の貴族の当主であるレイラの父親も来るらしい。
なにか特別な発表でもあるのだろうか?
事実、明日の夜、学校では厳かで盛大な招宴があり、俺を含めた学校の全ての従業員たちは、ここ数日間、そのための準備に忙殺されていた。
もっとも、むやみに人前に出ることを許されていない俺には、関係ないことだ。
俺は、明日、一日中、厨房に引きこもり、与えられた仕事に従事するだけだ。
いつもと変わらない、俺の日常を過ごすだけだ。
おもむろに、眼帯を外して、腐敗病によって腐り落ちた自身の右目の痕を触る。
自身でも、不気味で気持ち悪く、感じた。
ふと、窓の外の薔薇園に目を向ける。
外には明かりもなく、暗く、深い闇がどこまでも広がっている。
ただ、静かに、薔薇園を眺める。
アリスのことを思い出す。
アリスはレイラであり、レイラはアリスだ。
そう、俺は確信している。
俺は、アリスに会いたくて、ずっと探していた。
しかし、当の本人であるアリスは俺を拒絶する。
かつて、アリスは、笑顔の良く似合う可愛らしい女の子だった。それが、今のアリスは笑うこと、そのものを忘れたかのように無表情だ。あの冷たい顔の奥には、どんな素顔が隠されているのだろう。
また、今、アリスは、経緯と理由は定かではないが、大貴族の一人娘であるレイラとして振る舞い、生きている。
いったい、アリスになにがあったのだろう。
今、アリスは、なにを考えているのだろう。
そして、ずっと、考えていたことがある。
俺はアリスを見捨てて、裏切った、最低の兄貴だ。
そんな俺が、アリスになにをしてやれるのだろう。
そんな俺は、アリスになにが言いたいのだろう。
いくら考えてみても、答えは出てこなかった。
俺は、なぜ、アリスに会いたくて、探していたのだろうか。
・・・・・
突然、部屋の扉を叩く音が聞こえた。
こんな夜遅くに誰だろうか。俺は若干の不安と恐怖を抱きながら、恐る恐る、扉を開く。
扉を開けると、そこには寝間着に身を包んだマリアが立っていた。
「夜遅くにごめんなさい。寝てた?」
「いや、起きてたよ。けど、こんな時間にどうしたの?」
「今日はなんだか眠れないのよ。気分転換に部屋を換気をしようと窓を開けたら、隣のあんたの部屋も明かりがついていたから、起きていると思ったのよ」
「ああ、なるほど……」
「部屋、入ってもいいかしら?」
「いいよ」
特に断る理由はなかった。俺はマリアを部屋に招き入れる。
俺は部屋に置かれている木製の椅子に座り、マリアは部屋に置かれているベッドに腰掛ける。
眠れない者同士で対面し、どうでもいい雑談を交わす。
「明日はいよいよ学校の創立記念日ね」
「そうだな」
「お偉方もたくさん来るんでしょうね……あーあ、面倒くさいわね」
「マリアは給仕だもんね。がんばってな」
「そういえば、ウィリアム王子も、明日、遊説から帰ってくるそうよ」
「もう帰ってくるのか?」
「そうらしいわよ」
「遊説に出て、まだ10日間ぐらいじゃないか。随分と短かったな」
「まぁ、学校の創立記念日は、お偉方……それこそ、国王も来賓されるから、その行事に王子がいないのは問題だからじゃない?」
「なるほどね……シンディは?」
「今日のお昼に会ったわよ。社交の場は初めてだから緊張するって言ってたわ」
「まぁ、シンディなら上手く対応できるだろう」
そう言って、俺は口を閉じる。
なんとなく、お互いに無言になり、沈黙してしまう。
「ジョン」
「なに?」
「あんた、なにをそんなに悩んでるの?」
「……よくわかったな」
「何年間もあんたと一緒に暮らしていないわよ。分かるわよ、それくらい」
「…………」
「あんたがなにを悩んでいるんかは知らないけど、話したら少しは楽になるんじゃない?」
「……わからないんだ……自分のことなのに」
「どういう意味よ?」
「そのままの意味だよ。俺は自分でも、なにをしたいのかがわからない」
「いったい、なんの話をしているのよ?」
「…………」
俺は何も答えない。
マリアには俺の犯した罪のことを話していない。
いや、話すことができない。それは俺がマリアを信用できないのではなく、俺がマリアに蔑まれたくないという身勝手な思いがあったためだ。
俺はなにも言わず、無言のまま、頭を垂れた。
そんな俺を見て、マリアは俺の心情を察してくれたのだろうか、大きな溜息を吐く。
「ねぇ、ジョン。ジョンは、不幸な人生と幸せな人生なら、どっちがいい?」
「……幸せな人生」
「そうよね。誰だって、貧乏な家より、金持ちの家に生まれたいように、不幸より、幸せに生きたいわよね。でも……」
「……でも?」
「私は、不幸な人生でもいいわ。だって--」
「…………」
俺はマリアの言葉の続きを待った。やがてマリアが再び、口を開く。
「苦しみや悲しみとか、失敗や後悔とか、そういったつらいことのない人生なんて、つまらないじゃない」
そう断言するマリア。その瞳はどこまでもまっすぐで、愚直なほどに強い意志が感じられる。
「まぁ、ただの強がりだけどね」
そう言って、マリアは悲しそうに笑った。
マリアの言葉の意味を、そのときの俺は理解することができなかった。
俺はなにも言えず、ただ、立ち尽くすばかりだった。
その後、マリアは自分の部屋に戻り、俺も、眠りにつく。
眠りにつく中で、俺は、夢を見た。
己の描いた夢の中で、あのときの光景が甦る。
夢の中で、心臓が止まるかのような衝撃を受けて、目を覚ます。
マリアの言っていた言葉を思い出す。
苦しみや悲しみとか、失敗や後悔とか、そういったつらいことのない人生なんて、つまらない。
だけど。
だけど……この後悔だけは後悔してもしきれない。
やがて、夜が明ける。
そして、ついに運命の日は訪れた。




