18:謎と整理
目の前にはレイラがいて、振り向けば、ウィリアム王子がいる。
ウィリアム王子は現在この国を治めている国王の1人息子。王位継承権を持つ次代の国王である。しかし、ただの庶民である俺は、王子と会ったことなどあるわけがなく、王子の顔を知らない。だから、今、レイラと対峙している青年が王子だという確証はない。
しかし、今、そこにいる青年から発せられる圧倒的な雰囲気を感じたとき、俺は思った。この人は間違いなく、多くの人々の頂点に立つべき先導者であると。彼からは、王者の貫禄が感じられた。俺は、彼がウィリアム王子ということを確信した。
俺はレイラを見た。
レイラが王子の婚約者であることは聞いていた。王都で生きるようになり、マリアの母親が営む料理店で働いている際、噂で聞いていた。
静かに相対する2人に対して、食堂内に存在する多くの学生という名の傍観者たちは、固唾を呑んで見守っていた。無論、俺もそんな大多数の中の1人だ。有象無象の傍観者たちと相違点があるとすれば、俺だけが、彼女と彼氏を差し置いて、舞台のど真ん中にいるということぐらいだろうか。
俺は、テーブルの上に置かれた自身の右手からその右手に突き刺さったフォークをなんとか抜こうとする。しかし、右手に意識を傾けて、少しでも掌を動かそうとすれば、たちまち、想像を絶する痛みが俺の右手の神経に伝わる。俺はただ、その場に立ち尽くし、痛みに苦しむことしかできなかった。
もちろん、そんな俺を助けようとする者は、誰1人としていなかった。
沈黙する食堂の中で、王子が口を開く。
「レイラ……いい加減にしろ」
「なにが、ですか?」
「たしかに、そこの男は些細な失敗を犯した。それは本当の事だ……だけど、いくらなんでも、やりすぎだ」
王子がレイラを睨む。
対して、レイラは微かな溜息を吐き、言った。
「ウィリアム王子」
「なんだ?」
「私はなにか間違ったことをしていますか? 私は、ただ、この従業員が過ちを犯したので注意をしているだけです」
「その注意がやりすぎだと言っているんだ」
「人は痛みを伴わなければ、何も学ばない。この男も、今回の痛みという恐怖を感じることで、少しは料理人としての責任感というというものが芽生えるのではないでしょうか?」
そう言って、レイラは、一度、口を閉じてから、再び、口を開いた。
「私は、ただ、庶民に対して、適切な指導をしているにすぎませんわ」
「お前のそれは注意でもなければ指導でもない。ただ、暴力で服従させているだけだ。自身の保持する権力を利用して、他者を非道に虐めているだけだ」
「……権力を利用して、ですか」
「レイラ、お前、今まで、何回このような事件を起こしてきた?」
「…………」
「なぜ、そんなに他者を憎んでいるんだ?」
「…………」
レイラはなにも答えない。その顔は冷たい無表情のままだった。
「王子」
「なんだ?」
「私は、ただ自分のすべきことをしているだけですわ」
「……どういう意味だ?」
「貴族の娘として……いずれ王子と共にこの国を統治する者として、私は行動している。それだけですわ」
そう言って、レイラは静かに踵を返して、歩き出す。
レイラの取り巻きたちが慌てた様子でレイラに続く。
そして、そのまま、レイラ達は食堂を去った。
俺は去り行くレイラを見つめるばかりであった。
・・・・・
朝食の一軒が終わったあと、俺は自室に戻ってきた。
今、学生たちは学校の授業を受けている。対して、従業員の俺はというと、傷の手当てを受けた後、その傷では仕事に差し障りがあるという理由で、自室での療養と待機を命じられた。
ベッドに身体を沈めたまま、包帯の巻かれた自身の右手を見つめる。
痛みが治まるどころか、さらに痛みが激しくなっているような気がする。鈍く、焼けるように熱く、虫歯の痛みや腹痛などと同じ類の、耐え忍ぶことのできない痛みが、右手から伝わり、俺は苦悶の表情を浮かべながら、そんな激痛に対して、悶絶するばかりであった。
突然、部屋の扉が叩かれた。
こんな時間に誰だろう。そんなことを考えているうちに、また、扉が叩かれる。
「ちょっと、待ってください、今開けますから」
ベッドから立ち上がり、部屋の扉を開く。
「ジョンといったか? 傷の具合はどうだ?」
「お、王子?!」
そこにはウィリアム王子がいた。
突然の王子の来訪に、俺は、驚き、慌ててしまう。
「ウィリアム王子?! な、なぜ、私のような下々の者の部屋に来られたのでしょうか?!」
目の前にいるのは次代の国王となられるお方だ。決して粗相があってはならない。そう本能的に考えると、恐怖と緊張により、身体中から汗が吹き出し、極端なまでに精神が萎縮してしまう。俺は、ほとんど反射的に、地面に跪き、王子に遜る。
そんな、俺の様子を見て、王子は呆れた様子で苦笑する。
「いや、少し話が合ってな」
「話、ですか……?」
「ああ。そうだ。いきなりですまないが、来てくれないだろうか?」
「お、俺に、ですか……?」
「そうだ」
王子が俺を見つめる。
「わ、わかりましたっ」
俺はほとんど反射的に答えた。断るという選択肢が存在しなかった。
どうやら、俺には、漫画やアニメの主人公のような、大物の立ち振る舞いはできそうにないらしい。
俺なんかより、王子の方が、余程、物語の主人公らしい。そんなことを思った。
・・・・・
王子に連れられて、学生専用の寮内を歩く。
本来なら、多くの学生たちで賑わっているであろう寮内は、学生たちが授業を受けている最中であるということもあり、閑散としており、静まり返っていた。
やがて、とある部屋に辿り着く。
王子が部屋に入る。それに続いて、俺も部屋に入る。
部屋の中には先客が1人いた。
シンディである。
互いに目と目が合い、軽く会釈する。
そして、そのまま、シンディの目線が、俺からウィリアム王子へと移った。
「遅れて済まない」
「いえ、待ってなどおりません。お気になさらないでください」
「ありがとう」
そう言って、王子はシンディを優し気な目で見つめる。シンディも、王子へと向ける目は、扇情的とでもいうような、特別な感情を秘めたような目をしていた。
それは、シンディが、俺には絶対に向けることのない目だった。
「まずは落ち着こう。君も座ってくれ」
王子が部屋に備え付けられたソファに座るように促してくる。
俺は王子の言葉に従い、ソファに座る。
テーブル越しに王子とシンディが相対する。
目の前で、美男美女が隣り合いながら、寄り添い合いながら、座っている。
それは、実に絵になる光景だった。
俺には、王子とシンディが、まるで物語の主人公とヒロインのように見えた。
そうなるに相応しい品格と運命を持ち合わせているような気がした。
「ジョン、傷の具合はどう?」
「もう、大丈夫だ」
「本当?」
「ああ。今日だけは休ませてもらうけど、傷を診てもらったところ、仕事にも差し障りがないみたいだし、明日からは、また、働くさ」
嘘だ。言葉にしながら、俺は心の中で自嘲した。
この国に社会保険などという国民の生活を保障する制度は存在しない。それは、つまり、怪我をして働けなかったとしても、自分でなんとかするしかないということである。たとえ、怪我の原因が自分のせいだろうが、他人のせいだろうが、関係ない。
そして、怪我をして働けなくなった労働者を雇い続ける経営者はいない。作業着組ブルーカラーは、制服組ホワイトカラーと違い、身体が資本であり、身体が動かなくなったら働くことができなくなるとは言ったものだ。だから、多くの人々は子どもの頃から勉学に励み、肉体的負担の少なく、身体が衰えても働くことのできる仕事を目指すのである。命令される側の作業着組より、命令する側の制服組になることを目指すのである。
シンディは俺の嘘を見抜いているかもしれない。だけど、俺のつまらない意地を肯定してくれているのか、なにも言わないでいてくれた。その優しさがおれには嬉しく、また、気が利かないとも思ってしまった。
俺のこと、助けてくれよ。
シンディならできるだろう?
そんな、情けないことを考えてしまった。
そんなことを考えていると、王子が話を始めた。
「きみのことはシンディから聞いている」
「は、はい……王子に知ってもらえて、光栄ですっ」
「ああ。ところで……」
「はい」
「話というのはレイラについてだ」
「……はい」
俺は小さく頷く。
この部屋には、今、俺たち3人以外に誰もいない。意図的に人払いを行っているのだろう。
つまり、それだけ、大切な話ということだ。
「まずは、互いに、これまでの経緯を話しておきたい」
「ええ。そうね」
シンディが王子の言葉に同意し、そのまま話を続ける。
「ジョン、あれから、もう2年にもなるけど、あなたは、今まで、どうやって生きてきたの?」
「……色々なことがあったよ」
しばらく、沈黙したあと、俺は静かに口を開いた。
そして、この2年間の中で、俺が見たこと、体験したこと、経験してきたこと、全てを素直に話した。
シンディは無言のまま、静かに俺の話を聞いてくれた。
俺が話し終えると、シンディは、顔を俯かせて、そのまま、涙を流した。
それは、俺の人生に同情してくれたのか、それとも……。
「大変だったのね……」
「……うん」
「でも、ジョン」
シンディが顔を上げて、俺の顔を見て、口を開く。
「生きてて、よかった。本当に、よかった」
そして、笑いながら、また、涙を流していた。
やがて、シンディは泣き止み、話を再開させる。
「次は、私の番よね」
「……今まで、シンディはどうやって生きてきたの?」
「私の村、盗賊の襲撃にあったじゃない?」
「うん」
「私もジョンと同じように、盗賊たちに捕まって、奴隷商人に売られたのよ」
ふと見ると、王子がなにやら考え事をしている。
「…………」
「どうかしましたか?」
「あ……いや、別に、なんでもない。続けてくれ」
「……?」
シンディは不思議に思いながらも話を続ける。
「ただ、幸いというべきかしら……私のことを買ってくれたのは、とある地方の商人の夫婦だった……私はその夫婦に仕える女中として、買われたの」
「あ、もしかして、その人たちが?」
「ええ」
そう言って、シンディは小さく微笑んだ。
「その人たちが、私の両親。昔から、お父様とお母様は、子供が欲しかったそうなんだけど、どうしても子供ができなかったそうなの。それで、せめて、血はつながらなくてもいいから、子供が欲しくて、私を養子にしてくれたの……お父様もお母様も、血のつながらない私のことをとても可愛がってくれたわ」
その2人がシンディを養子に迎え入れたのは、紛れもなく、シンディの人徳の賜物だろう。元々は、女中として、使用人として雇い入れたシンディだったかもしれないが、ひたむきで努力家なシンディと接する中で、シンディを気に入り、好意を寄せたからこそ、その2人はシンディを自分たちの家族として迎え入れたのだろう。
「それから、しばらくはお父様とお母様と3人で暮らしていたんだけど、私が学校に行きたいって言ったら、ここの学校に入れてくれたのよ」
その話を聞いて、俺は、昔、シンディが言っていた言葉を思い出す。
『学校や大学に行って、勉強がしたい』
あのときは、ただの叶わぬ夢であり、ただの願望でしかなかった。しかし、シンディは、それを現実へと変えてみせたのだ。
シンディは、本気でこの国を変えようとしている。
今、シンディは戦っているのだ。
この国と。今という現実と。
なにもできずに、なにもしないでいる、俺とは違うシンディ。
俺はシンディに敬意を表せずにはいられなかった。
同時に、あることを思い出す。それは、シンディの最も知りたがっているであろう謎、シンディの能力についてだった。
「そういえば、シンディ」
「なに?」
「えっと、その……」
言いかけてから、自分が軽率な行いをしていることに気が付いた。
ここには王子がいる。
シンディはこのことを王子には話していないかもしれない。
「……ううん。なんでもない」
「?」
シンディは不思議そうな顔をしていた。
対して、隣に座る王子は、また、考え事をしているようだった。
・・・・・
話し合うこと、数十分後。
最初に、その話題を口にしたのはシンディだった。
「レイラ様のことなんだけど……」
「…………」
遂にきた。王子が俺のことを呼んだのも、彼女についてだろう。
「ジョン、どう思う?」
「……それは、どういう意味で言っているの?」
「わかっているんでしょう?」
「…………」
どうやら、シンディも俺と同じ、疑惑をレイラに対して抱いているようだ。
俺は王子の顔を見た。王子はレイラの婚約者だ。
彼の意見を聞きたい。
「王子はどう思われますか、レイラ様のこと?」
「……外見も中身も、模範的な貴族の娘だ」
それはレイラのことを褒めているのか、貶しているのか。俺には判断が付かなかった。
「おそらく、幼い頃から徹底的な英才教育を施されてきたんだろう。レイラの、普段の立ち振る舞いや所作、食事や会話の仕草や動き方、それら、全てにおいて、完璧だ。まさに、貴族の鏡だ」
「なるほど……」
レイラは生まれながらの貴族であり、それに相応しい、高貴な雰囲気を保持している。そう思った。
「ただ、レイラには、おかしなこともある」
「と、いいますと……?」
「レイラの詳しい経歴が不明なんだ。俺がレイラと出会ったのは2年前、それから、婚約者として、それなりの交流はあったのだが、それより以前のレイラのことを、本人は、いつもはぐらかすばかりで、詳しく教えてくれないし、レイラの父親や使用人もレイラの過去を語ろうとしないんだ」
「経歴が不明……?」
「ああ。ただ、レイラの父親が言うには、レイラは、昔は病弱で、ほとんど外出もできないぐらい、身体が弱かったらしい。だから、長い間、家から出たことがなく、ほとんど他人との交流も、したことがなかったらしい。だから、貴族や王族といった上流階級の人の社交界でも、ほとんど知られていなかったらしい」
「そんな……本当なんでしょうか……?」
「わからない……しかし、常識的に考えれば、おかしいだろう。いくら、病弱といっても、レイラは大貴族の1人娘だ。なぜ、そんな娘の存在が、長い間、知られなかったんだ?」
そう言って、王子は一度口を閉じる。代わりにシンディが口を開いた。
「それに……あの右目……」
「ああ、あの右目は、彼女曰く、腐敗病によるものらしい」
「…………」
「もっとも、本人が言っている話だ。どこまで本当かは、わからないがな」
どうやら、王子は自身の婚約者であるレイラのことを全く信用していないようだ。
「それに、レイラには、腹心とでもいうべき男がいる」
「どんな男ですか?」
「レイラに仕える執事だ。その男はレイラが幼い頃から仕えているそうだが、なんだが、信用のできない胡散臭い男だ。前職は政府の役人をやっていたそうだが……その男が、レイラと共に、なにか、よからぬことを考えているのかもしれない」
「なぜそう思うんですか?」
「俺の勘と噂だ」
「…………」
「あくまで噂の域を出ないが、レイラの父親やレイラ自身には、なにかと不吉な噂が絶えないんだ。レイラの父親が指揮する王国軍が腐敗病の蔓延した村を焼き滅ぼしたとか……腐敗病の薬の原料となる鉱物の採掘と販売を独占しているとか……違う人物がレイラに成りすましているとか……」
王子の言葉の中に非常に気になる箇所があった。
その言葉の聞いたとき、自身の鼓動が激しくなるのがわかった。
違う人物がレイラに成りすましている。
その噂が本当かどうかはわからないが、もし本当だとしたら……。
レイラが偽者だとしたら、彼女は……。
おもむろにシンディが口を開いた。
「私、この学校に来て、初めて、レイラ様のことを見たとき、アリスだと思った」
「それで?」
シンディは自身の首を横に振る。
「拒絶されたわ。それに、レイラ様は、私のことを嫌ってる」
「……結局、シンディはどう思う?」
「わからないわ……でも、もし、レイラがアリスだったとして、なんで……」
そこから先の言葉をシンディは言わない。しかし、俺にはわかった。
なんで、私のことを拒絶するのか。アリスを見捨てたのは、裏切ったのは、家族である俺だ。シンディはなにも関係がない。シンディを憎悪する理由はないはずだ。
「ウィリアム様は、レイラ様とは、どこで出会ったんですか?」
「2年前、国王――俺の父親とレイラの父親の仲介の元、婚約者として、紹介されたんだ」
「国王やレイラ様のお父様は、レイラ様の過去を知っているでしょうか……?」
「それもわからない。本当に素性の知れない。気味の悪い女だ」
どうやら、王子は本気でレイラのこと嫌っているようだ。王子の言葉の端々から、そのことを察することができた。
「ただ、実は、俺とレイラは昔、一度だけ、会ったことがあるらしい」
「そうなんですか?」
「といっても、俺とレイラが、まだ赤ん坊だったころの話のようだ。俺の親父がいうには、その頃から、俺とレイラの婚約は決めていたらしい」
「王子はレイラ様のことをどう思っているのですか?」
「悪い女ではない、そう思いたい。だが……」
「だが……?」
「俺はレイラを愛してはいない。俺はあいつを婚約者だなんて、認めていない。俺は、自分で好きになった女と結ばれたい」
「王子……」
そう言って、王子とシンディは互いに見つめ合う。
2人の様子をみれば、なんとなく察するものだ。
そして、思った。
レイラに限っていえば、レイラがシンディのことを嫌うのは、これが理由だろう。