17:悪役令嬢
目の前には、生き別れの妹――アリスがいる。
「アリス……」
妹の名前を呼ぶ。しかし、その先に続くべき、適当な言葉が出てこない。
ずっと、会いたかったはずなのに。こうして実際にアリスと再会してみると、俺はただ狼狽えるばかりで、なにもできないでいる。
なにか、言わなければ、そんな焦りと緊張を感じてしまう。
「アリス……あのっ」
「レイラよ」
「――え?」
「私の名前。私の名前は、レイラよ」
彼女は冷たい瞳で、俺を見つめながら、静かに、そう言った。
「アリスじゃないのか……?」
「違うわ。人違いよ」
「そ、そんな、でも……」
「それと、もうひとつ。あなた――」
彼女は一度口を閉じてから、再び、口を開いた。
「この薔薇園は、従業員の立ち入りは禁止されているのよ。早く、出て行ってくれないかしら?」
そう言って、彼女は俺を見つめる。
その瞳は、どこまでも冷たく、俺のことを心の底から軽蔑しているかのようだった。
「はっきり言って、不快よ」
彼女の強い敵意を孕んだ言葉を聞いて、俺は呆気に取られてしまい、そのまま、言葉を無くす。
この娘はアリスじゃない……?
俺がアリスと生き別れてから、すでに4年間という月日が過ぎている。俺自身も周囲の人々から、子供ではなく、大人と見做される容姿へと成長しているが、それはアリスにも同じことがいえるはずだ。正直、姿形や声を変化させているはずのアリスをどのように見分けるか、俺は今まで、考えたこともなかった。俺はアリスの兄だから、アリスの家族だから、アリスを見つけた瞬間、すぐに判別できる。そんな、なんの根拠もない自信を本気で持ち合わせていたのだ。
しかし、それでも。
「……あなたが立ち去らないのなら私が立ち去るわ」
「…………」
「では、ご機嫌用」
彼女はそう言って、薔薇園を出て行こうとする。
思わず、俺は彼女の肩を掴んでしまう。
俺の咄嗟の行動に、彼女は驚いた様子だったが、すぐに表情を歪ませた。
彼女は俺を睨んでくる。そんな彼女を、俺は見つめる。
やはり、アリスにしか見えなかった。人違いだなんて、思えない。自分でも、よくわからない奇妙な確信があった。
彼女は、アリスだ。
「アリス! 俺だ、お前の兄のジョンだ!」
「離して!」
「!」
彼女は大きな声で叫んだ。
それは彼女が俺のことを拒絶したことに他ならない。
対して、今度は俺が驚き、困惑してしまう。
そのときの俺には、なぜ、彼女が俺のことを拒絶するのか理解できなかった。
彼女は自身の肩に触れられている俺の手を振り払う。
「下等な庶民風情が!」
「え、あ、あの、す、すみませんっ」
「二度と、私に触らないで!」
「…………」
「気持ち悪い!」
心の底から唾棄すると言わんばかりの表情を浮かべながら、彼女は言った。
本気で俺のことを嫌悪している。そんな表情だった。
彼女は、そのまま、振り返ることもなく、俺の元を離れていった。
アリス……どうして……?
俺は、ただ、茫然自失のまま、去り行く彼女を眺めていた。
・・・・・
次の日。俺は朝早くから起床して、自身の新たな仕事場である食堂の厨房で、学生や教員たちの朝食の下拵えと調理をしていた。食堂内では数十人以上の従業員たちが各自の仕事に従事しており、そんな従業員たちの中で、最も下っ端の立場である俺とマリアは他の従業員たちの雑用や手伝いに勤しんでいた。
厨房の中で野菜の皮むきをしている俺の隣で、マリアが皿洗いをしながら、なにやら愚痴を吐いていた。
「ああ、もう、腹立つ!」
「…………」
「ジョン、聞いているの!」
「……なにが?」
「だから、ここの学生は腹が立つって話よ」
「へえ……」
俺は適当に返事をした。正直、昨夜の件が気になってしまい、マリアの話が頭に入ってこない。
「皆、幼い頃から自分の家の使用人に世話されて育ったのか、自分が他人に奉仕されて当たり前みたいな顔してくるし、あたしのことを馬鹿にしたような目付きで見下してくるのよ」
マリアは憤慨した様子だ。どうやら、相当、頭にきているようだ。
「昨日の夜の女学生なんて、もう最悪!」
「……いったい、なにがあったの?」
「私が学校の敷地内を把握しておこうと思って、歩き回ってたら、道に迷っちゃって、偶然、外を歩いていた、その女学生に従業員専用の寮までの道のりを聞いたのよ。そしたら、なんて言ってきたと思う?」
「下等な庶民風情が気安く私に話し掛けないで……とか?」
「そうそれよ! 一言一句間違いなし!」
「……その女学生、俺と同じように右目に眼帯を着けていなかった?」
マリアはしばらく考え込んでから、思い出したように口を開いた。
「そういえば、着けてたような気がするわ。外だったし、辺りが暗いから、あのときは、よくわからなかったけど」
「…………」
どうやら、昨夜、薔薇園で会った彼女のことのようだ。
「もしかして、あの娘、ジョンの知り合い?」
マリアが露骨に嫌悪した様子で俺に聞いてくる。
対して、俺は言葉に詰まってしまう。
なんて、言うべきだろうか。
「……たぶん。知り合いだと、思う」
「ふーん、あんたも意外に手が早いのね」
マリアはどこか関心した様子で、そう言った。
俺は考える。
アリスに会いたかった。
しかし、アリスは俺に会いたくなかったのかもしれない。
……いや、会いたくなかったのだろう。
当たり前だ。
自分を裏切った家族と再会して、なにが嬉しい。
そんな当たり前のことすら俺は理解していなかった。
俺がアリスに会いたいという気持ちはただの自己満足でしかなかった。
……俺はアリスに会って、なにをしたいのだろう。
いや、俺は、アリスになにを言いたいのだろう。
・・・・・
やがて、食堂に学生たちがやってきた。
皆、綺麗な身なりをしており、上品且つ気品溢れる雰囲気と立ち振る舞いをしていた。
学生たちが、皆、各自、席に座る。
対して、マリアや他の従業員たちが、学生たちに近付き、給仕を担う。
俺はというと右目の欠損を理由に、給仕の仕事を免除されたため、厨房に籠り、各種の料理をそれぞれの食器に盛り付ける作業に従事していた。しかし、どうしても、昨夜の出来事を思い出してしまい、思うように作業に集中することができない。
ふと、気が付くと、食堂の方が騒がしい。
静かに厨房から顔を出して、食堂内を一望する。
見渡すと、食堂の隅のテーブル席にいるシンディの姿を見つけた。
シンディは友人たちと仲良さげに話している。俺がシンディを見ていると、シンディは俺の視線に気付いて、小さく、静かに微笑んだ。
次に、食堂内を些か慣れない様子で歩き回るマリアを見つけた。
マリアと他の給仕たちとを見比べると、随分と歩調がたどたどしく、表情に浮かべる笑みも、どこかぎこちなく見える。どうやら、上流階級の人々への対応の仕方に苦心しているようだ。
頑張れ。俺は心の中でマリアのことを励ます。
そして、彼女――レイラを見つけた。
レイラは友人たちと共に食堂内のテーブルの一角を占拠している。
いや、レイラの周りにいるのは、友人ではないかもしれない。友人というより、むしろ、取り巻きという方が適確な表現かもしれない。
シンディを見てから、再び、レイラを見た。シンディは友人たちに対して、朗らかな笑みを浮かべており、友人たちを信用していることが伺える。対して、レイラは友人もしくは取り巻きに対して、無表情のまま、接しており、どこか素っ気なく思えた。
そんなレイラたちにマリアが近づく。
「失礼致します。お食事をご用意させていただきます」
「あら? 見ない顔ね」
「あなた、新しい従業員?」
「はい。マリアと申します。なにか御用の際はいつでもお申し付けください」
「当たり前じゃないのよ。そのための従業員でしょう」
「ほら、早く準備しなさいよ。食事が冷めちゃうじゃない」
「……畏まりました」
レイラの取り巻きたちがマリアとなにか話しているようだ。会話の内容は聞こえないため、わからないが、マリアの顔に、うっすらと青筋が浮かび上がっている。そんな気がした。いったい、どうしたんだろう。
「ようやく、朝食が食べられますね、レイラ様」
「…………」
「あの給仕、仕事が遅くて、困りましたね」
「まったく、ちゃんと仕事を覚えてから、私たちの前に立ってもらいたいものですわ」
「本当ですの」
「……うるさいわよ。食事中は、静かにしなさい」
「し、失礼しました……」
「申し訳ございません……とんだご無礼を」
レイラはゆっくりと静かに朝食を食べている。その仕草と所作は完璧の一言であり、気品に満ち溢れていた。絵になる。そんな表現があるとすれば、まさに今のレイラがそれであった。
やがて、マリアが厨房に戻ってくる。
「すっごく、疲れた……」
「お疲れ様」
「類は友を呼ぶとは言ったものね。あの女、自分の性格が悪いだけじゃなくて、周りにいる女たちも性格が悪いわ」
「大変だったね」
「ここの学生たちへの給仕は色々と気を使うし、面倒くさいわね……これなら、まだ、酒に酔った中年が相手の方が楽だわ」
そう言って、マリアは大きな溜息を吐いた。
俺とマリアが雑談していると、突然、食堂の方から誰かの叫び声が聞こえた。
食堂の方を見ると、とある給仕が慌ててレイラたちの元へと駆け寄っていた。
なにやら、レイラの取り巻きたちが騒いでいる。
「ちょっと、これはなによ!」
「ど、どちらでしょうか?」
「ここよ、ここ!」
「これは……! た、大変申し訳ございません! すぐにお取り替えします!」
「取り替えて済む問題じゃないでしょ!」
「本当に申し訳ございません!」
「謝って済む問題でもないわよ!」
「今すぐ、この皿に料理を盛り付けた従業員を呼んできて!」
「で、ですが……」
「呼んできなさい! これは命令よ!」
「は、はい、畏まりました!」
その給仕は、すぐに厨房へと駆け込み、ひとつの皿を俺たちに見せてきた。
「この料理をお皿に盛ったのは、誰ですか!」
「お、俺ですけど……」
俺はおずおずと手を上げた。
「な、なにか、駄目でしたか……?」
「なにか、じゃあ、ありませんよ! とにかく、すぐに来てください!」
「は、はい!」
俺はその給仕に連れられて、慌てて、厨房を出る。
食堂にいる多くの学生たちが、皆、一斉に俺のことを見てくる。
俺は居心地の悪さを感じながら、レイラたちが座っているテーブル席へと連れてこられた。
取り巻きの1人が俺の顔を見た瞬間、悲鳴を上げた。
「気持ち悪い目!」
「なんで、あなたみたいな男が、ここで働いているのよ!」
「そんなことより、あなたが、この料理をお皿に盛り付けたの?」
「は、はい……あの、どうかしましたか……?」
「あなた、片目の上に節穴なの?! ここをよく見てみなさいよ!」
「し、失礼します……」
俺は料理の盛り付けられた皿を見つめる。
しかし、特におかしいところは見つからない。
「も、申し訳ありません……どこか、おかしいところがございますか……?」
「ここよ、ここ!」
そう言って、取り巻きの1人が皿の隅を指差す。
そこには、微かにソースが付着していた。
え……これが、駄目なのか……?
「も、申し訳ございません……」
「あなた、どういう神経しているのよ?! こんな皿を私の食事に出すなんて!」
「信じられない! 頭おかしいじゃないの!」
取り巻きたちが感情的に叫ぶ。
取り巻きたちに同調するかのように、周囲の人々も俺を非難するかのような陰口を囁き始めた。食堂内は急速に俺への敵意と嫌悪で満ち溢れていき、俺は恐怖を感じた。
「落ち着きなさい」
突然、レイラが厳かに言った。
しかし、食堂内の怒気は沈静しない。
「黙りなさい!」
今度は、大きな声で、レイラが叫んだ。
「レイラ様……」
「し、しかしっ」
「言ったでしょう。食事中よ。」
レイラが取り巻きたちを睨む。
すると、途端に、取り巻きたちは口を塞ぎ、黙り込む。それに釣られて、食堂内にいる全ての人々が無言になり、食堂内は不気味な沈黙に包まれた。
レイラがおもむろに俺を見る。
「あなた」
「は、はいっ」
対して、俺は上擦った声を上げてしまう。
「ここに来なさい」
「え……」
「ここに手を置きなさい。命令よ」
「は、はい……」
言われた通り、テーブルに手を置く。
な、なにをするつもりだ……?
狼狽する俺を余所に、素知らぬ顔をしたまま、レイラは食事を続ける。ナイフとフォークを優雅に扱い、小鳥のような小さな口を開き、料理を食べる。そんな食事の作法すら、優雅であり、俺は思わず、見惚れてしまう。
しかし、レイラはそんな俺や他の人々からの視線など、一切気にする様子もなく、食事を続ける。
「あなた」
レイラはフォークを持ったまま――
――なんの躊躇もなく、俺の手に自身が持つフォークを振り下ろした。
突然、途轍もない痛みを感じて、俺は泣き叫んでしまう。
自身の手の甲から血が噴き出し、テーブルに真っ赤な染みができた。
他の人々も、釣られて悲鳴を上げる人や感嘆の声を上げる人がいた。取り巻きたちはレイラの行動にドン引きして、言葉を失っている。
しかし、レイラは、やはり、表情ひとつ変えずに言い放った。
「よくも、こんな料理を出せたわね。料理人として、最低の仕事ぶりよ」
「あ、あ、ああ、申し訳っ、ございませんっ!」
俺は、ただ、ひたすら、謝った。とにかく、謝り倒した。
「次はないわよ」
「あ、あ、ああ、は、はいっ、はいいっ」
レイラは取り巻きたちの方を向いて、言った。
「これで許してやりなさい」
「は、はいっ」
「わ、わかりました、レイラ様っ」
レイラが取り巻きたちを引き連れて、席を立ちあがる。そのまま、食堂を出て行こうとする。
「レイラ!」
そのとき、食堂内に、とある人物の声が大きく響き渡った。
レイラは静かに振り返る。
俺は手の甲に感じる悶絶した痛みに堪えながら、顔を上げた。
あの人は……?
「レイラ、いい加減にしろっ」
「ウィリアム王子……」
食堂にいる全ての人々が2人を見つめる。
そこには、レイラの婚約者であり、次代の国王となるウィリアム王子がいた。