16:再会
俺はどうすればいいんだろう。俺はなにができるんだろう。
俺はなにがしたいんだろう?
店内を掃除する傍らで、俺はそんなことばかりを考えていた。
農作業なら少しは自信がある。幼い頃から嫌になるほど、従事してきた。
「どこかの農村にでも移住して、農奴に戻るか……もしくは、荒地や開拓地にでも入植して、自分の農地をいちから開墾するか……いや、無理だな……」
自分で考えておきながら、すぐに、自分で考えたことを否定してしまう。
俺には自分で考えて行動するだけの農作業の実践的な知識や技術がない。さらにいえば、自分で、新しい農地を開墾するだけの根性や気力などもない。俺にできるのは、せいぜい、どこかの農園で、他者に使役される農奴として、農作業に従事することだけだ。
「それに……」
ある懸念を言いかけて、そのまま、言い淀む。
俺はその懸念を振り払い、他に、自分ができることを考えてみる。
王都に辿り着いてから、2年間、俺はマリアやマリアの母親が営む料理店で働いてきた。その経験を活かして、どこかの酒場や食堂で働けないだろうか……いや、それこそ駄目だ。料理店で働いてきたといっても、俺がしてきたことは、料理を作るマリアの母親の手伝いがほとんどで、自分だけで料理を作ることはできない。それに俺は自身の右目が欠損しているため、客との接客や給仕をすることができない。というより、俺は人と話すことが苦手で接客や給仕をできる気がしない。
「はぁ……」
思わず、大きな溜息を吐いてしまう。
「はは、俺って、本当に、なにをやっても中途半端だな……」
自分自身の情けなさを痛感してしまい、思わず、自嘲してしまう。
そもそも、働きたくない。しかし、働かなければ、生きていくことができない。でも、死にたくはない。だから、嫌々ながら、不平不満を口にしながら、働く。結局、人間が生きる理由は「死にたくない」という最も根本的な死への恐怖からくるものだということを実感する。
なにも考えず、ただ、適当に、その場しのぎで生きる今の自分の生き方。
それは、まさしく、前世と全く変わらない俺の人生だった。
突然、店の裏口の扉が開く。買い物に出掛けていたマリアが帰ってきたようだ。
「おかえり」
「ただいま」
帰宅したマリアが足早に店内を掃除している俺に近付いてくる。
「さっき、広場で、面白い話を聞いたわ」
「どんな話?」
「新しい仕事についての話よ。最初から話すから、ちょっと、待って」
そう言って、マリアは店内の椅子に腰掛ける。俺にはマリアが珍しく高揚しているように思えた。走って帰ってきたのか、微かに、息が荒く、顔も赤い。
「それで、その話なんだけど、とある食堂で、住み込みで働く料理人や給仕を募集しているらしいのよ。しかも、募集人数は複数人だって」
「そんな話、いったい、誰から聞いたの?」
「買い物をしているとき、名前も知らない商人から聞いた話よ。だから、ただの噂かもしれないし、もしかしたら、もう募集していないかもしれないわ。でも、この募集が本当なら、駄目元でもいいから、一度、受けてみたいと思わない?」
「それはそうだけど……というか、その食堂はどこにあるの?」
「王都の郊外に位置する王立の学校よ。その学校に新しい食堂が併設されたから、そこで働く従業員を募集しているみたい」
「学校……」
「今、国を統治している王様の1人息子のウィリアム王子って知っている? その王子が在籍している学校なんだって。まぁ、つまり、王族や貴族、上流階級の金持ちのご子息様たちが通うような学校ね」
「そんな学校が、俺たちを雇ってくれるかな……?」
上流階級の人々が通うような学校なら、そこで働いている教職員やそれ以外の作業員も、皆、確かな家柄や経歴を持っているような人々であるはずだ。そんな学校に付属している食堂で働く料理人や給仕を務める作業員にも、それなりの身元の保証が求められるはずだ。それに募集先は学校の食堂、つまり、学校の敷地内で提供される食事をつくる場所だ。上流階級の人々を、毒殺という危険性からすこしでも阻止するためにも、俺のような奴を信用するとは思えない。
「雇ってもらえるかはわからないわ。でも、もし、雇ってもらえれば、貰える給金も高いはずだし、安定した生活を送ることができるわよ」
「まぁ、確かにね………」
そう言って、俺はマリアを見る。
なんとなくだが、マリアは雇ってもらえるような気がする。王族や貴族に仕える女中としての作法は身に着けていないが、給仕を担う者としての接客は完璧だ。家柄は俺と同じように、なんの家柄も持たない庶民だが、身元ははっきりとしているし、なにより、雇うに足る実力を持ち合わせている。
対して、俺は雇うに足る実力を持ち合わせてはいない。それに加えて、もうひとつ。俺には元々違う農村で生まれ育ち、家族と死別したことにより、王都に流れ着いたという過去がある。事情はどうであれ、政府から貸与された土地を放棄している。事実上、今の俺は耕作と貢納の義務を果たしていないということから、国に楯突いた罪人なのだ。これが、俺が最も懸念していたことである。こんな俺を雇ってくれるだろうか。
そんなことを考えていると、マリアが、なにかを思い出したように口を開いた。
「ああ、そうだ。ジョン、これから、あたしとあんたは夫婦になるわよ」
「え?」
さも、当たり前といった様子で喋るマリアと素っ頓狂な声を上げてしまう俺。
今、マリアはなんて言った? 夫婦?
それって……。
「ど、どういう意味?!」
「そのままの意味よ。これから、仕事を探すときにお互いの姓が違うと、なにかと、面倒じゃない。だから、そのための偽装結婚よ」
「マリアはそれでいいのか……?」
「べつにいいわよ。あんたのこと、嫌いじゃないし。好きでもないけど」
「で、でも、それじゃあ……」
「折を見て、別れたことにすればいいし、そんな難しく考えることじゃないわよ」
「…………」
俺がマリアの姓を名乗ることで、俺の過去を表面的ながらも隠すことができる。もし、政府に身柄を拘束されて、俺の経歴を詳細に調べられたら、嘘が発覚してしまうが、それまでは、俺の過去を隠すことができる。俺は、そんなマリアの不器用な優しさと気遣いに気付き、言葉に詰まる。
でも、それでも、言わなければならないことはある。
「……マリア」
「なによ?」
「ありがとう」
「だからなにが? 別にあたしはお礼を言われるようなことなんてしてないわよ」
「それでも、ありがとう」
「……まぁね、ジョンが言いたいこともわかるわ。その募集に受かるのか、不安なんでしょ? 正直に言って、あたしも受かる気がしないもの。でも、いいじゃない。駄目だったら、他の仕事を探せばいいし、試すだけなら、お金もかからないわ。気後れしていたら、なにもできないわ」
「たしかに……そうだね」
マリアは自身の頭を書きながら、照れくさそうに、話題を逸らした。
今の俺には、なにかを始めるための第一歩が必要なのかもしれない。こうやって、なにかにつけて、言い訳をして、動かないでいたら、いつまでたっても、なにも始まらない。
「じゃあ、店を畳んだら、今度、行ってみようか?」
「そうこなくっちゃ!」
マリアは勝気な笑みを浮かべた。
俺は、そんなマリアがたまらなく愛おしく感じた。
・・・・・
俺にとっては王都に流れ着いてから約2年間、マリアにとっては生まれてからずっと、暮らしてきた店を畳み、俺たちは学校へと向かった。たとえ、どのような結果になったとしても、店には帰らないと決めている。俺とマリアには、もう、自分を守ってくれる親はいない。自分で考えて、生きていくしかない。帰る家を無くすことによって、そんな決意と覚悟を固めてきたつもりだ。
そして、ようやく、学校に辿り着くことができた。
目の前に聳え立つ学校を見て、俺は仰天してしまう。堅牢な外壁に覆われた校門の向こう側には、学校の校舎が美しい外観を保っている。そして、学校の敷地面積が半端ではないほどに広い。おそらく、学校に在籍している学生や学校で働く教職員や従業員のための寮や複数の施設を有しているのだろう。だからこそ、非常に大きな敷地面積を誇り、そのための土地を用意することが困難だったために、この学校は王都の郊外に位置しているのだろう。
校門前には、守衛を務めている門番が複数人いた。
その内の1人に話しかける。
「あ、あの……」
「はい、どうかしましたか?」
門番たちは俺とマリアを訝しむ様子で見てくる。
皆、俺とマリアのことを蔑んでいるような、そんな目をしていた。
「この学校の食堂で従業員の募集をしていると聞きました。あたしたちはその募集を聞いてきたんです」
俺の代わりにマリアが話してくれた。
マリアの堂々とした佇まいと口調を見て、相手の門番は表情が僅かに変化した。
「あなたたちが?」
「はい。どうか、ぜひ、一度、ご検討を、お願い致します」
「お、お願いします」
マリアが頭を下げるのに習い、俺も頭を下げる。
「ふむ……」
相手は俺とマリアを値踏みするかのような目つきで見てくる。
やがて、口を開いた。
「検問所で審査をしますので、ついてきてください」
「あ、ありがとうございます!」
「ありがとうございます」
また、俺とマリアは深く頭を下げた。
「ああ、では、まず最初に推薦状を拝見させていただきます」
「す、推薦状……?」
「推薦状ですか?」
俺とマリアが戸惑ってしまう。勿論、誰の推薦状も持ってなどいない。
そんな俺とマリアの反応を見た途端に相手の表情が厳しくなる。
「……もしかして、お前たち、誰からの推薦状も持っていないのか?」
いきなり、門番の口調が悪くなった。
「は、はい。持っていません……」
対して、俺はできるだけ畏まった口調で話すように努める。
「お前ら、どこの家の者だ?」
「…………」
俺は無言になってしまう。なんと答えればいいのかわらなかった。
「あたしたちの家には家柄などという大層なものはありません」
また、マリアが代わりに答えてくれた。
「つまり、ただの庶民ということか?」
「はい、そうです」
「…………」
門番は無言のまま、大きな溜息を吐いた。
相手をするのが面倒臭い。そんな顔をしていた。
「誰からの推薦状も無い、あまつさえ、ただの庶民が、この学校の中に入れるわけがないだろう?」
「し、しかし……」
「この学校にはどのような方々がおられるか、お前らは知らないのか? ここは、お前たちのような庶民が入れる場所じゃない。さぁ、早く帰れ」
「しかし、今回の募集では身分や家柄を問わない。そうお聞きしたのですが?」
マリアがなんとか食い下がろうとする。しかし、門番はにべもなく言った。
「確かに、この学校で働く従業員たちの家柄や身分は問われていない。それは事実だ。だが、誰の推薦も持たないのでは、その人物の身元を保証することはできない。そうだろう? 信用もできない奴を雇うわけないだろう?」
「そ、そんな……」
「たまにいるんだよ、お前らみたいな常識知らずの馬鹿正直な奴らが。お前らみたいな得体の知れない奴らを学校の中に入れるわけにはいかない。俺たちは、お前らみたいな奴を学校に入れないために見張っているんだから」
「…………」
俺は言葉を無くしてしまう。
正論だ。ぐうの音もでないというのは、こういうことをいうのだろうか。
しかし、同時に思った。やっぱり駄目か、と。
内心、こうなることはわかっていたため、あまり絶望もしなかった。
「さぁ、早く帰れ」
「お願いします、あたしたちは怪しい者ではありません! どうか、ご検討を!」
しかし、それでもマリアは食い下がろうとする。
「あたしたちは、夫婦で、とある料理店を営んでおりました。きっと、皆さまのお役に立つことができると思います。ですから……」
「ああ、もう、しつこい! おい、お前ら、ちょっと来てくれ!」
門番が仲間を呼ぶ、すると、他の門番たちが、すぐに駆けつけてきた。
「おい、いい加減にしろ!」
「さっさと、ここから立ち去れ!」
他の門番たちが俺とマリアを捕まえようとする。
「い、痛っ! ちょっと、何すんのよ!」
駆けつけた門番たちに強く手を掴まれたマリアが思わず、地を出してしまう。
そのまま、マリアは掴まれた手を振り払い、抵抗してしまう。
「こ、この抵抗するのか! おい、さっさと捕まえろ!」
「さっさとどっか行け! そして、二度と近づくな!」
「や、やめなさいよ! 痛いじゃない、離しなさい!」
しかし、マリアはすぐに拘束されてしまい、門番に羽交い締めされてしまう。
同時に、俺も捕まった。
「や、やめてください! 出ていきます、出ていきますからっ」
「だいだい、お前が一番怪しいわ! なんだ、お前のその目は!」
「ご、ごめんなさい。抵抗しませんから、やめてくださいっ」
俺とマリアは門番たちに組み敷かれて、もみくちゃにされてしまう。
そのときだった。
「――ジョン?」
誰かが、俺の名前を呼んだような気がした。
なぜか、懐かしような気がする。
どこかで聞いたような気がする。
俺はゆっくりと振り返る。
そこには1人の女性がいた。見知らぬ女性だが、どこかで見たような気もする。
しかし、彼女の顔を見て、すぐに理解した。
俺と彼女は互いに驚愕してしまい、互いに絶句してしまう。
し、信じられない……!
な、なんでここに……?
「シンディ……!」
「ジョン!」
それはまさに奇跡の再開であった。
目の前には、もう二度と会えないと思っていた相手、シンディがいた。
・・・・・
結局、あの場は、シンディの介入によって、なんとか収まった。
俺とマリアを怪しむ門番たちに対して、シンディが必死に懇願してくれたのだ。
そのときの会話を思い出す。
「シンディ様、こいつらに近付いてはなりません!」
「こ、この人たちは私の大切な友人です! 離してあげてください!」
「し、しかし……」
「大丈夫です。この人たちは信用できます。私を信じてください」
「…………」
結局、シンディの計らいによって、俺とマリアは釈放され、学校の敷地内に入ることができた。門番たちは不本意とでも言いたそうな表情を浮かべていた。
「シンディ、本当にありがとう」
「あたしからもお礼を言うわ。どうもありがとう」
俺とマリアは揃ってシンディに感謝の言葉を伝えて、頭を下げる。
「いいのよ。気にしないで」
そう言って、シンディは静かに微笑む。
久しぶりに見たシンディの笑顔は、相変わらず、優しげで可愛らしかった。
「でも、本当に驚いたわ。まさか、こんなところでジョンと再会できるなんて」
「俺も驚いたよ。ていうか、今でも、信じられないくらいだ」
俺はそう言って、シンディを見る。
シンディは気品と上質さを兼ね備えた上質そうな服装を身に着けていた。
「えっと、あなた……」
マリアがをシンディを見て、言い淀む。
なんて呼べないいのか分からず、困っているようだ。
「私のことはシンディって呼んでください」
シンディはマリアの思いを素早く汲み取り、そう言った。
他人への思慮深さと頭の回転の速さも相変わらずのようだ。
「わかったわ、シンディ。あたしはマリア。よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします。マリアさん」
そう言って、マリアとシンディはお互いに挨拶をし合う。
「私は、ジョンの幼い頃からの友達、いわゆる幼馴染なんです」
「私は……ええっと、まぁ、ジョンの妻よ。一応だけど」
「え!」
シンディが思わず、叫んでしまい、驚くのと同時に赤面した。
「ジョン! マリアさんと結婚したの!?」
「ち、違うから。そうじゃなくてっ」
俺は慌てて、訳を話した。同時に、俺とマリアがこの学校を訪れた訳も話した。
マリアは、俺とシンディの慌てる様子を見て、笑っていた。
「そ、そうだったの……お互いに色々あったみたいね」
シンディは納得した様子で頷きながら、そう言った。
「そっか、食堂の料理人と給仕の募集を受けに来たのね……」
「ええ。でも、誰からの推薦状も持ってないんじゃあ、信用できないって、門前払いを食らっていたのよ」
「もし、あのとき、シンディがいなかったら、俺たち、あのまま、追い出されていたよ。シンディ、改めて、本当にありがとう」
「気にしないで。私も、偶然、あそこにいただけだから」
そう言って、また、シンディは、はにかみながら微笑んだ。
「でも、このままだと、2人とも、すぐに追い出されちゃうわ。門番の人たちも、上の人たちに、さっきのことを報告しているだろうし……」
「そうだよね……どうしよう……」
「シンディ、ちょっと聞いてもいいかしら?」
「なんですか?」
「もしかして、シンディはここの学生なの?」
「そうですよ」
やっぱり、そうだ。
シンディの身に着けている服装はこの学校の制服だったんだ。
「私、普段はここの寮で生活しているんですけど、先日は、両親のいる実家に帰ってて、さっき、学校に帰ってきたところなんです。そしたら、2人が校門にいたんです」
「へぇ、そうだったのねぇ」
「え……?」
俺は首を傾げる。
シンディは孤児院出身だ。
さらにいえば、シンディが暮らしていた村はもう……。
「シンディ--」
言いかけて、気が付く。シンディが俺に目配りをしている。
俺がシンディと離れていた間、色々なことがあった。同じように、シンディも俺と離れていた間、色々なことがあったはずだ。その色々なことについては、今、聞くべきではないだろう。この場にはシンディにとって、出会って間もないマリアがいる。それに、なにより、俺とシンディは長らく会っていなかった。今、俺とシンディの間には長い時間の経過という隔たりがあるはずだ。お互いの近況を報告しあうのは、また、後日、落ち着いてからの方がいいだろう。
「ねぇ、シンディ、実は、お願いがあるの」
「いいですよ。マリアさんが言いたいことはわかっています。」
「……ありがとう。会って間もないのに、図々しいお願いをして、ごめんなさいね」
「構いませんよ。私にできることなら、なんだってします」
「本当にありがとう。このお礼は、今度、必ず、するわ」
「うふふ。楽しみにしています」
「え、あの、なんの話?」
俺だけが状況を理解することができず、狼狽してしまう。
そんな俺を見て、2人は笑っていた。やがて、シンディが口を開いた。
「食堂の募集の件、私が、ジョンとマリアさんのことを紹介・推薦するわ」
そう言って、シンディは自身の胸を自信満々に叩いた。
・・・・・
シンディが俺とマリアを斡旋してくれたことにより、俺たちが食堂で働くことは驚くほど簡単に決定した。学校に辿り着いたその日のうちに、俺たちは働かせてもらえることが決まったのである。
また、シンディが、後日、自身の両親に手紙を書いて、俺とマリアへの推薦状を書いてもらえるように頼んでくれるらしい。
シンディの助力は絶大な効果を発揮した。
どうやら、シンディは、この学校において、大きな信用を保持しているようだ。それは、シンディの両親の影響力が及んでいるのか、それとも、シンディ自体の性格によるものなのかはわからないが。
その日の夜には、学校に併設されている従業員専用の寮を充てがわれた。しかも、俺とマリアは、それぞれ個室の部屋を割り振られた。これは、従業員としては破格の待遇であるらしい。これも、シンディの力添えがあったからかもしれない。
自分の部屋の窓を開けと、外から部屋に流れてくる風が心地よく感じた。
窓の外には、手入れの行き届いた薔薇園が広がっていた。これも、上流階級の人々が嗜む趣味のために造られているのだろう。しかし、元々、農村出身の俺からしたら、食べられない観賞用の薔薇を栽培するより、食べられる実用的な野菜や果物を栽培した方がよっぽど、有意義だと思った。
ふと、薔薇園を眺める。そこには誰かがいた。
もう、夜なのに、なにをしているのだろう。
なぜか、俺は、気になってしまい、目を凝らして、その人物の姿形を凝視した。
そして、絶句した。 彼女に、あまりにも、似ていたから。
俺は驚きのあまり、腰を抜かして、地面へと倒れ込む。
嘘だ。ただの見間違いだ。
頭の中で様々な言葉が浮かんでは消えていく。
部屋の扉が叩かれる。
「ちょっと、ジョン。なんか、大きい音がしたけど、大丈夫?」
扉の外からマリアの声が聞こえた。
しかし、そんなことはどうでもいい。
もう一度、窓の外を見る。
まだ、いる。まだ、彼女はそこにいた。
心臓の鼓動が高鳴り、動悸が極端に激しくなる。興奮と動揺のあまり、呼吸が乱れて、息が苦しくなる。
思わず、俺は部屋を出ててしまう。扉を勢いよく開けた拍子にマリアが驚き、地面に倒れてしまうが、やはり、そんなことはどうでもいい。
寮内を走り、多くの人々から好奇の視線に晒される。人々の中には、俺の右目を見て、露骨に嫌悪する人や悲鳴を上げる人もいたが、気にもならなかった。
寮の外に出て、俺はそのまま、一心不乱に薔薇園を目指す。
「シンディ……」
「ウィリアム様……」
「どうして、昼間は来てくれなかったんだ? ずっと待っていたのに……」
「ごめんなさい。昔の友達と偶然、再会したのですが、その友達が困っていたので、助けてあげていたんです……」
「そうだったのかっ」
「本当にごめんなさい」
「いや、俺の方こそ、責めてしまい、すまない」
途中、シンディが誰かと抱きしめ合い、愛を語らっていた。
「!」
「ジョン!」
シンディとその相手は俺に気付き、かなり狼狽していた。
しかし、そんなことはどうでもいい。
今、俺の頭の中にあるのは、ただひとつ。彼女についてのみである。
そして、薔薇園に着いた。
目の前には、1人の女性が背を向けたまま、立っている。
彼女は俺に気付いていないようだ。
俺は、何度も息を切らしながら、彼女の名前を呼んだ。
「アリス……?」
「!」
彼女が驚き、彼女の肩が僅かに震える。
そして、彼女は、ゆっくりと振り返り、俺の方を向いた。
会いたくてたまらないはずの妹が、そこにはいた。
「!」
「…………」
今度は俺が驚き、彼女の顔を見つめる。彼女からは、どこか権威の感じられる格調高い雰囲気と、何者をも寄せ付けない氷のような冷酷な恐ろしさが感じられた。また、彼女は、俺と同じく、右目がなく、眼帯を付けていた。
そして、左目には。
どこまでも続く、闇のように暗く、泥のように濁りきった瞳があった。
その瞳には、強い憎しみの感情が含まれていた。
第二章 それでも俺は生きている 了