9:別れの儀式
あれから2年後。
また、ぶどうの収穫の時期がやってきた。俺はこの時期が大嫌いだ。
ぶどうは実る果実の自重により、木の枝から低い位置に垂れ下がり、実る。そのため、収穫する際には、腰を低くした姿勢を保たなくてはならないため、腰が痛みやすい。俺は腰を低くしたまま、ぶどうをひとつひとつ丁寧に捥ぎ取り、実を潰さないように、細心の注意を払いながら樽の中に入れていく。
突然、腰に激しい痛みを感じて、その痛みに悶える。
「ああ、くそっ。またか」
俺は背筋を張り、腰を擦る。ふと、辺り一面に広がる我が家のぶどうを眺めた。
ぶどうの収穫量が減ってきている。そんな気がした。
土に栄養が不足してきており、痩せてきているのかもしれない。しかし、俺には、農業の知識などないので、どうすることもできない。
もう土地を捨てて、離農してしまった方が、いいのかもしれない。しかし、この土地を離れたからといって、行く当てもなければ、他の職に就くための知恵も技術もない。そして、なによりも、土地を捨てることを政府が許さない。俺は、一生、この村で、国のために働き、死ぬのだろうか。そう考えると、憂鬱だった。
俺はなんで生きているんだろう。それは前世で散々考えたことだったが、その答えは未だにみつかっていない。
「ジョン!」
「……ん?」
誰かに名前を呼ばれたような気がする。振り返ると、遠くにシンディがいた。
「シンディ!」
挨拶代わりに軽く手を振り、シンディに近寄った。
「調子はどう?」
「あんまりよくないかな。シンディの村のぶどうはどう?」
「私の村もあまり。ぶどうの木が若いからかしら。あまり実らないの」
「そっか、でも、それなら、今後の木の成長に期待ができるじゃないか」
「そうなんだけど……ジョンの村のぶどう、やっぱり、実りが悪くなってきている?」
「……そうかもしれない」
「やっぱり、ジョンが言う通り、土に栄養が不足しているのかしら?」
「たぶん、そうだと思う。それに……」
俺はそう言いかけて、口籠った。
ぶどうの収穫量が減ってきているのは、ぶどうの実りが悪くなってきていることだけが原因ではない。ぶどうを収穫する人手が1人いなくなった。これも大きな原因であった。
「あ、そういえば、ジョン、三圃式農業って、知ってる?」
突然、シンディが思い出したように聞いてきた。
「え……いや、聞いたこともない。なにそれ?」
「この間、街に来ていた本の行商人から買った本に書いてあった言葉なの。北部では農地を3つの違う用途と季節ごとに使い分けることによって、土に栄養が不足するのを防ぐんだって。このやり方のことを三圃式農業っていらしいの」
「へぇ……」
「私、この三圃式農業っていうやり方を私たちの村でも試してみようと思うんだけど、ジョンはどう思う?」
「いいんじゃないかな」
俺は素っ気なく答える。しかし、内心では、シンディへの感心と自身への無能さを感じていた。
シンディは本当に頭が良く、そして、努力家だ。俺が推測した土に栄養が不足しているという問題に対して、シンディは明確な解決方法を探し当てたのだ。そんなシンディに比べて、俺は前世の記憶を保持しているいながら、なにもできていない。ただ、目の前で問題が起きているだけで、なにもできない俺。
あのときだって、俺は見ているだけだった。
「ジョン?」
「あ、いや……ごめん」
「……もしかして、アリスのことを思い出してた?」
「…………」
俺は何も答えることができなかった。
答えてしまったら、せっかくのシンディの気遣いが意味を無くしてしまう。そんな気がした。
今、アリスは、どこで、なにをしているんだろうか。
今や、生きているかどうかさえ、知る術はない。
アリスのことを思い出してしまい、互いに無言になり、感傷に浸る。
アリスを身売りしたことを、シンディに話したときのことを思い出す。
シンディは俺の頬叩き、下唇を噛みながら、泣いていた。必死に何かを訴えるような目つきで睨みながら、泣いていた。そんなシンディと相対して、俺はアリスへの罪悪感で胸が詰まり、シンディに泣いて、跪き、許しを請い、縋った。あのときのシンディの表情を俺は忘れることができない。あの悲しみと憎しみを、同情と軽蔑を含ませた表情を。
それは俺が知る限り、唯一、シンディが怒ったときの顔だった。
・・・・・
今日の分のぶどうの収穫を終える頃には、辺りはすでに暗くなっていた。
俺とシンディは母さんと父さんと合流した。
「シンディちゃん。今日はもう遅いし、うちで、ご飯食べていくかい?」
「いえ、今日は元々、出荷するぶどうを引き取りに来ただけですので、遠慮しておきます」
「そうかい? シンディちゃんなら、いつでも大歓迎だよ」
「ありがとうございます。でも、孤児院の子供たちが心配しますので……」
「ああ……」
母さんは納得した様子で頷いた。
「ジョン。シンディちゃんを村まで送ってきな」
「ええ、そんな。大丈夫ですよっ」
「なに言ってるんだい。最近、物騒なんだ、女の子が1人で歩くのは危険だよ」
「そうだよ、シンディ。俺も心配だし、送ってくよ」
とは言ったものの、俺が付き添ったところで、どれくらい頼りになるのだろうか。俺はそんなことを考えながら、自嘲した。
「ジョンまで……分かったわ。じゃあ、お願いするわ」
「おう。じゃあ、さっそく行くか」
「ええ」
俺とシンディはぶどうを乗せた荷台を引きながら歩き出す。
「じゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい。またね、シンディちゃん」
「はい、またっ」
母さんに別れを告げて、俺とシンディは村を出た。
シンディの村へと向かう道中。
俺は母さんのシンディに対する態度について、考えてみた。おそらく、母さんはシンディのことを気に入っている。それはシンディが頭が良く、努力家であるということに加えて、俺たちのことを差別しない、優しくて、誠実な性格の持ち主であるからだと俺は考えている。
そして、もうひとつ。母さんは、俺とシンディが男女の関係になることを望んでいるようだ。シンディに対して好感を抱いているからこそ、母さんは、息子である俺の嫁がシンディであれば、そう考えているのだろう。
しかし、当の本人である俺とシンディには、互いに、そんな気は全くない。俺は隣で一緒に荷台を引いて歩くシンディを見つめる。
綺麗な女の子だと思う。アリスは可愛らしいという表現のよく似合う女の子だったが、シンディは綺麗という表現のよく似合う美少女だ。もし、シンディが俺の妻になってくれたとしたら、そんなことを考えると、自然と自身の頬が緩まり、気持ち悪い笑みがこぼれてしまう。
だけど、俺は、シンディのことを異性としてみることができない。俺にとってシンディは、自分自身を映す鏡だ。シンディを見ていると、自身の弱さと無能さに気付かされる。それは、とても、辛くて、苦しい。だから、俺にとって、シンディはただの友達でしかなかった。
というか、それ以前に、シンディが俺のことを異性としてみているわけがないのだが。シンディにとって、俺は頼りにならない友達といったところだろうか。
「ジョン、どうしたの?」
シンディが不思議そうな表情を浮かべて、聞いてくる。
「あ、いや、別にっ」
「私の顔になにか付いてる?」
「い、いや、そうじゃなくて……シンディは今の自分の暮らしをどう思っているのかなぁと思ってっ」
「どういう意味?」
「ほら、俺やシンディの村は貧しい農村じゃん? やっぱり、シンディも、こんな貧しい村じゃなくて、街や王都で暮らしたいって思う?」
慌てて、適当に聞いた質問だったが、聞いてから、かつて、アリスに似たようなことを聞いたことがあることに気が付く。あのとき、アリスはなんて答えたのか、思い出せなかった。
「うーん、どうだろう。他の人の家も、皆、同じようなものだし、別に暮らしていて、貧しいなんて、気にもしたことがないけど……」
そう言ってから、シンディは思案した。
れは叶わぬ願いに想いを馳せているようだった。
「学校や大学に行って、勉強がしたい」
「勉強?」
「うん」
シンディは深く頷いた。
「私の能力のこと、覚えている?」
「え、ああ、覚えているよ……もちろん、そのことは誰にも話してない」
「ありがとう……私は私の現実、自分の生活や小さな幸せを守ることができれば、それがずっと続いてくれればそれでいい。そう思ってたの。でも……アリスがいなくなってから、考え方が変わったの」
そう言って、シンディは遠くを見つめた。
「私、今の、この国の在り方はおかしいと思うわ。アリスがいなくなったのだって、元を正せば、ジョンの家が税金を納めることができなかったからでしょ? 一生懸命、働いていても、貧乏のままだなんて、おかしいわ。ただ、生きているだけじゃあ駄目。自分で考えて、努力して、この国を変えていかないと、私たちの生活は国に食われてしまうわ。だからっ」
「…………」
俺は無言のまま、シンディの言葉の続きを待った。
「だから、学校に行きたい。知識は私たちの身を守る力になるから」
「でも、それは……」
「わかってるわ。教育を受けるための高い授業料なんて払えないし、教育を受けられるような身分でもない。私には、叶わない夢よ。でも、それでも、考えるの。私に力があればって」
その目には確かな覚悟が感じられた。
シンディ立ち止まったので、なんとなく、俺も立ち止まってしまう。
「ジョン、ここまででいいわ。ありがとう」
「え、村まではまだ距離があるし、送っていくよ?
「ううん、大丈夫。ここで平気よ。これ以上、付いて来たら、ジョンの帰りも遅くなるし、おばさんとおじさんが心配するわ」
「……わかった。また、明日、ぶどうの受け取りに来るんだろう?」
「うん。その予定よ」
「本当に気をつけて。最近、危ないから」
「ありがとう。ジョンも気を付けてね」
「ああ、それじゃあ、またな」
「ええ、またね」
そう言って俺たちは別れた。俺とシンディは互いの村に向けて、歩き出す。
そして、次の日。シンディが俺の村に来ることはなかった。