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反動

 あの悪魔のような香の影響で、しばらくの間、私は多幸感を味わったが、それは地獄への始まりだった。


 気分はどん底まで落ち込み、自虐的な気持ちが止められない。こんなことでは何かがあったと疑われる、無理やりにでも気持ちを上げなければ、と思うのに、次の瞬間にはそんなことを考えていられない。


「コーネリア」


 寝台の中で丸くなっていると、毛布の外からサディアス様の声がする。


「調子はどうだ」

「……申し訳ありません。具合が、悪く……」


 昼間であるのに寝室はカーテンを閉め、暗くなっている。灯りは一台の燭台のみだった。ろうそくの上の火は頼りない。カーテンを開け、もしくは燭台の数を増やせば部屋は明るくなる。しかし、そうしたくない。

 このような姿、サディアス様にはお見せできない。


「そのように芋虫のように丸まっていては、息苦しいだろう。顔だけでも出したらどうだ」


 確かに汗を掻くほど、蒸し暑かった。そろりと、顔を出す。


「確かに、具合が悪そうだな。顔色が真っ青だぞ」

「申し訳ございません……」

「医者を呼ぼう」

「いいえ、いいえ、恐れ多い。じっとしていれば、一人にしていただければ、治ります」


 あの香の反動なのだとわかっている。これには、耐えるしかないのだ。


「……昔を思い出す。お前は学生時代、そのような青い顔をよくしていたな」


 あの頃も、香の反動に苦しんでいた。私にあった選択肢は、暗殺の依頼をこなして香を手に入れるか――


「しかし、あるときからそのような青い顔を見なくなった。再びそのような顔を目にするとは思わなかったぞ」


 学生時代の私は、苦しみを耐えきり、悪魔の香の依存から立ち直った。


 あまりに苦しく、サディアス様にご心配をかけるほどだったが、サディアス様のお近くにいるためには、耐えなければならないと思ったのだ。私が真に支配されるのはサディアス様にのみであり、香でありたくなかった。


 あの香を嗅いだのは、数年ぶりだった。そのためか、身体に影響が大きく、反動も強い。


 ここで、再び香を手に入れるため何でもするようになっては終わりだ。あれは、私の思考を壊す。あの香のことしか考えられなくなる。


 そんなことは嫌だ。私はサディアス様のことを考えていたい。サディアス様のために何ができるか、サディアス様を守るために何が出来るか、それだけを考えて生きていきたい。


 サディアス様のため……。


 思い浮かんだのは、天真爛漫な少女の笑みだった。


 小さな花束を持っていたサディアス様に、笑っていた彼女。彼女は一体、誰だろう。彼女はいつ、花束を贈られるほどにサディアス様と親しくなったのだろう。


 サディアス様の真に愛する人とは、彼女だというのだろうか……。


「……花束を……」

「なんだ?」

「花を、贈った相手が、サディアス様の好きな方なのですか」


 言った直後、最悪なことを訊いてしまったと気付いた。

 気が動転していたとしか思えない。

 ポリーにあの剣でこの様子を見られ、知られたら、サディアス様の致命的な弱点として報告されてしまうだろうに。


 質問を撤回しようと口を開いたが、サディアス様は答えてしまった。


「そうだ、と言ったら?」

「…………」

「俺が唯一、直接、花を贈った相手こそ、俺の惚れ込んだ相手だ」


 念押しまでされた。


 にっこりと笑い、あの少女との関係を祝福する――従者として私はそうするべきだとわかっていた。


 しかし私は呆然とサディアス様を見上げ、そんなことはできなかった。そしてあろうことか、反対のことを口にした。


「……身分が違います」

「ああ、そんなことはわかっている」


 サディアス様の表情が苦みを含んで歪んだのを見て、私はひどいことを言ってしまったと悟った。サディアス様だとて、百も承知だろうに。言う前から推測できることを、なぜ私は口にしたのか。……全部、あの香のせいだ。そう思いたい。


「申し訳、ございません」

「謝る必要などない。お前は何も悪くない」

「いえ、私は、従者です。サディアス様のお心を推し量れず、そのようなことを言わせてしまいました。本当に、申し訳ございません……!」


 サディアス様は必死に謝る私を、悲しいものを見るかのように見つめ、小さく溜息をつく。


 真に愛する方との関係を応援する――私はそれを望んで、妻失格の行動を取ってきた。サディアス様が呆れ、他の方を愛するのも当然だ。しかし、望みのとおりとなったのに、私の胸の内にあるのは、嬉しさではなく、死んでしまいたいほどの絶望だった。


 サディアス様は暗い部屋の中で立ち上がり、


「ゆっくり休め。俺も行く。俺がいては落ち着かないだろう――」

「行かないでください」


 私はサディアス様の手をつかんでいた。


「行かないでください、サディアス様……!」


 彼はあの少女のところに行ってしまう気がした。それは嫌だ。それは恐ろしく、耐え難いことだ。


 私はサディアス様を見上げ、視線で訴え続けた。どうかここにいてほしい、と。


 去ろうとしていたサディアス様は、突然覆い被さるようにしてごく至近距離まで顔を近づける。息がかかるほどの近さで見たサディアス様の瞳は、まさに獲物を狙う狼のように金に輝く。


「俺を試しているのか?」

「私がサディアス様を試すなど、あろうはずがありません」

「では、行くなと、本気で言っているのか」

「……はい」


 本心からの言葉だった。サディアス様にここにいてほしいと。


「なら、覚悟しているということだな」


 首筋に、かすかに痛みが走った。


 サディアス様が首筋に唇を寄せて、強く吸ったのだ。

 これから何が起きようとしているのか、わからないほど子どもではなかった。


 なぜ。サディアス様がお好きなのは、あの天真爛漫な少女でないのか。妻としての私に呆れたのではないのか。なぜ。


 ……身分が違うから、か。あの少女はあきらかに平民であった。あまりに身分が違うから、私をその代わりにしようというのだろうか。妻という立場の私を。


 それは正しい。理性的な判断だ。


 ただ、私の感情だけが、代わりにされるということが、どうしてもつらかった。

 それでも私は、ふりしぼって言わなければならない。


「……どうぞ、ご随意に」

「…………」

「私は貴方の望みを叶えるために、ここにいるのですから」

「……強張った青い顔で、よく言えるな」

「申し訳ございません。どうしても……。ご容赦くださいませ」

「どうしても、か」


 サディアス様が身体を離して、自嘲気味に笑った。


「いい。興が削がれた。どうしても俺を望まぬ女を組み敷いたところで、俺の望みなど手に入らない」

「望まぬ、など……」


 私はもっとうまく演技ができなければならなかった。満面の笑みで、サディアス様の望みこそ我が望みだと、そう周囲に思われるくらいに嬉しがらなければならなかった。


「申し訳ございません!」

「謝るな。俺が惨めだ。眠れ、コーネリア」


 こんなことを言わせてしまった私は、従者として失格だ。サディアス様のお心を守ることよりも、我を通してしまったのだから。


 今更私にできることはなかった。ただ、言葉を尽くすことしか。


「申し訳ございません。ただ、これだけは信じてくださいませ。私はサディアス様の従者として、心からの忠誠を誓っております。サディアス様は真に主としてふさわしい方。貴方のために力を尽くしたいと思っているのは、本当のことなのです。どのようなことであれ、私の感情など無視して、私を利用していただいてよろしいのです」


 サディアス様は私の言葉にしばらく考え込んでいた。


 肯定も否定もせず、サディアス様は燭台の火がゆらめく様を見つめている。寝台から下り、そして再び言った。


「眠れ。コーネリア」


 今度こそ、私は寝台の中で目をつむる。

 サディアス様の、寝台の傍らにある椅子に座った物音を聞く。しばらくそこにいてくださるらしい。


 それだけ近くにいらっしゃるなら、眠っていたとしても、不審な気配や物音がすれば目覚めて、すぐに守りの態勢を取れる。遠くにいられるよりも、はるかに安心できる。


 安心からか、私はすぐに眠りについた。香の悪夢に打ち勝つことを誓いながら――

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