報告2
ようやく馬車が学院に到着したのは、約束の時間の直前だった。静かにするように、と命じたはずのポリーが御者をせかしたおかげとも言える。彼女にしたら、私の命令よりも、主君との約束に間に合わせる方が優先度が高いのだから当然だ。
学院に足を踏み入れたのは、学生時分以来だ。
校舎も門もその頃と変わりがない。内乱の戦地は王都から離れた場所であったのが幸いした。
門の近くで待っていると、国王陛下との約束のためのカモフラージュ――別件で待ち合わせた人物が慌てたように走ってやってきた。
「ご、ごめん! ちょっと生徒の質問に答えてたら遅くなって! 待った? コーネリア」
いいえ、と私が微笑んだ先にいるのは、同級生だったシリルだった。
彼は男爵家の次男で、同じ貴族の中でも身分が近いこともあって、学生のときに親しくしてくれた。今はこの学院で教壇に立っている。
「っと、今は侯爵夫人なんだから、こんな話し方はいけないか……。コーネリア様、とお呼びするべきかな?」
「そんな。今までどおりに話しましょう」
「そうかい? ……良かった、じゃあこれからも友人同士として話そう」
シリルはほっとしたようだ。
「それにしても、侯爵夫人になるとは驚いたよ。……大丈夫? 学生時代はよく、病気で休むこともあったけど、侯爵夫人ともなれば忙しいだろう?」
私は学生時分、よく学院を休んでいた。
それは主に暗殺のためである。サディアス様の従者となってからも一族の暗殺依頼がなくなるわけもなく、それをこなす毎日と学生生活の両立は難しいものだった。
そして学院に通えたとしてもサディアス様の身を守るために動くことが第一であった私に、授業を受けることはあまり重視していなかった。
あの頃、サディアス様を守ることを最優先させたかった私は、一族からの暗殺指令や学生生活というのは邪魔なもの以外の何物でもなかった。
おかげで私がサディアス様の身を守ることができたのは、彼が学院の中にいるときや暗殺の命令がないときくらいで、一日中守ることはできなかった。
私のいないときにサディアス様の命が狙われたら――そうよく考えていて、従者として、苦渋の日々であったと言える。
私がいない時でも、あの頃なら他に彼を守る兵もいたにはいたが……。
そんなことを考えていたら、隣にいたシリルも昔を思い返していたらしい。
「学生時代を思い出すと、感傷的な気持ちになるよ。あの頃共に学び遊んだ同級生や先輩が、あの内乱で敵味方に分かれ、亡くなる方もいた……」
「けれど、この学院だけは変わらないでしょう」
笑い声をあげる生徒たちを見ながら、あの頃もあんな風に笑う同級生たちがいたことを思い出す。
「いや。そう見えるかもしれないが、あのときから変わったよ。学院への補助金が打ち切られ、下級の貴族の子弟はとても通えない」
「なぜそんなことが」
「王宮の無駄な出費を削減するのだとか。王宮ですら、貴重な絵画などを外国へ売り払い、騎士団を解体させたり、武具を売り払い、寂しい様子となっているようだから、仕方のないことなんだろう」
シリルは不満そうな顔をせずに、うなずいている。
「何より平和が大事なことだ。内乱が起きることに比べれば、些細な話だよ」
果たして、通えない貴族はシリルのように考えられるだろうか。平和なのだから、学校に通えなくて仕方ない、などと。それとこれとを並べて考える者はそれほどいまい。
戦争さえなければ何もかも許せる――などと思えるのはきっと、シリルくらいなものだろう。彼の実家の男爵家は、確か先王派についていた。
私もあの内乱で死を覚悟することはたびたびあったが、だからといって内乱さえなければ幸せなどと思えない。戦争などなくとも、元々暗殺業で死の危険があるのだから。
シリルは同級生を親しい友人としか思っていなかったかもしれないが、私は彼らを、いずれ殺す対象か、暗殺依頼をする人物かになるだろう、と冷たい目で見ていた。
きっと私と彼とでは、同じような身分であっても、見ているものがかけ離れていた。
「侯爵閣下も、今は苦しい立場かもしれないが、いずれ国王陛下のお許しがあることだろう。そうなるよう、私も祈りを捧げよう」
「……ありがとう。どうぞ一度、侯爵家へいらしてちょうだい。もっとお話がしたいものですから」
「ああ。ぜひ、訪問させてもらうよ」
そう返して、しばらく中身のない会話を交わした。
彼が明日の授業の準備があるというので、もうしばらく学院内を見学させてほしいと頼み、校舎へと向かった。ポリーは黙って付き従う。次に会う人物こそ、今日の目的だとわかっているのだ。
かつて自分が最終学年で使っていた、校舎の一番端の教室に入ると、ほこり臭かった。しばらく誰も使っていない気配がする。
下級貴族が通えなくなったと言っていたから、教室自体も使われなくなった部屋が増えたのだろう。
窓から校庭の奥を見つめる。そこには、薔薇園があるはずだ。真っ白い薔薇が咲いているはずだが、目を凝らしても林が遮ってここからは見えない。
廊下から、多くの人の足音とざわめきが聞こえてきて、居住まいを正す。
「おや、これはドランスフィールド侯爵夫人ではないか。なぜここへ?」
多くの人を引き連れ、おもむろに教室に入ってきたのは、国王イアン様だった。
「お久しぶりにございます。教師となった友人に会いに、たまたまこちらへ参った次第でございます」
「そうか。偶然だな。ここで会ったのも何かの縁、少しばかり話でもしよう」
そう言って、イアン王は連れていた貴族達を下がらせた。
「そこの侍女も、外へ出ていろ」
そう言われたポリーは、私もでございますか、と目を丸くしながらも、恭しくうなずいて出て行く。
同じ対象を監視しているのなら、両方から話を聞けばいいものをわざわざ私一人にするとは、よほど疑い深いようだ。
おそらく、彼女と私の報告に違いがないか、口裏を合わせないための方策だ。彼女のようにべらべらと話していなければ、との条件がつくが。
「報告を聞こう」
傲岸な顔で、イアン様は私に促した。
私は息を吸い込み、内心でサディアス様に謝罪をする。
覚悟を決め、話をした。サディアス様を守るために。できるだけ、国王陛下にサディアス様を信じてもらうために。
サディアス様は私を大切にしてくださっていること。
温室で、黒ずくめの男がガラスを割って襲いかかってきたこと。
「そいつを、お前が殺したというのか」
面白くなさそうに言われたが、私はうなずく。正しく言えばサディアス様がとどめを刺したが、そこは言わなくてもよいことだ。サディアス様が人を殺した、という一点のみで不利となる可能性がある。
たとえポリーがサディアス様がとどめを刺した、と報告したとしても、あのときは私がかなりのところまで追い詰めており、私が殺した後の行いでしかない、と言い張れる。
「なぜ、そのようなことをした」
「私はサディアス様の従者でございます。それまでも、何度も剣を振るってまいりました。結婚したからといって、何もしない方が疑われると存じます」
「ふん、そうか。それで、再びの反乱の兆候はどうだ」
「いいえ。そのような兆しはございません。ドランスフィールド侯爵は、あの和睦の条件通り、王都から出ることなく、無論侯爵領へも赴かず、騎士を集めている様子もございません。あの館は静かなものでございます」
「社交的にはどうだ」
「何度かパーティには行っているようですが、特に誰かと親しく話している、という話は聞いておりません」
イアン様は不満足そうに眉を寄せた。
「『話は聞いていない』とはどういうことだ。お前もパーティに出て、見張っているのだろう?」
「残念ながら、私は男爵令嬢でしたので、侯爵夫人として相応しいイブニングドレスがございません。先日注文したばかりでして、それが出来上がるまでパーティには侯爵お一人で参加されるとのことです」
「この役立たずっ!」
イアン様は剣を呼び出し、その柄で私の頭を殴りつけた。鈍い音がする。
そして今度は刃先を私へ向けたが、にやりと笑って剣を消した。
「しかし、本当のことを報告したことだけは褒めておこう。あの男を庇って、嘘を言うかとも思っていたぞ」
ポリーの報告との答え合わせでもしていたのだろう。やはりここで、意図的に何かを隠して報告するのは危険だ。
「ありがとうございます」
そう頭を下げたと同時に、こめかみから血が伝い、ぽたりと落ちた。ずきりずきりとした痛みが続く。
「さて、役立たずだが報告をした、という最低限の役目は果たしたのだから、褒美をやろう。満足できていないのに褒美をやるのだ、僕ほど寛大な王もいまい」
イアン様は毒々しい色の小瓶から練香を取り出し、教室に置いてある香炉に入れた。貴族の子弟が通う学院だけあって、そういうものも置いてある。イアン様が香炉に向かっているその隙に、血の流れているこめかみをハンカチで押さえた。
「ここで、香を焚かれるのですか」
「ああ。どのようなものか、見てみたい」
「されど、陛下の身体に害となりましょう。時間もかかります。後で私が使いますゆえ……」
「嗅がなければいいというだけだろう」
香の準備をしたイアン様は、ハンカチで口元を覆い、香炉を私の前に置いた。
ほんのりと温かい香炉から、あの香りがし始める。たまらない、心地よい香りが。
香りが満ち、私を支配する。頭の痛みは消えていた。嫌なことも苦しいことも忘れ、ただこの香りに陶然としていたい……。
「よほど良い香りのようだな。気分はどうだ?」
「はい……とても幸せな……心持ちがします……」
「それほどなら僕も使ってみたいが……中毒となったその後の禁断症状を聞いているからな、破滅などしたくない、やめておこう」
その破滅の香は、部屋の中に充満し、私を支配していった。
* *
どれほどの時間が経ったのか。半刻ほどは経ったことだろう。
香が切れたら、窓を大きく開けて、部屋の空気を入れ換えた。
こめかみからは血はもう流れていない。軽く皮膚を切った程度なのだろう。
「そろそろ僕は行く」
香によってくもっていた思考を振り払い、急いでイアン王のために扉を開け、校舎の入り口まで先導する。
「そうだ、知っているか、この学院には薔薇園があることを」
「存じております。私が在学中からございました。あれは特別な薔薇園で、皆、入れはしませんでしたがその美しさを噂していたものです」
国王は自慢げに誇った。
「そうだ。その薔薇園を、僕は他の者も入れるよう開放した。王族のみしか入れぬなど馬鹿馬鹿しい。慈悲深いことだろう?」
あの白い薔薇園に、他の者が? 平然と?
「なんだ、黙って」
「い、いえ。ありがたいお心遣いに、皆、感激しておりますでしょう」
心にもないことを言いながら、私は、嫌だ、と思っていた。
あそこは、誰もが入っていい場所ではない。あそこは、あの高貴な薔薇は――
「そなたも貴族だ。今ならば入れよう。十分に、僕の慈悲を感じるがよい」
そう言って満足げに、少年王は去っていった。
そう言われても、私はあの薔薇園へ足を向ける気にはなれなかった。
誰彼構わず入ってよい場所ではなかった。
誰でも見てよいものではなかった。
それゆえに、私は、求めた。
あの日、サディアス様の従者となったとき、咲いていた白薔薇。
あのとき私は彼のことを、別の呼び方で呼んでいた。
殿下。
王太子殿下、と。
先王陛下とセラフィナ第一王妃の唯一の子。
この国の頂に立つことを約束されたサディアス様は、あのとき白薔薇の前で、王者の笑みを浮かべていた。