温室
中に入ると少し暑いが、生い茂るオレンジの実が目を喜ばせ、多くの草花が心を安らげる。
しかし、白い薔薇はない。
学生時代に従者となったとき、サディアス様が手に持っていた白い薔薇を思い出す。その微笑みも。あの笑みこそまさに――
「コーネリア、こちらに来るといい」
呼びかけられ、声のする方へ向かった。
温室は、できるだけ南の日の光と熱を取り入れるため、東西に長く伸びている。奥の方で、彼はゆったりとした藤の椅子に座っていた。
「お呼びでしょうか」
「なに、疲れただろうと思ってな。こちらに座るといい」
「サディアス様の隣に座るなど……」
「今は妻だ。朝餐でも共に座っていたではないか」
「あれは……」
朝は、座るまでサディアス様が食事に手を付けないというから、仕方なくだ。毒味の意味もあるのだと自分に言い聞かせながら食事をとった。
「そなたには無理を強いているのはわかっている。が、立たれていると落ち着かない。俺の安らぎのために、座ってくれないか」
そこまで言われて、立っていられる従者がいるだろうか。
私は不敬ながらも、隣の藤椅子に腰を下ろした。
座ってみると、視界に夕日に染まった木々や草花が私に覆い被さるように入ってくる。
落ち着いた空間だ。
「背筋を伸ばさず、背もたれに寄りかかれ」
「こう……ですか?」
ギッ、と藤がしなる声を上げる。背に体重を預けると、身体が重く感じてきた。
「ドレスはどうだった」
「はい……私のために、一から作っていただくことになって……ありがとうございます」
「望むようなドレスになりそうか」
「はい。……やはり、サディアス様がそうするよう指示を出してくださったのですね」
サディアス様は苦笑する。
「俺にはドレスの着心地も、動きやすさもわからない。そなたが動きやすいものを作るには、すでにできあがったものを用意したのではいけない、ということしかわからなかっただけだ」
「いえ、それで十分です。十分、ありがたいことでした」
きっと、それだけではない。
多くの傷を負っている私が、傷が露出するようなドレスを着させられることのないようにと、そう考えてくださったのだろう。
鮮やかな赤で染められた生地で作られるドレスは、どのようなものになるだろう。侯爵夫人にふさわしいドレスは……私にはふさわしくないかもしれない。
身体を預けてゆったりと考えていた私は、かっと目を見開き、立ち上がった。
己の剣――『風巻の影の剣』を呼び出し、サディアス様の前へ立つ。私の剣はダガーほどに短いが、振るうには軽くて暗殺にも、守りにも適している。
その瞬間、目の前のガラスが盛大な音を立て、割れてふりそそぐ。ガラスの欠片の向こうからまっすぐ、剣がサディアス様めがけて飛んできた。
置いてあったテーブルを片手で振りかぶり、剣とガラスとを打ち払ったと同時に、黒ずくめの者が襲いかかってくる。
私の姿を見て、チッと舌打ちしたかと思ったら、男は投げたはずの剣を手の中へと呼び戻し、私へ痛打をくらわせる。
敵の剣には炎が纏われていた。僅差で剣をかわしただけでは、炎に巻かれてしまう。
剣で剣を受け、炎を避けながら、この男を生きて捕らえるための方法を考える。生かしつつも倒す、という手加減が難しい。しかし、そうしなければ、サディアス様を狙った理由がわからない。
かくなる上は、あえて隙を作って剣と炎を身体で受け、その瞬間を狙って――
思って隙を作ろうとした瞬間、男の動きが止まり、そのまま倒れた。
倒れた男の背中には、『天頂の冠の剣』――サディアス様の長剣が突き刺さっていた。
死んでいるのを確認してほっとしたのと対称的に、サディアス様は据わった目で私を睨んでいる。
「なぜ手加減をした、コーネリア。お前ならあの程度の輩、一瞬で決着をつけられただろう」
「申し訳ございません。生かして黒幕の名を吐かせようと、時をかけ過ぎました」
「時の問題ではない。お前、自分の身を犠牲にしようとしたな?」
自分の身を犠牲にしなければ倒せない、その程度の腕か、と言われているようで、恥ずかしさで頬に朱が走る。挙げ句に、サディアス様の手をわずらわせてしまった。
誰に何を言われるのより、この人に失望されるのはあまりにつらかった。
「申し訳ありません。この失態は必ず、取り戻します」
「本当に言っている意味がわかっているのか。次は手加減をするな。黒幕なぞどうでもいい。全力を尽くせ」
「はい」
堅く心に誓っていると、温室の入り口から声が響いてきた。
「旦那様! 今の音は!?」
「何があったのですか!?」
私は思わず、死体を見る。おおっぴらにするのは得策ではない。それこそが敵の狙いの可能性もある。
「サディアス様、これは私が連れていきますので、何も知らないフリを……」
「いや、大丈夫だ」
サディアス様は大声で入り口へと呼びかける。
「ガラスが割れただけだ、心配ない! お前達はそこから動くな! ハドリーを呼べ!」
メイドたちは従順にその指示に従い、しばらくしたら、執事のハドリーだけが奥までやってきた。
背中から血を流す死体を見ても、ハドリーは眉一つ動かさない。
「ハドリー、これの処理を頼む」
「承知いたしました。お任せくださいませ。旦那様、奥様はどうぞ館の中へ」
サディアス様は私の肩を押しながら入り口へと向かう。
「本当に大丈夫なのですか、任せてしまって」
「ああ。あれは内乱後に侯爵家の執事となったが、それまでは母の従者だった。お前のように」
私のように。その言葉でわかる。つまり、私と同じように、主の身を守りつつ、暗殺を――
「確か、あいつはお前の一族だったと記憶している。見覚えはないか?」
「見覚えはありません、が、顔立ちが誰かに似ているとは思っていました。確かに、一族の者の特徴があります」
一族は、育て上げた暗殺者を必要としている者に売ることもある。私もイアン王に売られたのだから、似たもの同士なのかもしれない。
「……館の中でこのように狙われるのは、初めてですか?」
「いや、初めてではない」
私は内乱後もサディアス様を影ながら守っているつもりだったが、館の中まではさすがに入れなかった。
安心できる場所であるはずの家でこのように危険にさらされるとは……。
「誰が犯人か、目星はついているのですか」
「そのようなことは考えるだけ無駄だ。あの内乱の際、先王派であった者なら、俺を殺す動機など腐るほどある。子を殺された親も、親を殺された子も」
「しかしあれは」
私の言葉を封じるように、サディアス様は私にいたわりの言葉を掛ける。
「今日は疲れただろう。ゆっくり休め。昨日は寝ていないのだろうから、今日こそはな」
確かに徹夜は、普段よりも調子が良くない。今日は一人でゆっくり眠って――
「寝台は別にはしないからな」
「えっ」
「当然だろう。安心するといい。疲れているだろうから、俺が隣にいても、緊張せずに今日こそは眠れるだろうよ」
その宣言通り、その日も、その翌日も、私とサディアス様は寝台を共にした。無論、何もなく、ただ共に眠るだけだ。
隣の温かい体温の心地よさのため、朝起きたときにすり寄っていたことに気付き、盛大な謝罪をするのは、更にその翌朝のことである。