ドレス
朝餐を済ませると、侯爵家に仕えている方とあいさつを交わした。式の前はとても忙しく、ようやく時間が取れたのだった。
「執事のハドリーでございます。お見知りおきを。奥様」
濃い茶色の髪を目をした、四十代くらいの男だ。低い声の、どこか陰気な雰囲気だ。顔立ちが誰かに似ているような気がして、脳裏で考え込む。誰か一人に似ているというよりも、何人かに似ている、ような……。
「さっそくではございますが、奥様にはドレスの注文に立ち会っていただきたく存じます。仕立屋を呼んでおりますので、どうぞこちらへ」
そう促され、思考は霧散した。
通された部屋には、針子や侍女がそろっていた。
一番年かさの侍女が、背筋を伸ばしたまま表情一つ変えずに言う。
「私は、エイダと申します。奥様には侯爵家にふさわしいドレスを着ていただきますため、仕立屋をお呼びしました。お持ちのドレスでは通常の舞踏会には出られないでしょうから」
なるほど、私が実家から持ってきたドレスは男爵令嬢にふさわしくとも、侯爵家にはふさわしくない、というらしい。
エイダさん、と若い丸顔の侍女が小声でとがめている。いかに侯爵家に長年勤めていても、主に対する物言いではないと思ったのだろう。
エイダはそれでも私へ謝罪することなく、仕立屋の準備を手伝い始めた。若い侍女はおろおろとしていたが、
「あの、すみません、奥様! あの、私は奥様のドレス、すっきりしていて素敵だと思います!」
一生懸命フォローしようとしているところがほほえましい。
「あなた、お名前は?」
「え、私ですか? あ、はい! 私はポリーと申します! どうぞよろしくお願いします!」
「ええ、よろしくお願いしますね、ポリー」
ポリーは私のことを見て、にっこり笑った。
「良かったです。奥様が来るって聞いて、どんな気位の高い人だろうと思ってたんですけど、年も近いみたいですし、想像したより普通な感じで、安心しました」
普通と思ってもらえるのなら、私の暗殺者の面を隠した擬態もうまくいっているのだろう。
「ポリー! こちらに来て手伝いなさい!」
「あ、す、すみません、エイダさん! 今行きます!」
慌てたようにポリーはエイダの方へと走っていった。あんな調子で仕事は大丈夫なのだろうか、とも思ったのだけど、見ている限りてきぱきと動いていて、人よりもよく働いているみたいだった。
一方、私は人形のようにドレスを脱がされ、サイズを測られ、布を当てられていく。
ためらいがちにポリーが訊く。
「奥様……この身体の傷は、どうしたのですか? とても痛そうな……」
私には令嬢にはふさわしくない傷が身体に数多くあった。そのほとんどが、幼い頃に負った古傷だ。幸い、古い傷はドレスで隠れやすい場所にあり、そして年を経るごとに一見してわからないくらいに消えていっているが、じっくり見ればわかる。特に、傷を隠すためのおしろいを塗っていない今ならば。
昨夜も湯を浴びる際に着替えを手伝った侍女たちはわかっていただろうが、来たばかりの奥方に、そのときは聞けなかったのだろう。
「幼い頃の事故で……」
私は言葉少なに、そう答える。同情したのか、それ以上のことを侍女たちは訊いてこない。殺されかかったときの傷、などと本当の話をするわけにいかないし、妥当な言い訳だと思う。
自然とその傷を隠すデザインのドレスになることが決まった。
「奥様、こちらのオレンジの生地と、赤い生地と、どちらがいいですか?」
どうやら本当に最初から作るようで、生地選びや形などの要望はまだ言える段階らしい。
私は両方の生地に触れ、濃い紅の方の生地を取り上げた。
「こちらの赤い生地を」
「奥様は赤色がお好きですか?」
「いえ、色は特に好みはないのだけれど、生地の質感が気に入りました」
いざサディアス様を守るときのため、軽い生地やなるべく動きにくくないデザインを求めた。ドレスを着ている時点で、あまり期待はできないが、それでも少しでも動けるようにという意思だ。
若い女性だけあって、ポリーは楽しそうにどんなドレスがいいかの話をする。私も彼女と会話しながら、要望を口にする。侯爵家にふさわしくない、と、私の要望はエイダに却下されていったが、それでもいくつかの望みは通ったのだから、良しとしよう。
侯爵家のドレスを一から作るともなると、時間がかかる。しばらくは男爵家から持ってきたドレス――暗殺にも慣れたもの――を着ていられるのだから、その間に、侯爵家のドレスを纏ってもすぐに動けるように訓練をしておこう。
部屋に入る前は、ほとんどできあがったドレスが用意され、後は身体に合わせて調整する程度かと思っていたけれど、作り始めの最初からで良かった。
いきなり暗殺に向かないドレスを纏っても、動きに微妙に戸惑うのは目に見えている。
夕暮れが部屋を染め上げた頃、ようやく終わった。とりあえず、仕立屋は、急ぎで必要なドレスから作ってくるということだった。
仕立屋たちが帰ってから、ふう、と息をついた。
昨晩は一睡もしていないものだから、さすがに調子が悪い。
「奥様。お疲れのところだとは存じますが、侯爵家の帳簿を用意いたしました」
執事のハドリーが、従僕に何冊もの帳簿を持ってこさせている。
「侯爵家の収支についての帳簿です。こちらは事業の収支、領地の作物の収支、領地の学校の収支……」
女主人となったからには、侯爵家の財政に不正がないかを確認するように、ということだろう。
「疲れました。結構です」
「それでは明日……」
「いえ、明日も、明後日も結構。数字は苦手ですし、帳簿の見方を覚える気はありません。それに数字を見るなんて、目が疲れます」
周囲にいたエイダや従僕が、ほんの少し眉をしかめた気がした。先程まで無邪気にドレスの話をしていたポリーですら戸惑いの表情を浮かべている。
ふと、思っていた。女主人の役目を放棄した私を、サディアス様は嫌ってくれるだろうか、と。
「今まで通り、処理をしてください。私を通さず。ああ、サディアス様にはお見せしておいてくださいね」
「承知いたしました、奥様。旦那様からお言付けがございます」
帳簿を持った従僕を下がらせて、ハドリーは窓の奥に見える中庭の、温室を指し示した。
「あちらの温室に、旦那様がいらっしゃいます。もしドレスや帳簿の件が終われば来るようにと」
温室は南側だけガラスで、他の面は煉瓦造りとなっている。その中には、さまざまな木や花、実がなり、繁っている。
入り口すぐにはメイドと従僕が立っており、私に頭を下げた。
「サディアス様は中に?」
「はい、お待ちでございます」
「……あなたたちは、中に入らないのですか?」
「旦那様は、ここにいらっしゃるときは一人にするように、とおっしゃるので」
ここはサディアス様の憩いの場らしい。
「サディアス様、コーネリアです」
そう外から呼びかけると、入るよう促す声が聞こえた。