手紙2
私はサディアス様を求め、廊下を歩いていく。腹部を押さえても血はあふれ出し続けている。
文官や騎士が私に声をかけた気がするが、言葉を無視し、伸びてきた手を振り払い、私はバルコニーへ向かって歩き続けた。
私が求めるのはただ一人なのだから。
「……国民に誓おう! 平和な世を……」
バルコニーから遠くとも、私の耳は、サディアス様の声を捉えた。思わず気が緩み、膝をつく。
ああ、サディアス様の声……もっと、もっと……。
一度膝をつけば、もう立ち上がれなかった。けれどサディアス様の声が届いている。それだけで、もう……。
両手を床につく。
そのときまで、私は自分が封筒を握り締めていることに気付いていなかった。
とっさに封筒を握り締め続けていたらしい。
封筒から手紙を取り出す。開いて、字を追う。視界がぶれて、字を読むのは難しかったが、必死に指でなぞりながら、一単語ごとに目で追っていった。
『コーネリア
この手紙では普段伝え切れていないと思っていることを伝えようと思う。
俺はそなたにとても感謝している。俺の身を守り、命がけで戦ってきてくれた。お前なくして、俺はここに生きていなかったかもしれない。心から、感謝している。
ただ、そなたの身を心配している。俺の身を守るためとはいえ、傷つくのは見たくない。
お前は我が身を省みずに戦ってくれた。一方、心からお前の身を心配してきた。だから、戦いをもうやめてほしいとすら思ったこともある。お前の誇りを傷つけるだろうと思ったから言わなかったが、それが正直な気持ちだ。』
目が霞む。私はドレスのスカートの上に置いた手紙に顔を近づけ、そしてそのまま身体が倒れた。
手紙の文字を、それでも必死に目で追う。
『お前と出会ったことは、俺の人生でこの上ない僥倖だった。
もうわかっているかもしれないが、俺は、家族の情などもちあわせていなかった。だからこそ、俺は父親が父親でなかったと聞いても冷淡にそれを受け止めた。その俺の反応にこそ、母は傷つき自ら死を選んだのかもしれない。
王座も他の何かも、俺にはどうでもよいものだった。何に対しても関心を持たずに生きてきた。王となることも、本質的には俺にはどうでもよいことだった。
それでも王となったのは、お前がそれを求めていたからだ。
お前が求めるのならと、俺は再び内乱を起こそうと決心した。
お前に責任を押しつけるわけではない。俺は侯爵であっても、国王であっても、お前が共にあるというのなら、それで良かった。
ただお前が喜ぶのなら、と、そう思った俺が馬鹿な男だというだけだ。
紙切れ一つで俺とお前は結婚したが、たとえ結婚というものでなくても、俺とお前との間の絆は、命じられて署名する紙切れよりも尊いと思っている。
あの薔薇園のことを、お前は覚えているか?』
もちろん、覚えております。
白い薔薇の中、サディアス様は幼かったが、高貴さが身からあふれていた。にも関わらず、サディアス様は薔薇をぞんざいに扱っていた。
『俺はあの薔薇を何とも思っていなかった。王族のみが見れると聞いても、関心はなかった。
だから俺はさぞや、つまらなさそうに薔薇を見ていたことだと思う。今ならもう少し表情を取り繕えると思うが、まだ幼かったのだ。
そして薔薇を見ていたら、視線を感じた。
そう。お前の視線だ。
なんと熱い目で、焦がれるような目で見ていることだろうと思った。執着に近いその視線の熱さを、俺はあのとき、うらやましいと思ったのだ。
何に対しても関心を持てず、家族に対してすら情を持てない俺にとって、執着というのは俺にないものだった。
そしてそのとき初めて、俺は思った。
この視線の持ち主を、ほしいと。この薔薇へ向ける視線を、自分に向けさせてみたい、と』
サディアス様は誤解している。
確かに私は最初、白薔薇に目を奪われたが、サディアス様が気になって薔薇園に通っていたのだから。
私はあのとき、サディアス様に心を奪われていたのだ。あなたの望みは、すぐに叶っていたのだ。
赤い何かの上に広がる手紙。その赤が血なのかドレスなのか、おぼろげな視界ではもう判別はつかない。
『俺は最初に視線を感じた後、調べた。
林の中へよく入る人物ということで、コーネリア、お前を知ったのだ。
お前がそこまで求める薔薇というものを、俺も気になって折ったり、しげしげと眺めて見たりしたが、結局俺にはお前が執着するその理由はわからなかった。
そしてあの日。俺を狙う刺客――おそらくイヴェット第二王妃の仕業だっただろう――を、お前は倒した。
俺の護衛を担っていたわけでもないのに、お前は俺を助けてくれたな。
お前が躊躇なく刺客を殺し、俺の前で平然と膝を折るのを見たときから、お前が闇の世界にいる者だとはわかっていた。
この身でどれほどの血を浴び、どれほど地獄を見てきたのだろうと思った。
心が麻痺してもおかしくないだろうに、お前は執着することができた。その心が見てみたかった。そして俺もまた、お前がほしいと思った。人に対してそう思えた俺の歓喜を、何に対しても情を持てないのではないかと怖れていた俺のその歓喜を、お前は知るまい。
お前がほしいと、俺が言ったとき、お前がしてくれたことを、俺は生涯忘れないだろう。
どんなものよりも、あれは尊いものだった』
赤い血か、赤いドレスか、手紙に赤が浸食していく。
最後の文言は、私の心と同じものだった。
『お前が側にいてよかった。
心から思っている。
サディアス』
読み終えて、私は幸福に目蓋を閉じた。
赤い血だまりの中、少年のサディアス様が立っている。
白い薔薇の中、サディアス様が言う。お前がほしい、と。
心が震えて剣を落としながらも、私は何も言えなかった。
その代わりに、私は手を伸ばし、白薔薇の棘で傷つき血の玉が浮き出たサディアス様の指先に唇を寄せ、血を吸った。
この方の代わりに傷を負い、血を担うのは、私だと示すように。
そして手を離して見上げた私へ、サディアス様は摘み取った白薔薇の花びらを雪のように降り注ぎ、私へ祝福を贈ったのだった。
それこそが、最初で最後の、私のサディアス様への忠誠の儀だった。