初夜1
式はつつがなく終わり、夜を迎えた。
侍女たちは湯から上がった私に香油を身体に塗りつけた。身体から立ち上る香油の匂いはやわらかく心地よいが、このようなものを身に纏ったことはないので落ち着かない。
気配を絶つ、ということを心がけて生きていたので、自分はここにいると主張するような香油の匂いというのは、自分の生き方と対極に位置するものだ。
薄手の夜着の上から、香る肌をなでさする。座るソファの向かいには、夫婦の寝台がある。侍女たちはとうに部屋を出て、一人きりだ。窓もカーテンが閉められていて、外を眺めて気を紛らわすこともできない。
サディアス様が来るのを待っている間にこの匂いに慣れるかとも思っていたが、気持ちが落ち着くことがないまま彼はやってきてしまった。
「コーネリア、久しぶりだな」
扉をあけ、そう呼びかけられた。思わず息を呑み、不敬にも立ち上がるのが遅れた。
燭台の火に照らされたサディアス様の瞳は、いつもは冷たいはずなのに、今はやわらかく私を見つめる。
彼と言葉を交わすのは、ずいぶんと久しぶりのことだ。結婚が決まっても、彼自身と話をする機会もないまま、今日の式を迎えたのだ。
サディアス様の私を呼ぶ声は気安く、学生時代を思い出す。彼はいつだって、自信をもって私を呼ぶ。私は従者として彼の命じたことを必ず成し遂げたし、サディアス様も命令が叶えられないとは疑わなかった。
あのままの私たちであったなら、どれだけ良かったことだろう。
あまりに幸せだった昔を思い返して涙がにじんだが、ぐっとこらえ、見上げる。
「先ほどはすまなかった。大叔父上からそなたへの侮辱、後で謝罪させよう」
「いいえ。気になさる必要はございません。それに、あの侯爵様の意図は、私という人間への怒りではなく、この結婚への怒りだったのでしょう」
それはすなわち、この結婚を命じた存在――国王への。
「消しますか」
私はひたと見つめ、問う。これはサディアス様を試す意味もあった。
燭台の火が揺れ、サディアス様の表情が読めない。
「消しますか。あなたの大叔父の侯爵を」
もう一度問いかけても、サディアス様は答えない。
国王に対して二心はない、と示すためには、あの老侯爵は邪魔者だ。
「私の腕がにぶっていると、お思いですか。ご安心ください。あなたの元を去っても、腕を磨いてきました。サディアス様に疑いがかかるようなことはございません」
どれほどの人を手に掛けたのか、数えたことはない。ただ確かなのは、物心つく前から私は殺しの技術を教え込まれ、実践させられてきたということだけだ。
私の一族は、暗殺することで成り立っていた。幼い頃より地獄のような訓練をさせられ、暗殺術を身につける。
男爵だとか貴族だとか、そのような地位は一族に本質的には意味がない。現に、一族の中には平民もいる。貴族の地位は、要人や貴族を暗殺するのに便利だから、ただそれだけのためにあった。
実際、亡き父も兄も肉親の情はなく、世間体のためだけに家族のふりをしていたのだった。従兄弟を含めて一族の誰もが、その手を血まみれにし、死と隣り合わせにして生き延びてきている。
共に暗殺術を教え込まれた者には、発狂した者も、一族に深い憎しみを抱いた者もいる。その全てが、使い捨ての駒のように消されていった。その中には私が消した者もいる。
何のためなのか、誰のためなのかもわからないまま、私は血を浴び続けた。――サディアス様の従者となるまでは。
「お前の腕が不安だとか、そのようなことは心配していない。ただ……」
私の育ちを知っているサディアス様は驚くことなく、考え続けている。
「ただ、なんでしょう」
「大叔父上はもうすぐ隠居し、その息子に地位を譲る。元々、気分次第で誰にでもがなり立てる方だとは知られている。そこまでする必要もあるまい」
この答えで、私は全てを悟り、頭を垂れた。
「わかりました。では何も言いません」
「そなたが、大叔父上の暴言を許せん、と言うのなら別だぞ? 好きに殺ればよい」
狼のような金色の瞳を光らせて、くつくつと笑うサディアス様。私は慌てて首を横に振った。
女性的とも思われる白銀の美しい髪に、整った顔立ちの彼は、清廉な印象を受ける。しかし実際は清濁併せ呑み、必要とあらば泥水をすする覚悟を持つ人物だ。
薄汚い私が学生時代にこの方の従者でいられたのは、サディアス様の度量の広さに助けられた部分が大きい。
「そろそろ冷えてきたな。では――」
「お待ちを。まだ、お話ししなければならないことがあります」
寝台へと歩き出したサディアス様に、私はあえて止めるような言葉を紡ぐ。
「私を罰してください」
「……何のことだ」
サディアス様はあえて、わからないふりをしている。
その寛大さに感謝して、何も言うべきではないのかもしれない。しかし、私の気がおさまらない。
私は、決して、許されないことをした。
「さきの内乱で……私は、サディアス様の敵にまわりました。従者であった私が裏切ったのです、罰されて当然の話です」
「なにを言うかと思えば。シェリンガム家自体が先王の側についたのだ。その男爵家に属するお前が、一人で勝手に俺の元につけるはずもない」
そもそも、と冷たい声でサディアス様は言う。
「そもそも、国王に刃向かい、反乱を起こした俺に、正義も理もないことは自明だった」
さきの内乱――反逆者であったサディアス様は、先代の国王一派との戦いに敗れ、多くのものを失い、貶められ、ここにいる。命があってよかった、と単純に言える話ではない。
彼にとって屈辱的なこの結婚も、貶められるための一つなのだろう。
仕えていた方の重荷となっている――歯がみしたいような気持ちとなり、うつむく。
私が一人であれば、内乱の際、絶対にサディアス様の元へはせ参じただろう。
しかし私には一族があった。私の一族は、熱心な先王派でもなく、私がサディアス様側で戦うと言っても、何も言わなかっただろう。
問題は、私がそう言ってサディアス様側につくと同時に、それ幸いと、意図的に一族は一族を半分に割ることだった。先王派とサディアス様派と。一族の貴族の中では、サディアス様側と近しいのは私だけだった。
そうしてどうするか。それぞれの陣営の情報を手に入れ、より高く値段を釣り上げた方へ売る――そういうことを一族はする。私の一族は、敵に回る時よりも味方へ囲い込む時の方が恐ろしい。我が一族は、国や王族などよりも、一族の繁栄のみを重視する。
サディアス様の不利とならないよう、私は沈黙を守り、先王派に属することを了承した。一族をサディアス様派へと入れないように。一族のためにサディアス様側へ行けと言った者もいるが、他の家族が先王派についた私をサディアス様は信頼しないし疑われる、と言うと渋々了解した。
そうして先王派の中にありながら、サディアス様の陣営のために動いていたのだが……結局、サディアス様派を勝利へと導くには足りなかった。
勝利を捧げられなかった私は、サディアス様にとってただの裏切り者だ。
「誰がどう言おうが、私はサディアス様にとっての望みをかなえられない、ひどい従者でした。ひどい裏切り者です。戦後も、とても顔出しできないと思って、避けてきました」
サディアス様は吹き出して笑う。
「顔出しできない、か。確かに俺の前に顔は出していなかったな」
その言葉に内心、ぎくりとした。
顔出しできない――そう思ったが、どうしても気になって、ひそかに影から見ていたことは数知れずだった。
彼は命を狙われることもよくあり、影から密かにそれを退けていたのだが……いや、彼には気付かれないようにしていたはずだ。
いつもの無表情を顔に貼り付け、とにかく、と話を戻す。
「こうして何の因果か御前に立つことになりましたからには、罰をお与えください。……本当は、もっと早くに言うべきだったでしょうけれど」
「仕様のない奴だ。そこまで言うのであれば、罰を与える」
サディアス様はゆっくり近づき手を伸ばす。
どんな罰でも受けるつもりだった。
けれど、サディアス様は伸ばした手を、ゆっくりと私の頬に添わせた。
「俺のそばにいろ。死ぬまでな」
とても、とても優しく言われたものだから、私は一瞬呆けた。胸に広がる歓喜に見ないふりをして、渋面を作る。
「……それでは罰になりません」
「一度、俺を離れたお前にふさわしい罰だ。今、お前はあの家を離れ、俺の妻となった。今度俺のそばを離れようと思っても、一族は理由にならないからな。――俺は言葉を覆さん。他に罰は与えん」
あまりに優しく、寛大な、罰だった。
彼の思いを汲み、私は胸に手を当て、承諾するしかなかった。
「わかりました。一度裏切った私へそうまで言ってくださるのですから……。私は生涯、従者としてサディアス様にお仕えします」
サディアス様は少し妙な顔をしたが、肩を竦めた。
「そなたはそういう女だったな」
「何のことでしょう?」
「何でもない」
サディアス様からはもう、罰らしい罰は与えられないだろう。
けれど私は私を許してはいけない。このような罰で安堵してはいけない。
ならば、私は私自身で罰を与えなければならない。
それはサディアス様のためになることがふさわしい。私にできることで、サディアス様のためになること……。
サディアス様を狙う敵から守ることや、逆に討ちに行くのは従者として当然のことだから、罰にはならない。
ふと私は、自身の薄着を見た。香油を塗り込められた身体を。これは、妻たる者へと与えられた。
……これがいい。これだ。
サディアス様に、真に愛する方との日々を贈ろう。