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白薔薇

 学生時代、私は特に目立たない生徒だっただろう。暗殺のために、そしてその暗殺で負った傷を治すために、よく休んだから、病弱な男爵令嬢だと思われていた。


 私は病がちで、己の意見など何もないような令嬢を装い、同じ階層の貴族の子弟と友人となっていた。そのうちの一人が、男爵家の次男のシリルだ。


 学院に入学したのは、貴族令嬢だからだ。男爵令嬢という身分を利用して暗殺している私は学生とならなければならなかった。 

つまり、私が望んで入学したわけではない。


 あの頃、私は憂鬱な気持ちを押し隠して、日々を過ごしていた。


 以前はわからなかったことが、わかるようになっていた。


 私は暗殺者として育てられ、罵倒されながらその技を磨いたが、私は自分の素質がわかるようになっていた。役立たずだと殺されるほどではないが、一族の中で飛び抜けて優れているわけではない。


 私は使い捨ての駒だった。


 暗殺の任務にしても、私の命は惜しまれることはない。生き残ってきたのは、運も大きく作用していた。


 私はいつ死んでも構わないと思われていることを、日々の任務で感じ取っていた。


 私の替わりはいくらでもいる。男爵令嬢という地位も、一族にとってそれほどの意味はない。より優れた暗殺者にとっては必要ない程度のものだ。


「暗殺を成功させるのは当然だ。だが、それほどの傷を負うとは、使えない奴め。次の任務に支障をきたすようでは、殺すからな」

「次の任務はこれだ。お前の腕では暗殺は成功できても、逃げることは困難だろう。暗殺後、逃げることが不可能だと悟れば、その場で死ね」

「複数人で暗殺をしてもらう。一人がまず襲いかかり、相手を羽交い締めにする。その隙に他の奴が確実に暗殺しろ。最初に襲いかかる奴は殺されるだろうが、お前らの中で誰がやるか、好きに決めろ。こちらとしては誰がやってもいい」


 ……私は、一族の中で生きていてほしいと思われるような人間ではなかった。


 そして、どれほど暗殺の腕を磨いても、私では、そう思わせることはできないことも、悟っていた。そしていずれ、使い捨てられ、死ぬだろうことも。


 その煩悶(はんもん)は私の心中を乱し、むなしさが襲う。

 

 そんな私の癒しとなったのが、学院にあった薔薇園であった。


 白い薔薇のみが植えられた薔薇園は、その当時、王族以外の立ち入りを禁止されていた。学院の薔薇は特別で、王家の祖の代からのものであり、神話にも描かれた神聖な花だとして、専門の庭師も細心の注意を払って育てているのだという。


 普通の白薔薇ではない。

 触れることはおろか、見ることはできぬ。

 王族に頼んでも、神聖さゆえに、王族以外に譲ることすら禁止されている。

 手に入れるとしたら、嫁入りして自らが王族となるしかない。


 生徒は見たことのない白薔薇の美しさを噂し合ったものだった。


 薔薇園の周囲は林で囲まれており、更に薔薇園自体は柵で囲まれていた。


 私がその薔薇を見ようと思ったのは、ただの気まぐれだった。傷が治りきっていない中、疲れていた私は林の中で身体を休めていた。


 その林の中から、薔薇が見えた。


 普通の人間の視力では見えないくらいに遠かったが、私の目には見ることができた。


 何ものにも汚されない、白い薔薇は、気高く咲いている。

 圧倒する美しさは、見るものをひれふさせる力がある。


 私は薔薇に見入っていた。


 あまりに無垢なそれは、私とはかけ離れていた。何一つその薔薇を害するものはないだろう。誰であろうと尊ぶことだろう。大事に大事に育てられている薔薇は、使い捨ての駒である私と比較するのもおこがましい。


 あの薔薇園に近づいてはいけない、と言われていた意味がわかった気がした。私のような汚れた人殺しが、おいそれと近づいて良い薔薇ではない。


 そんなことを思いながら、私は羨望のまなざしを向けていたのだと思う。近づいてはいけないとわかっていつつも、私はあれがこの手の中にあるなら、どれほど幸せだろうとも考えていた。


 あの薔薇があれば、どれほど心が清められることだろう。

 そう思いながら林の奥から眺めていたら、そこに一人の人物が薔薇園に入るのが見えた。


 それこそが、サディアス様だった。当時はまだ幼さの残る顔立ちで、しかし金の瞳や白銀の髪、整った顔は変わらない。当時はどこか人形のような美しさを持っていたが、成長するに従って男らしさと、狼のような金の瞳の印象が強くなる。


 その頃学院に在籍していた王族は、サディアス王太子のみだった。


 つまり、その薔薇園に入る権利を持つ、唯一の存在であった。


 サディアス様は護衛の兵を連れず――護衛とはいえ他の者も薔薇園へは入れなかった――、一人で薔薇を眺めていた。


 その表情はつまらないものを見るような、何一つ心を動かされた様子はない。


 あの薔薇を見て、何とも思わないのか。王族というのは目が肥えすぎているのだろう。そう得心していた私も、次の瞬間、驚いていた。


 サディアス様は薔薇の茎を折り、顔の近くで香りを嗅いだ。しかしすぐに、その薔薇を捨てていったのだった。


 何一つ心を動かされた様子も見せず、捨てた薔薇を一顧だにせず、サディアス様は薔薇園を歩く。


 あの貴重な薔薇を、そんなふうにぞんざいに扱うなんて。私はあれが手にはいるなら、どれほど幸せだろうと思っていたのに。


 サディアス様が求めるものというのは、どんなものなのだろうか。あの薔薇よりもはるかに、高貴で神聖なものだろうか。それとも――はるかに粗雑で醜いものだろうか。


 白薔薇を投げ捨てたサディアス様に、怒りは湧かなかった。それどころか、親近感にも似たものを覚えた。私よりもずっと尊いはずの方なのに、人に褒められないことをしている、と。この方も私と同じ人間なのだ、と。


 私の視線の先は、薔薇からサディアス様へと移った。


 しかしサディアス様はそれからすぐに薔薇園を去ってしまった。


 ……また別の日にここで薔薇園を見ていれば、サディアス様を見ることができるだろうか。


 私はそう思ったら、通学する日は毎日、林の中で薔薇園を眺めた。薔薇は変わらず咲き誇っている。


 私が眺めていたら、サディアス様は再び薔薇園へ入っていった。何度も、何度も。


 サディアス様はつまらなさそうに薔薇を見て、時に茎が折れそうなほど自身へと花を引き寄せ、時に花をつぶしている。


 ぞんざいな扱いは、世話をしている庭師が見たら泣くことだろう。王族が立ち入っている間は、庭師は決して入ってこないが。


 薔薇に心を奪われているわけではないだろうに、なぜこれほど薔薇園へ来ているのだろう。何が気に掛かっているのだろう。


 そこにいるサディアス様は、品行方正な王太子ではない。花や庭師への憐憫の情のない、無神経で冷たい一人の人間だった。


 他の貴族が見たら、内心で眉をひそめたことだろう。彼の教師役であれば、注意したかもしれない。けれど私は、私だけは、ほっとしていた。


 ただ尊いだけの、素晴らしいだけのサディアス様であったなら、私はここまで目を奪われなかった。小さな残酷さを披露するサディアス様は、届かない高い場所にいる方ではなく、汚れて地の底にいる私の側にいるような気がしたのだ。勝手な思いだろうけれど。


 私は薔薇園にいるサディアス様を見続けた。声をかけることもなく、息を殺してただ、見続けた。いくら近くにいるような気がしても、私と彼とではあまりに身分が違いすぎるのはわかっていたからだ。



 そんな日々が続く、ある日のことだった。


 林の中から薔薇園を見ると、すでにサディアス様が薔薇園の中にいた。彼はいつも通りに薔薇を見て歩く。


 そんな中、怪しい男が薔薇の中から姿を現し、サディアス様に向かって剣を振り下ろす。


 考える間もなく、私はその男めがけて剣を投げつけた。


 剣は林を越え、柵を通り抜け、男の急所に命中し、男はそのまま倒れて、血だまりができる。サディアス様は傷一つ負うことなく、血だまりの上で男を見下ろした。


 逃げなくては。


 自分がしたことだと知られる前に、ここから立ち去らなくては。


 私は薔薇園にある自身の剣を消し、そして手の中に剣を呼び戻した。


 私が背を向け、走り出そうとした瞬間。


「コーネリア=シェリンガム!!」


 サディアス様が林にまで届く大声で、私の名を叫んだのだ。


「ここに来い!」


 なぜ。私の名を。


 いつ、どこで知られたのだ。見られたのか?


「聞こえなかったか、ここに来い。コーネリア」


 間違いなく、私を呼んでいた。


 逡巡は一瞬。私はきびすを返し、柵を越え、サディアス様の目の前に膝を折った。


 なぜ。そう問いたい気持ちはあったが、固唾を呑んで彼の言葉を待つ。


 血だまりの上で、死体を見ても悲鳴ひとつあげなかったサディアス様は、私を見下ろしている。


 私が投げつけた剣によって、男に当たる前に、何本もの白薔薇の茎が切れていた。その切れた薔薇を拾い上げ、王者として微笑みながら、サディアス様は言ったのだ。


「コーネリア、お前がほしい」


 私は思わず顔を上げた。手の中にあった剣を取り落とす。


 その瞬間、全身を駆けめぐったものは一体、なんだったのか。身体が震えるほどの胸の高揚は、一体何だったのか。


 生まれて初めて、暗殺者の一人としてでなく、替えの効くものとしてでなく、私は求められた。コーネリアとして必要とされたのだった。


 私を包んでいたのは、間違いなく歓喜というものだった。


 綺麗ではない。死体が転がっていて、王太子がいるにはとても相応しい場所ではない。

 けれど、死体が転がっていることが当たり前のように、サディアス様は気にも留めた様子はなく、私を見つめている。


 私のしてきたことは世間の人から認められるものではない。しかし、そんなサディアス様の姿を見ると、否定されていないような、そんな救われた気持ちになる。


 私は彼に生涯仕えることを伝えるため、手を伸ばしたのだった。



   *   *


 目を開けると、サディアス様の顔がごく近くに見えた。


 学生時代の、幼さの残った顔ではなく、成長して男らしさが増した顔が、私に顔を近づけている。


 夢の記憶と現実とで混乱した私は、思わず言ってしまった。


「殿下……?」


 学生時代、私はサディアス様をそう呼んでいた。


 その瞬間、私の顎は強くつかまれた。


「言ったな?」


 地を這うような低い声でサディアス様が言う。金の瞳は怒りに似たものが(とも)っていた。


「ついに、お前は言ったな?」


 望まぬままに王太子から侯爵となったサディアス様に、昔を思い起こさせるようなことを言ってしまった。

 私は今まで、昔の思い出話をしてこなかったし、思い起こさせるようなことは言わないように注意していたのに。


 けれど、サディアス様はいくらでもそんな話をしてきた。自ら国王の話もしてきたし、公爵夫人やシリルに対しても、気を遣う彼らに対し、逆にその話題を振るようなことをしてきた。

 だから、もしかしたらサディアス様にとって、心の中で片付いたことだとも考えていた。


 だがぎらぎらと目を光らせるサディアス様の様子を見ると、それは私の間違いであったのを悟る。


 私は失言をしてしまった。身体を起こそうとしたが、起こせない。全身の痛みのせいと、上からサディアス様が覆い被さるようにしているからだ。


「申し訳ございま――」


 言葉は最後まで紡がれなかった。

 

 サディアス様が食らいつくように、私の唇に噛みついたからだ。


 そしてそのまま、口づけが深められる。


 サディアス様と、口づけている。その事実に呆然としている内に、息苦しく、ぼうっとしてきた。ただサディアス様に合わせることだけしか頭が働かない。


 次の瞬間、腕に痛みが走った。そこは傷を負って血を流していた場所。同じ場所に、更に痛みが走ったのだ。


 思わず目を開けると、私の腕にはサディアス様の『天頂の冠の剣』が光を放ちながら、突き刺さっていた。

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