02. 昏い月、微酔を帯びて(part5)
「コーヒー、美味しいですね」
今更ながら言ってみた。俺は喫茶などは初めてだったから、そもそも比較となる対象が無い。けれど、それは今まで市販のインスタントばかりを飲んでいた自分が哀れに思えるほどに味わい深く、上品なものだった。
「ははは、気に入ってくれたみたいだね」
そう言って、マスターは一人静かに、食器やらグラスやらを拭く手を動かし続けている。
「いつも仕事帰りはここを通るんですけどね、今までこんな店があるなんて気づきませんでしたよ。……不思議ですよね、今日はこの店から漂う空気が路地を満たしていた。その雰囲気とやらに誘われてやって来たんです、ここへ」
店内の暗い配色に程よく馴染む天井の古風な灯り。電球色をもっと自然な暖色に近づけたような、それでいてどこか懐かしい光。店内を流れる微かなBGM。それらが今になって何故か際立って見える。
ふと、あの十二枚羽の存在が思い出された。あれは幻だったのだろうか。ふいに、このことを人に話してみたくなった。
「……そういえば、ここに来る前、雲の上を大きな影が過ぎ去っていったんです。背にはたくさんの羽が付いていて、綺麗だなと思ったんです。ほんの一瞬の出来事でした。あれは何だったんだろう?って……すごく疑問なんです」
「ほう……。それはまた変わった話だ」
隣の常連客は、特に驚く様子も無く、また、この冗談みたいな話を嘲笑うことも無く、俺の話を黙って聞いていた。
俺が話を進めると、此処での会話の陰で今までずっと、奥のテーブル席から鳴り続けていたカチカチというマウスのクリック音が止んだ。彼女は少しの間青白く光る画面から視線を外し、今までの動作を全て切り上げた。何か思い悩んでいるようだ。今の俺は、話し相手の男性でなく、あの女性に焦点を合わせたままだ。
彼女はノートパソコンを折りたたみ、その場に立ち上がった。どうやらこちらに来る。まずい。慌てて視線を逸らす。てっきり俺を通り過ぎていくとばかり思っていた。が、彼女は俺と隣の常連客の間で立ち止まり、あの……、と声を掛けてきた。
「そ、……その話、私も聞かせてもらってもかまいませんか?」
と、恐る恐る口にする。
なんで?どうしてこうなる?どうすればいいんだ、俺。
予期せぬ状況に思わずどぎまぎしてしまう。
こんな展開は一度も聞いた覚えがないのだが……。