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合馬四年一月二十日午前七時 日に三度も頭を下げる羽目になる侍

「熊沢様、あたしゃね別に憎くて言うんじゃないんだけれどね」


 浦町長屋の主である長兵衛の妻である、おかろが人に説教を始める時の、枕詞であった。


 おかろは、年の頃は四十。


 昔はかなりの別嬪であったことが想像できる顔の線の整い方にしている面に、深い苦労が滲んでしまった。そういう貌をしている。


 お人よしの旦那が、住むところに困る者を誰でも長屋に住まわせてやってしまう分の帳尻合わせに精を出して、くたびれてしまった年増は、それでも精力尽きる様子はない。


 今日も今日とて、朝から長屋じゅうに聞こえるような大声を出している。



 そのやりとり、そして今から説教される相手は、長屋連中も勝手知ったるものなので、特に聞き流すところだが、今回は別である。



 長屋の一番奥の部屋。


 開け放たれた出入口。、仁王立ちして大威張るおかろに、見上げられて。


 七尺に届こうかという大男が、肩を小さく背を丸くして、頭を下げていた。


 男は、浪人のようである。見たところ、年は二十から三十の間。首から腕まで、着物から出ている部分の全てが太い。

 けれどどこかすらっとした印象もあり、力士というよりも大きな獣のような印象を受ける。

 人によっては仁王様だと言うし、錦絵から出てきたような男だと評されることもある。

 けれど、顔が駄目だった。

 あまりに意気地のなさそうな、自分よりも小さな小女に怒鳴られて、しょんぼりとしてしまっている覇気のなさ。


 刀も差しておらず、袴も履いていない。そもそも持っていない。武士結の髷と、それでも彼を尊称で呼ぶおかろのなけなしの態度のみが、彼を侍と見て取らせる。


「あのね、うちの亭主が事情も聞かずにあんたを長屋に入れたんだ。ある程度の面倒を見るのが大家の務めだとあたしゃ思ってる。遅れがちだけれどお家賃もちゃんと入れてくれてる。そのでかい図体で梁に頭をぶつけるだのして建物を傷めるのも、床を踏み抜いてしまったのもまあ、許すよ。いつものことさ」


 男は、ただ頭を下げて申し訳なさそうにしている。他のやり方を、知らないように。


 おかろが長屋の前にあるそれを指さす。


「だけどね、長屋のみんな共用の風呂釜を夜中突然担いで持ち出すってのはどういう了見だい!」


 そこには、煤と泥でよごれた鉄製の風呂釜があった。


「しかも、なんでこんなべこべこにしてるんだい! 銭湯が近所にないから、皆で銭を出し合って買った風呂釜だヨ! それをよくもまあ!」


 長屋の奥に、建てられた簡易な屋根と目隠しがあるだけの風呂小屋は、この長屋の自慢の一つで在り、住人たちが交代で管理し、使用していた。

 今朝方、おかろが奥の部屋に住む、その日の食事にもことかく癖に大食漢な貧乏浪人にもらった大豆の御裾分けに尋ねたところ、住人達が何やらわいわいと屯って話をしていた。昨夜の信濃町で起きた大火事の話だろうと近づいたところ、彼らの眼のまえには、男衆五人がかりで据えてもらったはずの風呂釜が地べたに転がっており、しかもまるで火事場にでも持ってったような汚れ方をして、まるで火事場に放り込んだみたいに凹みまくった様子であったのだった。

 おかろは眩暈がしながら、こんなことをできるただ一人の男の部屋の戸を叩いた。


 大声で呼び出すと、その大男は母親に怒られることに怯える子供のような顔で、のっそりと表に出てきた。


 あとは、文頭に戻る。



 浪人、熊沢甲兵衛は、ただ謝ることしかできなかった。

「おかみさん、その、まことに申し訳ない」

「何がまことに申し訳ない! だよ。あんた、これがあたしにだけ迷惑をかけるなら別に何も言わないさ。けれどこのお風呂はね、長屋の皆が汗水たらして働いて帰ってきて、ほっと一息つける。しかも順番待って、やっとやっとで入れるそういうものなんだよ。それをなんだい、担ぎ上げてどこに持っていたのかも知らないけれどこんなべこべこにして、しかも中の水までどっかやって、この水汲みも誰がすると思ってるんだい……。いや、熊沢様、ちょっとお待ちあんたなんでそんなに煙臭いんだい」

「いや、あの」

「あんた、まさか昨日の火事場に行ったんじゃないだろうね」

「うう、その」

「まさか、火消しの手伝いに行ったとか言い出さないだろうね」

「それは、その」

「それで、風呂釜の水を持って手伝おうとしたとか言い出さないだろうね」

「それが、その」

「はっきりお言い!」


 男は、蚊の鳴くような声を絞り出して


「そのとおりです」

 としか言えなかった。

「呆れた」

 おかろは、威張ることも忘れて嘆息する。

「まことに申し訳ない。その、朝一番におかみさんに詫びに行くつもりだったのだが」

「まったく、男らしくない言い訳だね」


 そのやりとりを見ていた長屋仲間の健八 (大工・三十二歳)が声をかけた。

「まあ、おかみさん、その辺にしといてやりなよ。甲さんの不器用さは今に始まったことじゃないし、ちゃんと風呂釜も戻ってきたんだから」

 続いて、二つ隣の部屋に住むおふね (金物屋四蔵の妻・二十三歳)も助け舟を出す。

「釜はさ、うちの亭主が昼飯に帰ってきた時に見せて、凹み直せるところは直しておくから。それに穴も開いてないみたいだから、問題ないよ」

 最近長屋に越してきたばかりの田次郎無職・十七歳が

「あの、皆あんな馬鹿でけえ風呂釜を担いで持って行ったって、本気で信じてるんですかい」

 と当然の疑問を口にしたが、「まあ、甲さんだからねえ」と皆が呆れるように言うのを聞いて、そういうものかと思うしかできなかった。


 おかろの怒りの矛先がそちらに向かう。

「あんた達がそうやって甘やかすから! この人の勝手癖が治らないんだよ!」

 話を見物に囲んでいた長屋連中が、蜘蛛の子を散らすように己の部屋に戻っていく。

 二人きりになって、まったく下を向いたままの浪人に

「まったく。熊沢様ねえ」

 そこで、怒気を全て吐ききってしまった女は言う。

「意気地なんて持とうともしてないくせに、こうと思い込んだら、突っ走ってしまうのがあんたさ。その性分を捨てきれなかったから、こんな襤褸長屋にいる羽目になったんだろう。あたしはね、正直風呂釜のことなんてどうでもいいのさ。けれど、あんたのその性分が怖いんだよ。火消し連中に交じって何をしてきたのかは知らないけれど、それであんたの身に何かあったら。あたしもうちの亭主も、さ」

 その言葉に、侍は今までよりも重いものを背に担いだように、

「まことに、申し訳ない」

 ただ、頭を下げた。おかろにも後頭部が見えるくらいに、深々と頭を下げられ、その首筋に向かって、おかろはまた嘆息。

「まあ、言ったところで、またあんたはその性分でなにかしてしまうんだろうね。熊沢様、とりあえず風呂釜、小屋の中に戻しておいで。あと、ちゃんと洗って、水汲みもしておくれよ」

「も、もちろんさせていただくが、その」

「なんだい」

「釜の弁償代はその、待っていただけると……」

 呆れるしかない。

「熊沢様、あんなにそこまでの甲斐性求めたりしないから、心配しないでおくれ」

「しかし」

「それよりも、うちの亭主があっせんしたアレの日だろう。さっさと用意しなよ。それとほら、これを食べな」

 おかろは、風呂敷から豆の煮ものの入った器を取り出すと、浪人に押し付けた。

「貰い物が、余ったんでね」

「いつもいつも、ありがとうございます」

 侍らしくない。

 おかろは口にはしなかったが、この世話を焼かずにはおけない大男の顔を見ると、いつもそう思ってしまう。





 町火消『い』組は全部で一組から五組にまで分かれている。

 当初、町火消は『い』から数えて四十三組で構成されていたが、先代将軍の頃よりも急速な江戸拡張事業により、担当区分が拡大してしまったことにより、さらに細分化されることとなってしまった。

 拡張により流入してきた人間の中にも、職のない、不逞とまではいかなくても素性のあやしい者もいる。そういった者達にも住人として参加させること、また監視するという目的でも積極的に火消しに取り込んでいったため、今のところ火消しの数は足りている。

 『い』の一組。

 その組頭をしている亥太郎は、鳶の頭でもあり、町人ながら自分の屋敷を構える程の男である。

 昨夜の消火活動が明け方に収束し、熾火の始末を本来の担当である『い』の三組に任せ、家に帰ってきたところである。

 家人はできたもので、風呂を沸かして、簡単な朝餉を整えていた。

 この屋敷には、住み込みの若い衆も多い。火消しの心太などの若い者達も飯を食ってひと眠りをしたら、すぐに今日の仕事に出てしまう。

 しかし、寄る年波。

 亥太郎は昼くらいまで在宅の予定であった。

 さすがに、昨日は堪えた、というのもあるが、きっと今日中に現れる客に心当たりがあるからだった。

「旦那様」

 家人が、来客を告げた。

「熊沢様が、お見えになりました」

「お通ししろ」

 やはり、という他なかった。


 小山のように盛り上がった、熊のような大男。

 そのはずなのに、醸し出すのは、ただのお人よし。

 まったく、侍らしくな男だと亥太郎はいつも思う。

 たった数刻前、焼け落ちた家屋に飛び込んだ男と同じ貌をしていると思えなかった。

 しかし、あの貌ができることこそが彼が侍であるという証左に他ならないことを亥太郎は知っている。

 汗は流してきたのだろうが、着物についた煙のにおいは、落ちていない。

 火消しである自分でさえ、着替えているというのに、一張羅のままで、貧乏浪人が訪ねてきた。

 客間に通し、挨拶もそこそこに亥太郎より告げた。

「熊沢先生、昨夜は御力添えを賜りまして、誠にありがとうございます。お陰様で、人ひとりの命を、失わずに済みました」

 深々と頭を下げると、慌てふためく声が頭上にかけられた。

「お、親分さん。頭を上げてください。私はそんな立派な者では」

「それでも、私どもにはできないことを、あなたはなされた。これは、お礼というわけではありませんが」

 亥太郎は懐から小さな紙包を取り出した。中には一分金が入っている。

 亥太郎の懐から出る金である。火消しとしてでもない、個人から出したものであった。

「どうか、お納めください」

「御断り致します」

 わからぬ男であった。

 金を受け取らぬと告げる時だけ、あの貌になる。

「しかし、あれだけのことをしておいて、何も返せぬと言うのでは、手前の沽券に関わるのです」

「親分さん、私は、侍なのです」

 それだけの説明になっていない答えに。

 男は、出したものをしまった。

 出した金をしまわされて、恥をかかされてなお、この男ならいいと思ってしまう。

「わかりました。あなた様が火消しではなく、侍だと言うのならば。ならば、一つだけ」

「はい」

「どうか、もうこのようなことを止めていただきたい」

 火消し組頭は、告げた。

 浪人は、表情を変えない。

「あなた様は本物だ。あんな真似、誰でもできるもんじゃない。うちの若い奴ら、あなた様に憧れきっちまっている。だから、あっしがいくらいったとこで、その内、火事場で命をかけるようになってしまうだろう。それは火消しの性分じゃねえ。あっしらは、自分も生きて帰らなきゃ意味がねえんだ。金輪際、侍の流儀を、火事場に持ち込まないでもらいてえ」



 何を言っているのかと、我ながら亥太郎は自嘲する。

 助けてもらっておきながら、何を言えた立場かと。

 けれど、言わねばならぬ立場だ。

 それで怒りを向けられてもいいと思った。厭な顔の一つでもして、恨み言の一つでも言ってもらえた方が、よっぽどよかった。



 熊沢甲兵衛は、その場で額を畳につけて、平伏した。


「まことに、申し訳ございません。親分様の気持ちも知らず、勝手な振る舞い仕出かしたこと、平にご容赦を」


 本当に、止めて欲しかった。


 亥太郎は呆れてしまう他にない。一個の侍が、町人ごときに下げていい頭ではないはずだ。

 放っていい言葉ではないはずだ。


 なんとか頭を上げさせるのに、苦労して、亥太郎はもう一つの言伝があることを思い出した。


「蝋衛門さんが、助けられたお礼をしたいそうですよ。何か、物入りがあればなんでもとのことで」


「しかし、あの方も屋敷が焼けて大変な時でしょう。そのような義理など」


「いえ、ああいう商家はですね。横のつながりが深い。すぐに方々から見舞金が集まって資産なんぞすぐに元に戻るようになっているのですよ。大商人の焼け太りというやつですな。ですので、こういう時にこそ義理をかかさぬことが、商人の流儀なのです」


 遠慮なくと伝えたところ、浪人は気恥ずかしそうに、要望を伝えられて亥太郎は呆れながら伝えておくと約束した。



 客人が帰った後、亥太郎は一人嘆息する。


「まったく、侍に向かないお人だ」


 あんなものが、この世で息をしているということが、信じられない。


 彼は、ひどく、落ち込んで頭を下げた。自らの行いを恥じていた。


 けれど、いつか、魔風が吹く時。


 誰かの悲鳴が聞こえた時、おっとり刀で駆けつける託塔天王の姿は、容易に幻視できた。


 そういう男である。


「ったく、なんで火消しに生まれなかったかね」


 どたどたと足音が廊下から聞こえて、声掛けもせずに障子が開く。


 心太であった。


「頭! 甲さ、熊沢先生が来てたって本当ですかい。なんで俺にも教えてくれなかったんですか」


「なんだてめえ、まだ起きてなかったのか。さっさと飯食って仕事行ってこい」






 鰻焼きの娘であるおひきが寺子屋に通い出したのは最近のことである。

 今までは父親の仕事の手伝いをして生活していたのだが、母親がなくなって、男手一人で自分を育て始めた途端「これからは女でも読み書きくらいきちんと覚えないとな」とか言って、寺子屋に通わせ始めた。

 そんなことしなくたって、父親の仕事の手伝いの中で並の四則演算もひらがなも覚えていることを主張したのだが、父親としてはちゃんとしたものを修めさせたいという気持ちがあるのだろう。

 小さな女の子らしくない分別を持っていたおひきは、それ以上父親に文句も言わず、朝の仕込みを手伝い終えると、近所の寺子屋に通うようになった。

 しかし、通ってみて思ったのは、いわゆる子供が覚えるような読み書きそろばんを、おひきは大抵修めていたということ。

 本来ならそこで飽きるか、慢心でもすればよかったのだが、そんな彼女にさらに深く学問というものの存在を教えてくれた男がいた。

 その寺子屋で、臨時に雇われた体の大きな浪人であった。

 まるで、母の墓がある寺でみかける仁王様みたいに大きな体躯の癖に、菩薩様みたいにいつも笑ってるのか笑っていないのかわからない顔をした、不思議な男は、病で数か月床に伏せる寺子屋の主の代わりに、子供たちに勉学を教えていた。

 そして、自分よりも上手に字を書くおひきを素直に褒めて、寺子屋の主の本棚から、一冊の書物を持ってきてくれた。

 それは絵物語、空想の話を書いた読本であった。とても子供には読めない字、言い回しも多くあったが、それを読み解くことに夢中になってしまった。

 学ぶことがこんなに面白いとは思わなかった。

 そんなことを教えてくれた大男に、なんとも言えない気持ちが芽吹いた。


 おひきは、今日も熊沢先生に呆れて文句を言っている。

「先生、なにしてるの」

「いや、まことに申し訳ない」

 十数人の子供たちが文机の前で読み書きの練習をしている中、赤子のおしめ替えをしている浪人に、おひきは文句を言った。

「私に、読めない字を教えてくれるって」

「や、申し訳ない、もう少し待ってておくれ」

 寺子屋と言えど、妹や弟の世話をしながら勉強をする子供も多い。

 しかし、赤ん坊だけがそこで泣き喚いている寺子屋など、ここしか存在しないだろう。


 母親も仕事に出ていることも多いこの町で、日中赤子の世話を任せられる相手もおらず、困り果てる女も多かった。

 特に、兄、姉が風邪を引いてしまい、赤ん坊の面倒を見る余裕がない時に、わずかとはいえ銭を払ってでも、預けられるなら助かるという特殊な事情があることも多い。

 そういったものを、断り切れない男は、今日二人の赤ん坊の面倒を見ながら十数人の子供たちにひらがなを教えていた。

「せんせえ」

「くませんせえ」

 汗をかいて慌てふためく浪人に、おひきは呆れ顔で言う。

「先生、あたしがこの子たちの相手しておくから、ぶんきちとおさよの習字見てきてあげなよ」

「す、すまない」

 頭を下げて、子供たちの方にどかどかと駆け寄る大男を見て、年長であるおひきが助けてやらねば、とてもこの大男は子供の相手など捌ききれぬだろうと思った。

 しかし、勉強小屋というより託児所のような有様の室内を見ながら、おひきは「これだけの子供を預けられると、信用はされているのだな」などと分別くさいことを考えていた。

 本当は、自分の相手をもっとしてほしかったが、その妙な分別くささ故に、おひきは自分を表に出さなかったし、そんな機微がこの目の前の男に気付いてもらえるとも思わなかった。

 なんとも、おさむらいらしくない鈍感な男。

 それがおひきにとっての熊沢甲兵衛だった。

 だから、自分が言ってやらねばなるまいと思った。


「お待たせ、おひき。助かったよ、ええと、どの字の読み方だい?」

 自分の横に座って、紙を覗き込む男に、それを見せた。

「これ」

 紙にはこう書かれていた。


『せのひくいおさむらいが そとからずとこっちをみてる』


 眼を見開き、外に眼をやってしまった甲兵衛に、おひきは「なんのためにこんなまわりくどい注意喚起をしたと思ってるのか」とあきれてしまった。





 夕刻。

 落日前。

 人々が仕事を終えて、帰り道についている。

 その人々の営みの先に、大きな浪人が歩いている。

 浦町長屋への帰り道、わざと人通りの少ない路地を通っていると、彼に声をかける男がいた。

「おう、甲の字」

「大川様」

 背の低い武士が、いた。身なりの整った、黒羽織を着て、帯に十手を差している。

 北町同心という、役職をもった武士が、何をもって貧乏浪人が一人になったところで声をかけるのか。

「まったく、ややこしいぜ。てめえ、目立ちたくねえから俺と接触するのはできるだけ人目につかないところでとかぬかしやがる癖に、朝から長屋のおかみに怒鳴られるわ、町火消の頭の屋敷に入り込むわ、寺子屋では子供相手に大騒ぎするわ、目立ちまくってるじゃねえか、熊沢センセイ様よ」

「も、申し訳ない」

 頭を下げそうになる男に

「やめろ、侍が、一日に三度も四度も頭を下げるんじゃねえ」

「……しかし、大川様、三度もということは今日一日、ずっと私を見張っていたというのですか」

「ああ」

「……それを、尾行相手に伝えるなんて」

「お前が目星じゃねえってことは十分にわかったからな。とりあえず、何か奇妙なことがこの界隈で起きたら熊沢甲兵衛を見張れってのは、鉄則だ」

「それは、その、つまり」

「ああ、どうにも、魔性じみた事件が起きた。てめえの了見を借りてえ」


 人々に、何度も呆れられる男。


 相対する武士。


 陽の光が、沈みゆき、人の顔がおぼろげになっていく時間帯。


 確かに、大男の顔が、侍の貌になるのを、北町同心大川忠蔵は見逃さなかった。

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