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西暦一××五年(合馬四年)一月二十日午前二時七分 失火確認

江戸八百八町とは慣用句であり、江戸という大都市の誇張表現である。


 合馬四年現在、拡張に拡張を重ねたそれの実際は一三〇五町である。




 江戸南端の但馬町にある襤褸長屋の奥から二つ目に住む、鰻焼の娘おひきは、静かすぎて眼を覚ました。


 草木も眠る、深冬の夜には夜鳥のさえずりも猫の夜更かしもあるはずはない。


 けれど、そういう静けさではない。


 瞼をこすり、部屋を見渡し父がいないことに気付く。


 玄関の戸が開いて、外に出た父が北の空を見ている。どこか呆けた顔で、遠くを見ていた。


「おとう、どうしたの?」


 娘の声に、我を取り戻した父親は、ああと声を出すと室内に戻り、戸を閉めた。


「どうも、鐘の音が聞こえてな。火事のようだが、遠くだ」


 火事の時には、火の見櫓の鐘がなることは知っているが、おひきはまだそれをちゃんと聞いたことがない。


「おとう、私も鐘聞きたい」


 少し眼を輝かせる娘の頭にぽんと手を乗せて


「いいから寝ろ」


 布団へ押し戻した。


 おひきは反論することもなく、布団に戻る。


 隣で、父の寝息が聞こえる。寝いると途端にいびきになる。


 亡くなって一年になる母は、いつも眠れないとぼやいていたが、そのやかましさは父がそこにいることだと思うと、おひきはよく眠ることができる。父のいない静けさの方が、眠れない。


 鐘の音が聞こえないかと、耳を済ませたが、父に邪魔される。耳の焦点を外に置くが、風の音が時折するだけである。耳のいい父がかすかに聞こえる程度なら、自分に聞こえることはないだろう。


 まあ、いいやとおひきは眠りに入ることにした。


 風は、北に吹いていた。


 まだ一月であるというのに、南風が吹くことなどあり得ない。


 けれど、そういう日がたまにある。


 そういう夜が、今の江戸にはある。


 魔風と呼ぶ。 




 おひきの眠る長屋から北に、北に、さらに北にいった陸奥町には櫓は二つある。公営の定火消が用いるやぐらと、今夜の火の見番をしていた文吉の登る民営団体町火消の管理する櫓である。


 二つの櫓は、競い合うようにてっぺんにつるされた半鐘を叩いて、失火を知らせる鐘の音を町中に響かせていた。


 かぁん、かぁん、かぁん。


 きゃあん、きゃあん、きゃあん。


 手前の鐘と向かいの鐘を聞きながら、文吉は口元が少し緩むのに気付かなかった。


 こっちの鐘の方が、いい音している。


 対抗意識など持つ必要はないのだが、それでも手前の町を手前達で守っているという自負を持つ町火消しとしては、どうしたって心根にそれはある。普段、おくびにも出さないが、それはある。


 そして、それはいつまでも出す必要のないものだ。


 かっ。


 鐘を叩き損ねる。


 自分の邪に気付き、慌てて口元を引き締め直すと、文吉は再度力を込めて槌を振った。


 かぁん。


 いい音だ。


 景色を見る。


 江戸の町並み。夜の町並み。青と蒼の世界に、一点赤がある。


 ここからまっすぐ北東を見据えれば、そこに炎が舞っている。


 尋常な景色ではない。


 空気が乾き切り、いい具合の風である。そして、火元は蝋燭や紙等、可燃物を扱う問屋の集まる信濃町である。


 何故、こんなわかりやすい季節時期に、火元に特に気を付ける商人町で火災など起きるのか。そんな素人が集まる町ではないはずだ。


 しかし、そんなはずはない。という場所でこそ火災は起きる。


 文吉は、それを知っている。


 かっ。


 また、叩き損ねる。


 文吉は己に叱咤する。


「馬鹿野郎」


 一人ごちて、再び手に力を入れ直す。俺は、一人でも多くの人間にこの危急を伝えねばならないのだ。くだらないことを考えている暇があれば、腕がちぎれるくらい鐘を叩きやがれ。


 文吉は、鐘を叩く。その音を聞きつけて顔を出す野次馬達。


 あの火勢は危険ではないか? こちらは風上だから大丈夫だ。いや油断はできないぞ。


 ざわめきが聞こえ始める。


 文吉は気にしない。


 その眼下、魔風と共に、櫓の下を駆けて行く一団にも、気付かない。




 風は、北に北に、そして北東に、江戸の空を赤く照らす一画まで吹いてゆく。


 風は、おひきの長屋の戸を揺らし、街並を抜けて、文吉の玉の汗かく肌を撫でて、屋根の上を舞い、信濃町までたどりつき、信濃町火の見櫓で鐘を叩き続ける弁太の下を通り過ぎた。


 かんかん。かんかん。


 火事を知らせる鐘は一つ。


 かんかん。かんかん。


 二つ続ける時は、直近で火事が起こっているという報せ。


 まさに、弁太のいる櫓から三軒隣のお店が、燃え盛っている。火の熱さが肌を刺す。恐怖を煽られながらも弁太は腕を振い続ける。


 今から、ここに来る者達がいる。その者達に、ここだと示し続けなければならない。


 きっと、弁太は櫓に火が付いても、鐘を鳴らし続けるだろう。


 蝋燭問屋遠江屋の二階建てが、燃えている。




 炎が、渦を巻いたのを、遠江屋丁稚の小助は店の前で遠巻きに見ていた。


 寝巻姿に裸足である。周りも皆同じような格好であった。


 真赤な、真赤な炎であった。冬の火の炎の美しさである。


 庭先の落ち葉を集めて、燃やした時の紅は、寒さに手をかじかんでいた小助の手を暖かく包んでくれた。


 それと同じ物が、店を覆っていた。


 小助は、三つの時から、この店にいる。


 それより前のことはほとんど覚えていない。


 小助にとって、今目の前で焼け落ちているのは、己の半生を過ごした場所であり、思い出の全てを抱え込んだ家だった。


 いつものようにこきつかわれて、飯を食べて、喜六兄ぃに数の数え方を教えてもらって、眠りについた。


 まどろみ、一度だけ見たことがある勧進相撲の光景を夢に見て、さあ大関室賀の大一番が始まると思った瞬間、布団を剥がされ喜六兄ぃの声がした。


 「はっけようい」ではなく、「小助、逃げろ!」で、駆けだした。


 店で働いていた皆が、燃え盛る炎に包まれた家を見ている。


 いつでも頼りになった喜六兄ぃは、頬に火傷をして、他の小僧達を抱えていた。


 女中の姉さん達は、皆寄りそって泣いていた。


 少し年上の姉さん達は、眼に涙を浮かべながらも「しっかりしな」と皆を叱っていた。


 便所紙まで節約しろとうるさかった番頭さんは、店に戻ろうとする手代達を、必死に引きとめていた。


 流石に蝋燭問屋。一度火が付くと逃げるのが精いっぱいで、取る物も取らずに逃げ出したのだ。


 あんなに金金銭銭うるさかった番頭さんが「金なんかいいんだよ!」と叫んでいるのが、不思議だった。


 奥様とお穣さまは、並んで炎を見ている。血の気が引いて青ざめた顔がゆらゆらと照らされていた。


 小助は頬をつねった。


 夢かどうか確かめる時は、これが定番らしいから。


 痛い。現実なのだろう。


 丁稚奉公にあがった時に、母が持たせてくれた古着も、拵えてもらった前掛けも、お下がりの算盤も、全部。燃えている。


 現実なのだ。


 ようやっと、隣近所の人々の逃げまどう声に気付いた。


 誰も彼もが皆一様に怯えた顔をしていた。


 難産で、生まれてすぐ死んだ弟をあやしていた母親の顔を思い出す。


 皆、そんな顔をしていた。


 叫び声。


 炎そのものが、一つの生き物のようにうねっている。そして建物一つを呑みこんでいる。


 江戸暮らしの小助は馬より大きな生き物を見たことがない。


 こんな大きな生き物はいないだろう。


 なら、火は、炎は、化物なのだろう。


 化物が、うねる。


 人々の叫び声が聞こえる。


 風が吹く。


 右の目頭から、ぽろぽろと涙があふれて。


 叫び声が聞こえた。




「野郎ども、かかれぃ!!」


 


 小助が、喜六兄ぃが、番頭が、皆が声のした方を振り返ると、そこでようやっと気付いた。


 揃いの刺子半纏に身を包んだ、数十名の屈強な男達。面々に、鳶口や梯子を担ぎ、道の向こうからこちらに、火勢に向かって走って来ている。知っている。


 陸奥町に詰所を設けた、町火消し達であった。


 いの一番に駆けつけたのは、江戸八百八町々火消七十二組。その筆頭、『い』の一番組。


 先頭を駆ける壮年の男、ぴたりと後ろに付き従う男達を見ずに叫ぶ。


「十蔵! 隣の佐野屋はすでに火が燃え移っている。二つ隣の黒田屋の屋根に上がれ、竹松。梯子をかけろい」


 おそらく十蔵であろう、纏を担いだ美丈夫が「応!」と指示した壮年を追い抜くと、それに合わせて梯子をかついだ小太りの男が続く。


 二人は黒田屋の前に着くと、ぴたりと息が合った様子で梯子をかけ、十蔵はひょいひょういと屋根に上がる。


 屋根の天辺にあがり、十蔵は掌中にある纏を大きく掲げ、先ほどに負けぬ大音声で、高々と、魂魄の全てを込めて、死地に向かう者、火に怯える者全てに聞こえるように、宣言した。


「いの一いちが、消し口を取ったぞお!」


 消し口を取るとは、その場所で火を消し止めるという宣言である。


 纏持ちは屋根の上で、その場所を示し続ける。もし、消し止められなければ、纏持ちは焼け死ぬ。そういう覚悟で、屋根に上がる。


 勇猛なる声を皮切りに、男達は消火活動に当たる。


 信濃町は水気が少ない。


 もっぱら、火災周辺の建築物を打ち壊し、燃えうつるものを失くし火をその場で自滅させることが行動目的である。


 当時の町火消しに鳶職が多いのも、建築物の建て方を知る故、壊し方にも精通しているためである。


 彼らは火を恐れずに、破壊活動を行い始めた。


 『い』の一組の組頭である先ほどの壮年の男。名を亥太郎と言う。


 亥太郎は叫ぶ。


「いいか、勝手に火勢につっこむんじゃねえぞ。火に逆らうな、周辺から皮を剥くようにばらしていけ」


 命知らずの粋男どもは、いくらでも危地に飛び込んでいく。


 彼は冷静にそれを押しとどめなければならない。


 本当は、隣の佐野屋に消し口を取ってもよかったのだ。しかし、今夜は魔風が吹く。少しでも若衆の安全を考えなければならない。そういう判断をしていた。


 幸い、火災に気付いたのは早かったらしく、店の者達も全員避難はできているようだ。あの先ほどからやかましく鳴る鐘が警告を続けてくれたお陰で、周辺の住民も飛び起きている。


 いける。


 亥太郎は、心の中で勝機を見た。


 店の外で陣頭指揮をとっている最中に、丁稚小僧がやってきて


「旦那様が、いないよう」


 そう言うまでは。




 伝染は早かった。店の者達全員が気付いた。放心状態だった母娘も気付いた。店の主遠江屋蝋衛門が、逃げ遅れていることに。周りの野次馬達にも知れ渡った。そして、周辺家屋の破壊作業をしていた火消し達にもそれは伝わった。


 亥太郎は「くそっ」と心の中で悪態を付く。


「頭、俺が行きます」


 なけなしの水を頭から被った心太が、鳶口をかまえて言った。思った通り、そういうことを言いだす奴が現れた。


「馬鹿野郎、火の勢いを見ろ。焼け死ぬに決まっている」


 一人娘のたえの泣き叫ぶ声が聞こえた。


「頭」


 行かせるわけにはいかない。もう、いつ崩れ落ちたっておかしくないのだ。むしろ、いままで家屋としての形を保っていたほうがおかしい。そういう燃え方をしている。


 こんなところに、若衆を飛びこませるわけにはいかない。亥太郎も若手の時に、先代から火事場でぶん殴られてそれを教え込まれた。


 風が吹き、鐘の音が響く。


 がたん、と何かが外れるような、落ちる音がした。


 亥太郎は背筋が凍りつくのを感じる暇もなく叫んだ。


「野郎ども。崩れるぞ離れろ」


 たえの叫び声。


「おとっつあん」


 周りにいた人々からも悲鳴。


 建物が、焼け落ちた。


 無理だと、悟った。


 まだ定火消しは来ない。亥太郎の上司にあたる町名主をすっとばしてここまで来てしまった。詰所から見ても異常な火煙をあげていたため急行したからだ。現場の最高責任者は、亥太郎のままである。彼の結論は変わらない。


「いいから、消し止めを急げ! こうしている間にも……」


 心を震わせる。そうしなければ、負けてしまう。


 何に?


 天地に存在する、抗いようのない理不尽に。



 それは今夜、火勢という形を得て現界する。


 それとは、邪悪。


 そして









 








 そして、邪悪を踏みつける音がした。


 実際には、砂をしかりと踏みつける、足音。


 何故、その砂刷り音を小助の耳が捉えたのかはわからない。


 けれど、確かに聞こえて、そちらを向いた。


 小助は、馬より大きな生き物を見たことがない。


 だから、最初それが何かわからなかった。


 手足があった。だから、きっと人間なのだろう。


 服を着ている。だから、きっと人間なのだろう。


 おまけに腰には刀を差しているのだから、侍だ。


 その身なりのくたびれ方に、月代を剃っていない風貌は、貧乏浪人のそれだ。


 ただし、巨躯である。


 六尺はゆうに超え、七尺に届こうかといわん。腕も、胸も腹も脚も首も太い。こんもりとした小山がゆっくり、ゆらりとこちらに向かって、歩いてきている。


 何かを、担いでいた。


 炎に照らされて、わかった。


 風呂釜であった。人が一人入る、大きな大きな鉄の風呂釜。


 それを肩に乗せ、太い右腕で支えている。


 歩み、体が揺れるたび、釜の淵から水滴が飛んでいる。


 つまり、あの掲げた釜の中には、水をたっぷり入れている。


 無理である。


 人が一人、納まりきるような釜に入る水が、どれだけの重量を持つのか。水汲みが嫌いな小助は知っている。


 そんなものを抱えて、けれど、その巨体はふらついていない。


 一足ごとに、まるで地面を踏みつけるように、力士が四股を踏むかのような強さでこっちに来ている。


 彼が歩みを進めるごとに、この火勢に舞い込もうとしていた魔風が霧散していくようだった。


 この世界を支配する邪悪が、吹き飛んでいく。


 近づいてくる。


 近づいてくる。


 炎が、それの顔を照らした。


 人の顔をしていた。


 きっと人だ。


 化物ではない。


 鬼でもない。


 人でないものが、あんな義憤にまみれた貌をするものか。


 小助の様子のおかしさに気付いた亥太郎は視線を追った。


 そして、その人影 (?)を視認し、口から漏れた。


「……熊沢様」


 それを皮切りに、地面に立つ皆が道の奥に眼をこらす。


 この舞台の中芯が、火ではなく、人、彼に向っていく。

 

「熊沢の旦那」


「甲さん」


「熊沢先生」


「旦那」


 皆が、そこにあった恐怖を忘れ、風呂釜を担いだ巨人の歩みを眺めてしまう。


 火消し達でさえ、一瞬、息を呑む。


 そして、燃え盛る問屋の入口まで、それは辿り着く。


 巨人は、あっけに取られている心太に、左手で腰に差した刀を鞘から抜くと、何も言わずに押し付けるように預けると、両手で釜を持ち上げようとする。


 亥太郎は気付く。彼が何をする気なのか。


「熊沢様! 駄目だ。もう崩れ落ちている! あぶねえから止めろ」


 と最後まで言い切る前に、風呂釜の中身を自分自身に向かってぶちまけた。


 濁流。


 巨漢の体と衣服を十分に浸す水量は、勢い余って小助と亥太郎も服を濡らす。


 小助には何が起こったのかわからなかった。


 次の瞬間には、巨漢は風呂釜を担ぎ直すと、燃え盛る炎に照らされながら、店の奥へと、駆けた。まるで、体当たりのように、駆けてしまった。


 その一瞬の出来事に、呆気に取られている中、ずぶ濡れの火消し若衆心太は、憧憬の眼つきで言う。


「すげえ、さすが甲さんだぜ、まるで托塔天王じゃねえか」


 亥太郎は、心太の頭を小突いた。


「くだらねえこと言ってねえで、さっさとてめえも消火にあたらねえか! 熊沢様の刀は、その、俺が預かる!」


 彼が抱きしめたままの刀をひったくると、慌てて持ち場に戻る心太に、亥太郎は呼びとめて。


「それと、きちんと熊沢先生と呼びやがれ」


 火渦の中から、風呂釜に押し込まれた軽いやけどを負った蝋衛門と、それを担いで飛び出してきた男が出てきたのは、その時であった。


 それより明け方、無事黒田屋の手前で消火は終わり、纏持ち十蔵は無事屋根から降りた時には、男は場から消えていた。


 夢幻をみていたように、呆ける商人達。


 けれど、現実に焼け落ちた家がある。


 燻ぶる熾火の始末、火消したちの仕事はまだまだ終わらない。


 

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