第62章:指先だけ触れて
【SIDE:宝仙星歌】
ついにフルートの発表会のある日がやってきた。
3月上旬、穏やかな天気の朝日を私は窓から浴びる。
「……久しぶりに目覚めがいいわ」
日常的に目覚めが悪いのが今日ほどすっきり起きれたのは久しぶり。
この数か月間、練習し続けてきたフルートも今日で終わりだ。
私は音楽が嫌いだった。
けれど、嫌うだけではダメなんだと気付かされた。
音楽になんか負けないと本気で取り組んだ。
今日、夢月に勝てばそれですべてが終わる気がするの。
「ところで、さっきから私のお腹の辺りに感じる温もりは何……?」
私は盛り上がった布団をゆっくりとめくる。
その中にはなぜか私に抱きつく双子の妹、夢月の姿があった。
一昨日に外国から帰国した夢月は私の敵として数日の間、隣の別室で寝ているはず。
それなのに、なぜ今日になってこの子が私の部屋で寝ているの?
「……んみゅぅ」
「って、こら、私のパジャマによだれをたらすなっ!」
私は彼女の頭を肘で小突く。
振動で目が覚めたのか妹は「何するのよー」と不満そうな口ぶりでおきあがる。
眠たい目をこすりながら夢月はこちらに顔を見せる。
「ふわぁ、もう朝なの?」
「朝なの?じゃないわよ、勝手に人の部屋に入るのはやめて」
「いいじゃん、双子の妹だよ?他人じゃないんだよ?」
「黙れ、私の敵。さっさと出て行きなさい」
夢月をベッドから追い出すと私は一部湿ったパジャマを脱ぐ。
この子のせいで、朝から嫌な気分にさせられる。
さっさと私服に着替えると夢月はまだベッドにゴロンっと猫のようにくるまる。
「こらっ、貴方も起きるのよ。今日は私との勝負の日だって忘れたの?」
「勝負……?何だったっけ?あっ、胸の大きさじゃお姉ちゃんの勝ちだけど体重はきっと私の方が軽いはず、こーみえて2キロ痩せたからねっ」
「す、スタイルが違うんだからそんなの関係ないわよ……」
ちょっぴり悔しい、けど、それが本題ではない。
私は妹に指をさして宣言する。
「今日で私は夢月から解放されるの。あの悪夢の練習の日々もお終いよ」
「あ、それは無理。コンクールじゃ私が勝ってお兄ちゃんの恋人になる予定だから。それはさすがに無理。お姉ちゃんじゃ私には音楽では勝てないよ」
淡々としつつも、しっかりとした口調で言う夢月。
嫌みでも何でもない、彼女にとっては当たり前とまでいった感じだ。
経験と実力から来る絶対的な自信がそこにはある。
私と夢月の間ではそれだけの差があるってことだもの。
いくらフルートが本職ではないとはいえ、幼い頃にはコンクールで何度も優勝した経験もある夢月に比べて、私は賞をとれたのが精一杯だった。
ずっと勝てずにいた相手、無敗と無勝、それまでなら勝負にすらならない。
けれど、私は勝つと決めたの。
そして、お兄様も本当に私の力で恋人になるんだって。
「……夢月にだけは負けない」
「珍しくやる気じゃん?いいけどねー。それだけの自信があるほど、実力の差が埋まったとは思えないけど。それよりもお姉ちゃん、上着のボタンがずれてブラ丸見え。それでお兄ちゃんの前に出たらサービスショットだよ。しかも、黒っていつのまにか大人な感じだね?」
「きゃーっ!?」
思いのほか、意識して動揺しているのは私の方だ。
だって、正直な話で言うと勝てる気はしない。
気持ちで負けちゃダメだ、と自分を振るい立たせながら、
「こ、これでいい……?」
一応、上着のボタンをはめなおして、念のために妹に確認してもらう。
お兄様の前で失礼な真似はしたくないもの。
リビングに行くと既にお兄様と美羽さんが食事をしていた。
今日の朝のメニューは和食、夢月が帰って来てからは彼女の好みが食卓に並ぶ。
「お米だぁ、いいよね、和食って。何だか安心できるよ。日本の悪いところは日本食を海外の人々の勝手にさせ過ぎだと思うの。そーいう意味では中国とか韓国の方がまだマシ。お寿司屋さんなんてひどいよ?何これってお寿司ばっかりだもの」
そんな海外の食文化について生意気にも語る妹。
海外留学経験があるってだけで偉そうにされるのは不愉快だ。
「はい、夢月。お茶よ、どうぞ」
「ありがとう、お姉ちゃん……ぶはっ!?」
勢いよくお茶を噴き出す妹、思いっきり濃い目の緑茶にしておいた。
「げふっ、けふっ!?に、苦いにゃー!?」
「だ、大丈夫か、夢月?むせたのか?」
「ち、違うよ、味が濃すぎるの。うげぇ、何これぇ。苦すぎて喉が痛い。ひどいよ、平然と毒殺しようとした実姉がいるんだ。私があまりにも美少女だからってひど~いっ」
「ごめんね、夢月。手元が狂ったの、悪意はなかったのよ(殺意はあり)」
「……うぅ、この姉、ひどいよ。マジで怖いよぉ」
テーブルを拭きながら夢月はダメージを受けた様子を見せる。
そんな私達をお兄様は笑ってみていた。
「ふたりとも朝から元気だな。今日は頑張れよ?」
「はい、お兄様の期待に応えてみせます」
「ねぇ、美羽ちゃん。ぶっちゃけ、お姉ちゃんの実力はどんなものなの?」
それまで我関せずとのんびりと食後のコーヒーを飲んでいた美羽さん。
彼女はこちらに顔をあげると妹に言う。
「星歌ちゃんの実力?あー、そうね、この規模のコンクールなら何とか上位入賞も狙えるんじゃないかしら?悪い癖は治したし、音感も悪くないし、後はミスしない事と久しぶりのコンクールでプレッシャーを感じない事くらいかな?」
「ふーん。やるじゃん。さっすが、私のお姉ちゃん。本気モードだとすごいねー」
「めっちゃ、棒読みだし。私なんて相手にもならないと?」
夢月は首を横に振って屈託のない笑みを浮かべる。
「断然やる気が湧いてきた。私が練習したのはこの1週間だけ。でも、お姉ちゃんの数ヵ月分の努力を上回るだけの自信はあるもんねー」
「確かに夢月ちゃんはすごいけど……あんまり星歌ちゃんを過小評価しない方がいいわよ。持ってるものは違っても、夢月ちゃんとは別方向で素晴らしい演奏をしてくれるはずだもの。星歌ちゃん、頑張りなさい」
「美羽さん……ありがとうございます。美羽さんが教えてくれた事、精一杯、発揮してこの生意気な双子の妹を泣かせてみせますから。ごめんなさいというまで許さない」
その瞬間、場の雰囲気が微妙なものになる。
「……結構、この姉妹って仲が険悪なの、蒼空クン?」
「いえ、そんな事はないと信じたいんですけど……」
ガーンっ、お兄様まで何だか引いている。
私は気分的にしょげてしまう。
「まぁ、そんなわけで負けても勝っても恨みっこなしと言う事でOK?」
夢月がそう言って私に手をさしのばしてくる。
「……またお茶が欲しいの?」
「違うよっ!?話の流れからしたらお互いに勝負の握手でしょ!」
「握手ね……はい」
私は指先だけ、夢月の手に触れて握手する。
戦いの幕開け、私と彼女の最後の対決。
「さぁて、ご飯にしよっか。お茶はお兄ちゃんが入れてね。お姉ちゃんは椅子に座ってて、お願いだから何もしないで。って、だから、熱いお茶を入れないっ!そんなの飲んだら舌を火傷するじゃない」
「すでに勝負は始まってるのよ」
「うわぁ~っ。そーいう卑怯な真似をする姉は見たくないですっ」
賑やかな朝、私たちの姉妹の日常はいつもと変わらなかった。
コンクール会場について久しぶりの雰囲気に私は飲まれそうになる。
ホールを埋める人々、ステージに立つ緊張感。
ミスしないかという不安、周囲には真剣な顔のライバルたち。
経験の差だろうか、夢月は全然、緊張した様子もなく服装に着替えていく。
「……何かムカつく」
私だけソワソワとしている現実に苛立つ。
妹に出来て私にできないはずはない。
この戦いで負けたら私はも終わり。
緊張なんてしてミスしたら嫌だ、と私は無理にでも自分を奮い立たせる。
「では、コンクール開始までこちらの控室でお待ちください」
と私達は別室へと案内されていく。
そこは会場のステージの横にある部屋だ。
演奏を終えるとステージの下にある席へと移動することになるらしい。
ホール全体に響く人の声に、意識しても震えてしまう手。
「……ぷにっ」
「きゃっ!?な、何するのよ?」
いきなり隣にいた夢月が私の頬を指先でぷにっとついてくる。
「スマイル、スマイル~っ。笑顔が大事だよ、お姉ちゃん。そんな怖い顔じゃお客さんも楽しめないじゃん?楽しんで音楽しなきゃ意味ないし」
「私はそこまでの余裕はないの」
「そう?それじゃ、お姉ちゃんはどーいう気分で演奏するの?楽しまなくてどーするの?言っておくけど、審査員の人達はそんな勝ちたいってだけの自己満足な演奏には点数つけてくれないからね?」
夢月は真面目な横顔を見せて暗幕の隙間からわずかに見えるステージを見ていた。
「必要なのは音楽って何かっていうこと。それを伝えることが大切なの」
「音楽って何……?はい?何よ、意味が分からないわ」
「それが分からない?それじゃ、きっとお姉ちゃんは私に勝てないね」
夢月は雰囲気をこれまでのものと変えて、プロの音楽家として真剣な顔をする。
「コンクールが始まるよ。どんな戦いになるのか、楽しみだね」
ブザーの音がなる、私達のファイナルバトルの火ぶたが切って落とされた。
私は夢月に負けられない。
お兄様のために、自分のために、必ず……音楽で夢月に勝つの――。