第62章:大好きな兄のために
【SIDE:宝仙星歌】
私はこの2ヵ月半以上、学校の生徒会とフルートの練習を両立しながら、大変な学生生活を続けていた。
お兄様とはあまり話す機会が少なくなっている。
それは彼自身、受験に入っているからだ。
お兄様が選んだのは音楽科、これまで以上に勉強をしなくてはいけない。
私は彼とのわずかな時間の触れ合いだけを楽しみに練習を続けていた。
ひとりでの練習より、美羽さんの指導が加わったことで、効率もあがり、私はようやくフルートらしいフルートを演奏できるようになった。
だけど、この程度では夢月にも勝てないし、大会で入賞することできない。
かなり無謀な挑戦をしているとは思っているけども、このコンクールで入賞できない程度の腕じゃ夢月には勝つことができない……負けるわけには行かないので毎日が必死だ。
これは勝負なの、私と夢月の最後の戦い。
音楽を嫌う心はこの数週間は封じ込めて、真正面から向き合っている。
はっきり言って美羽さんの指導はかなり厳しいものがある。
怒るときは本気で怒られるし、こちらにやる気がないと思われると練習中断されたりするのもよくあることだ。
真剣だからこそ、私もやる気を維持して、ここまで来ている。
「いいわね、星歌さん。ずいぶんと上達したと思うわ。これだけの短期間でこの曲を弾けるようになったのはすごい。音楽はやめたと言っていたけど、実際は自分で吹いて楽しんでいたんでしょう?それが感覚を忘れずにいたの。音楽って練習をサボっているとすぐに腕が錆つくのよ」
私がこっそりしていた事は無駄ではなかった。
最近は前向きにそう考えている。
「ありがとうございます。とりあえず、第1段階はクリアですか?」
「そうねぇ。でも、本番はこれからよ。ある程度の感覚を覚えたら、ここからは練習あるのみね。基礎をやり直したからきっと今までと違う感じで吹けると思うわ」
基礎というのは大事なことだって私は改めて思わされた。
一度やめてしまってずいぶんと鈍っていた腕も人並みになれた。
本当に大変なのはここから、自分らしさを表現していかないといけない。
「練習はここまで休みをいれましょう。根を詰めても、うまくはならない。たまには蒼空クンとデートでもしてくれば?」
「お兄様とは今は別れていますから」
「あら、かたい事を言わずに兄妹でデートもいいじゃない。蒼空クンも受験勉強でお疲れ気味なんだから。たまには息抜きをしておきなさい。音楽は心が大事、リフレッシュは本当に大切なの。夢月ちゃんに勝ちたいのなら、余計にね。私から話をつけておいてあげるからさ」
「任せておいて」、とばかりに笑顔で彼女は答えた。
そのような会話をしたのが、今から数時間前。
私はお兄様と一緒にのんびりとして一緒に外へと出ていた。
はじめはいろいろと緊張もしたけど、お兄様は変わらない雰囲気で私を待っていてくれた。
今日だけは妹として彼に接する。
「ほら、見てください。お兄様。この子、可愛いですね」
お兄様と繁華街を歩いていると、ペットショップに立ち寄った。
ゲージの中に可愛い子犬がいる。
抱きしめたくなるくらいに愛らしいミニチュアダックス。
短い脚と胴長の身体が特徴的な犬だ。
「ホントだ。僕はこっちの方の犬が好きだな」
「……パピヨンですね。耳が蝶々みたいになって可愛いです」
「なぁ、星歌。飼いたいならどれがいい?」
「……え?飼うって犬をですか?」
お兄様の言葉に私はきょとんと疑問の声をあげる。
「犬じゃなくてもいいよ。両親が動物を飼ってもいいって、許可をもらっているんだ」
「いいんですか?本当に……?」
「世話をするのは星歌が責任を持つこと。それが条件だけど、いい?」
私は昔から動物が大好きだった。
けれど、親はたびたび家を空けるために子供の私には責任を持てないと、ずっとダメだと言われていたの。
「は、はい。ありがとうございます」
どうして今になって許可をもらえたんだろう?
その意味を私は考えて……ある事に気づいてしまう。
「……お兄様、それはいつか私ひとりになってしまうからという意味ですか?私が寂しくならないように。両親が許可してくれたんですね?」
そう考えれば全て納得がいく。
お兄様は「それは違うよ」と私に微笑みかけた。
「僕は少なくともあと4年は日本にいる。そうじゃなくて、星歌にはもう何も我慢して欲しくないんだ。ずっと星歌には悲しい想いをさせてきただろう。その寂しさをこう言う形で両親は償いたいって思ってるみたいだ」
「あの人達が私の事を気にしてくれているんですか?」
「当然じゃないか。星歌も二人の大事な娘なんだからさ。星歌が傷ついてきたことに反省しているんだよ。だから、気にしないでいい。ふたりからのおくりものだって思ってくれたらそれでいいよ」
両親はまだ日本には帰らないけど、いずれは日本で暮らす時がくる。
だから、私には寂しさを感じたりしないように、ペットを飼ってもいいんだって。
「……それじゃ、お言葉に甘えさせてもらいます」
私が両親に心配されていた、そのことが何だかくすぐったくも感じる。
その日、私は大切なものを手に入れた。
「うわぁ……可愛いです」
その夜、私はお兄様が組み立ててくれた檻の中で、可愛く舌を出して水を飲む子犬をのんびりと見つめていた。
あれからペットショップで犬を飼うことになった。
室内犬なので、小屋ではなくベッドと動き回れる檻を購入した。
飼うことにした犬は気に入っていたパピヨンと言う種類の犬。
ホントに耳が可愛く蝶々みたいになってる子犬だ。
「ほら、お兄様。見てください、尻尾をふってますよ」
まだ私に慣れてくれていないので抱きしめる事はできない。
早く抱きしめたくてしょうがない。
「……ようやく笑ってくれたね、星歌」
私の横でお兄様がそう言って微笑む。
「え?……あっ、そうですね」
今までは夢月との勝負とかお兄様との喧嘩とか破局とか、色々とありすぎた。
笑う事もしばらくなかったかもしれない。
「ねぇ、蒼空お兄様。もうすぐ、ですね」
「……うん。そうだな、僕は楽しみにしているよ」
「私も……自分がどこまでやれるのか試してみたい気持ちがあります」
逃げていては意味がない、前を向かなきゃダメなんだ。
その事を強く感じさせられていた。
「きゃっ、もうっ。いきなり舐めちゃくすぐったい。びっくりするでしょう?」
私はこちらに近づいて指を舐めてくる子犬に触れてみる。
メスの子犬は大人しく、私はようやく抱きしめる事ができた。
「この子の名前、決めました」
「何する?夢月3号とか?」
「それも悪くはないですけど、ナイトって名前にします。夜という世界で星と月は輝いてる。私にとって大事な存在です」
お兄様は優しく私に「良い名前じゃないか」と言うとナイトの頭をそっと撫でる。
「ナイト。良い名前だと思うよ。僕も撫でようか……いたっ!?」
「こ、こらっ。ナイト、お兄様を噛んじゃダメでしょ!」
「……やっぱり、夢月3号でいいんじゃないか?」
私達は顔を見合せて笑いあう。
心がすごく楽になった気がする。
大切な人と過ごすのは何よりも幸せなことだから――。