第54章:天使再臨
【SIDE:宝仙星歌】
「……雪?こんな日に限って最悪だわ」
夜空から降り始めたのは真白い雪だった。
私は吐く息の白さ、冷えて行く身体に震えながら歩いていた。
どこを目指すのでもなく、ただ逃げ出していた。
大好きだったお兄様との関係は最悪の形で終わりを迎えた。
『――お兄様に私は必要ないんですよね。それならば、もう終わりにしましょう』
私はそう言って彼らの前から逃げたんだ。
行くあてもなく、走り続けて、ようやく冷静さを取り戻しつつある。
何であんな言葉を言ってしまったんだろう。
お兄様を傷つけるような真似をするつもりはなかった。
夢を否定するつもりもなかったのに。
だけど、私はホントにお兄様が音楽を始める嫌だったんだもの。
私から彼が離れていく事を恐れていた。
「ここは……どこ?」
辺りを見渡して自分がどこを歩いているのかを確認する。
そこはかつて私が初めてお兄様に告白をした公園だった。
『私もお兄様が好きです。……ずっと貴方を慕って、憧れてきたんです』
『何度でも言うよ。僕が好きなのは星歌だ。夢月は大事な妹だけど、それ以上の気持ちは持てない。異性として愛しているのは星歌、キミなんだよ』
お兄様は夢月ではなく私を選んでくれた。
恋人にしてもらえたのに、何で、私は……。
喧嘩だってした事もない、初めての喧嘩がこんな結末になるなんて。
私は誰もいない夜の公園に入る。
静まり返った公園内はどことなく不気味に思える。
「私は、私は全てを失ってしまった」
肌寒さに身体を震わせて私はベンチに座り込む。
雪の降る夜空、私はどうしてここにいる。
全てを失う、その結末を予想などしていない。
自分からお兄様を傷つけて、暴言を吐き、最低な我がままをぶつけてしまった。
「お兄様を束縛したかったわけじゃない。夢を捨てて欲しかったわけでもない」
それなのに、私とお兄様の考えは食い違い、いい争いになってしまった。
お兄様は悪くない、悪いのは私なんだ。
彼の行動を支持できなかったから。
音楽を再び始めようとする彼。
応援する事もできなくて、やめるようにお兄様の夢を否定する事しかできなかった。
『――優しいお兄ちゃんに甘え続けるのも大概にしておきなさいよ、星歌さん』
美羽さんの言う通りだ、私はずっと蒼空お兄様に甘え続けていた。
ひとりにしないで欲しかった。
私の家族は常に私だけを無視するように扱っている。
音楽のできない私はひとりだけ邪魔ものなのだ。
お兄様がいてくれたからこそ、私はその孤独を耐えてこれた。
私を必要としてくれる家族。
蒼空お兄様だけだったのに。
心の支えを失った私はこれからどうすればいい?
「お兄様に嫌われてしまった……」
そこにあったはずの幸せ。
手のひらからこぼれ落ちていく砂のようにその流れはもう止められない。
私を言葉にできない絶望感が包み込んでいく。
すれ違い、いえ、これは違う。
私は一方的に決めつけ、彼の考えを理解しようとしなかった。
拒絶するだけの子供の我が侭。
汚れなき白い雪が私の肩に、膝に降り積もる。
その寒さを忘れてしまうくらいに、心の冷たさが勝る。
「お兄様が音楽を続けたかった事は分かっていたはずなのに」
今でもオーケストラや音楽鑑賞を趣味としている。
音楽というものすべてを嫌い、流行りの音楽すら聞かない私とは違う。
お兄様は自分の道を見つけてしまったんだ。
彼の実父が指揮者である事は以前にお父さんから聞いたことはある。
それゆえにこうなる事は決められた運命だった。
音楽好きのお兄様と音楽嫌いの私。
一度音楽をやめた時、お兄様は私のために音楽をやめてくれた。
再び始めたいという、その想いを否定しちゃいけないんだ。
「……私なんかがお兄様の邪魔をしちゃいけなかった」
宝仙は音楽の一家だもの、お兄様には望む未来を進んでもらう。
私が邪魔なんてしてはいけないの。
「お兄様の事が大好きだからこそ、私達は……」
その次の言葉を告げられずに黙りこんでしまう。
私に捨てされるの?
長年に渡る自分の想いを捨てる事ができるの?
「――私達は別れなくちゃいけない」
どんな形でも確かな思いさえあれば付き合い続けていける。
お互いに愛があって信じる事ができるのならば。
ホントに、そう言えるの?
音楽家という職業の大変さを身を持って知る私に……。
『私には耐えられない。こんな想いをしたくて私は貴方と結婚したわけじゃないっ』
私が5歳だった時、私の実母は父にそう言い放った。
まだ話の内容をよく理解できなかった私はその会話だけは今でも覚えている。
言い争う両親、私達に優しくしてくれていた彼女の怒った顔は初めて見たから。
『……お前にはすまないと思う。だが、これが僕の仕事なんだ』
『仕事?仕事、仕事って音楽の事ばかりに目を向けて、私達にも少しは関心を持って。どうして、貴方は平気でいられるの?私は貴方に必要ない人間なのね』
『そういう言い方はやめてくれ。僕はお前たちを愛している。関心なんて言葉じゃない、当然のことだ。家族なんだから』
仕事を優先する、それは普通の家庭にでもあることだ。
自分達の生活のために、仕事はしなくてはいけないもの。
ただ、お父さんは音楽をただの仕事ではなく人生そのものとして歩んでいた。
『ろくに家にも帰らず、よく言えるわね。全部、音楽のため。それなら私のために何をしてくれているの?貴方は私を愛してくれているの?どうなのよ』
誰にもその情熱を止められず、母は寂しい毎日を過ごしていたのだろう。
今の私にはよくその気持ちが分かる。
家族の絆、そんな甘く綺麗な言葉は現実にはないのだ。
音楽に関係しないもの、彼らの心に私はいらない。
『私は普通の家族を望んでいた、これは違うわ。私には貴方についていけない』
実母はその半月後に父さんと離婚した。
あの時はどうして母は最後までお父さんを支えてあげられなかったの、と疑問に思っていたりしていた。
人間というのは当事者にならなければ、何も分からない。
今だからこそ、分かるんだ。
実母の叫びも、気持ちも、疎外感も……。
きっと彼女は今の私と同じ気持ちになったはずなんだ。
公園の街灯とわずかな光に照らされる私は静かに白い息を吐く。
「誰だって好きな人に必要とされたいじゃない」
音楽さえなければ、私とお兄様の関係は幸せのままでいられたの。
私の世界は色を失ったように暗くなり始めていた。
私は思い出していた。
この場所で告白していた時の気持ちを――。
蒼空お兄様に憧れ慕い、恋心を抱くようになった。
彼を愛しているだけで私は満たされていた。
それなのに今は想う事が辛い。
お兄様を愛すれば愛するほどに、私はとても辛くなってしまう。
「……涙も流れない、私はどこまで冷え切っているのかしら」
心の冷たさは私を凍らせていくだけなのか。
泣きたいのに泣けない、涙は私の頬を流れはしない。
その瞳に浮かぶものは何もないという現実。
「こんなはずじゃなかった……」
お兄様と恋人になり、私は確かな関係を手にしていたはず。
それなのにこうもあっさりと崩れてしまうなんて。
私が望んだ世界じゃない、こんな寂しいものは私は望んでいない。
「これも運命、受け入れることしかできない絶対的な宿命なのかもしれないわ」
その独白に私は自嘲する。
私には音楽の才能がなかった、ずっと私はその運命に翻弄され続けていた。
もしも、私も夢月のように才能さえあれば真正面から音楽に向き合うことができた。
そうすれば、きっとこの最悪の結末は回避できたかもしれない。
だけど、どんなに願っても、時間だけは戻すことなどできないの。
あの日、あの時、あの時間。
少しでも戻すことができたら変えられたかもしれない未来。
しかし、どんなに望んでも時計の針は戻らない。
失われたもの、やり直しがきかない一度きりの人生。
それが現実だと私は嫌というほど思い知らされていた。
だが、しかし――。
「うわっ、冷たいなぁ。おーい、そんな雪だるまみたいに積もらせてどうするつもり?」
私の頬にピタッと触れてくる手の温もりが私の身体を暖める。
「ほら、雪を払って。そんな寒そうな格好じゃ風邪ひいちゃうよ」
どうして、この声がこの場所に響くのだろう。
私は後ろを振り返る、そこで微笑むのは天使だった。
「ただいま、星歌お姉ちゃん。貴方の可愛い双子の妹の夢月だよっ」
――天使再臨、その天使は再び地上に舞い降りた。
変わらない無邪気な笑みをふりまく双子の妹、夢月。
その天使の登場は私を予想もしない事態へと誘うことになる。