第48章:いま、自分にできること
【SIDE:宝仙蒼空】
今日は梓美さんのコンクールがある日だ。
そして、彼女が我が家にいる最後の日でもある。
明日の朝の電車で彼女は実家に帰ってしまうからだ。
そう思うと寂しさもあるが、今は彼女の活躍を応援しよう。
「お兄様、今日は梓美さんのコンクールにいくんですか?」
星歌がそう尋ねてくるので、僕は頷きながら答える。
「あぁ、そうだよ。星歌も行くか?彼女の音楽は素晴らしいぞ」
「いえ、結構です。私には……彼女はあまりにも遠すぎる存在ですから」
最後の最後まで彼女達は仲良くという感じにはならなかった。
やはり、星歌に音楽という2文字は……。
今はダメでもいずれは好きになって欲しいと思ってはいる。
「それじゃ、今日は遅くなるかもしれないから食事は自分でとってくれ」
「はい、分かりました。いってらっしゃいませ、蒼空お兄様」
星歌に見送られて僕は外へと出る。
すでに梓美さんと美羽さんは会場へと一足先に行ってる。
僕は応援するのが目的なのでこの時間でも十分に間に合うんだ。
『今日のコンクール、蒼空さんを私の音楽で変えて見せます』
梓美さんは今朝、僕にそんな言葉を告げていた。
僕の中にくすぶり続ける音楽への気持ち。
彼女はそんな僕を変えてみせると言った、果たしてそんなことは可能なのだろうか。
自分の気持ちながらも、よく分からない。
「……彼女は面白い子だな、本当に」
なぜか期待してしまうのだ、梓美と言う少女の音色が僕にどう影響を与えるのか。
彼女は失意のどん底にいた夢月を救った過去がある。
そして、僕に対してもどう行動してくれるのか、それは楽しみでもある。
電車を乗り継ぎ、会場となるコンサートホールにやってくる。
今回のヴァイオリンのコンクールの規模としては大きい方だろう。
高校生レベルでは全国の優秀な人間が集まってくる。
だが、それでも、飛びぬけているのが梓美さんだ。
優勝候補として名のあがる人物のひとり。
他にライバル候補は何名かいるようだが、僕自身も彼女が優勝するだろうと予想する。
「……あっ、蒼空君も来たんだ」
ちょうど、待ち合わせをしていた入口前で美羽さんと合流した。
彼女はここに梓美さんを案内するために早めに来ていたんだ。
「梓美さんはもう会場入りしたんですか?」
「えぇ、そうよ。彼女の出番は午後だから、まだ先なんだけどね。何だか今日の彼女はすごくやる気に満ちていたわ。どうしたのかしら?」
「さぁ?でも、やる気なのはいいことでしょう」
どうやら、美羽さんには宣戦布告の話はしていない様子。
僕らは会場に入ろうとコンサートホールに入る。
いろんな人が行きかう中で慌てた様子の係員の姿を見つけた。
「で、ですが、今さらそんな事を言われて困ります。すぐに代理を見つけるのは……」
「しかし、だからと言って代わりを見つけなければどうにもなるまい。そうだな、僕の知り合いをあたってみよう。しかし、今すぐに来いというのは難しいか」
何やら困った様子、頭を抱える係員と話をしている男の人。
彼は僕の知り合いの人だったのだ。
「佐川さんじゃないですか?」
「ん、おぅ、蒼空君か。久しぶりだね、また背も伸びて大きくなったな」
彼は僕に気づくと笑いかけてくる。
この人は佐川政史(さがわ まさし)さんと言う。
日本屈指の有名指揮者のひとりで、僕の義理の父親である宝仙信彦の友人でもあり、幼い頃からお世話になっていた。
穏やかな性格ながらも、音楽を指導する立場になるととても厳しいらしい。
「やぁ、それに隣にいるのは美羽ちゃんじゃないか」
「どうも、佐川先生。ご無沙汰しています」
「佐川さんと美羽さんって知り合いなんですか?」
僕がふたりに尋ねると、彼は口髭を撫でながら、
「僕の大学の教え子なんだよ。今は大学の音楽学部の教授をしているんだ」
「うちの大学の教授で、私も顔見知りなの。で、先生、何かお困りの様子ですけど?」
なんていうか、音楽の世界って結構せまいのかも。
佐川さんは今の悩みを僕らに話してくれた。
「それが今日のコンクールの審査員に僕は選ばれてきたんだが、5名いる審査員のひとりが今朝方、盲腸で入院してしまってね。突然の事で代わりがいなくて困っているんだ。もうコンクールの開始まで時間もなくて、代理の人間を呼ぶには時間が短い。4名でするしかないかなと悩んでいたところさ」
こういうコンクールの審査って大変そうだ。
時計を見ると最初の子の演奏まで30分もない。
代理の人を探す時間は限られている。
「……佐川先生、私にある提案があるんですけれど、いいでしょうか?」
美羽さんは妙案を思いついたらしくて手を挙げた。
「提案?何だい、参考になるのなら聞こう」
「彼を審査員にして見ませんか?とても面白いことになると私は思いますよ」
そう言って僕の肩をポンっと叩く美羽さん。
僕は状況を把握できずに間の抜けた声を出す。
「……え?」
「そうか、蒼空君か。いいなぁ、それは。キミの音感は宝仙も認めていたし、僕自身もすごく興味を持つよ。どうだい、蒼空君?やってみないか?」
「あ、あの、冗談ですよね?」
さすがにそれはないだろう、係員のお姉さんもポカンっとしている。
僕だって突然の誘いに驚いているんだ。
「冗談ではないよ。美羽ちゃんと言う手もあるが、彼女の本職はフルートだ。ここはヴァイオリンの音色を良く知るキミに頼みたい」
僕はそれが冗談ではないと雰囲気で悟ると慌てて首を横に振った。
「む、無理ですよ。だって、僕は一般人ですし、何の実績も音楽に関わる事もしていない。それに、僕は誰かを正当に評価できる立場の人間ではありません」
「そうかな。僕はそうは思わない。キミの父親のこと、それだけでも評価はできると思うけどね。世界的指揮者、宝仙信彦の息子だろう」
まただ、周囲から勝手な期待ばかりされてしまう。
あの子は宝仙の息子だ、すごいに違いない。
そんな押し付けられた期待でどれだけの苦労をしてきたか。
「……無理です、父の名前だけで僕には何の実力もない」
「まぁ、宝仙の息子というだけで蒼空君を審査員に簡単には選べない。これが高校生コンクールとしてもただのお遊びじゃないんだから。彼らは真剣に練習して、真面目に取り組んできている子たちばかりだ。中途半端なことはできないよ」
「だったら、なぜ、僕を……」
分からない、僕には彼らの誘いの意味が分からない。
美羽さんは僕を落ち着かせるようにそっと手を握ってくる。
「落ち着きなさい、蒼空クン。貴方は知らないだろうけど、音楽業界では宝仙蒼空という名前は結構有名なのよ。宝仙信彦の息子、確かにそれもある。だけども、それ以上に幼い頃から貴方に期待する人間が多いのは事実よ」
「なぜ?僕が表舞台に立ったのは子供の頃だけだ。それ以外に……」
コンクールにだってピアノをやっていた頃にしか出ていない。
「宝仙先生がいつも言っていたわ。蒼空はこれからの日本を背負う指揮者のひとりになるだろうって。早くその才能に気づいて、自分でその道を歩んでほしい、と」
「父さんが僕を……?う、嘘でしょう?」
「ウソじゃない。蒼空クン、貴方はもっと自分の音感に自信をもっていいのよ」
美羽さんの言葉を疑うつもりはないが、それが真実とは思えなかった。
嘘だ、だって父さんは僕が音楽をやめる時には何も言わなかった。
子供の頃、それとなく指揮者の勉強はさせられたがすぐにやめてしまったし。
今もそうだ、時々、家に帰ってきても音楽を進めることなんてない。
「宝仙は自らキミが音楽の道に進むことを望んでいた。それはキミの亡き実の父の遺言でもあったからだよ」
「……僕の実父って一体何の話です?」
僕は自分の実父の話はよく知らない、母さんも話してくれないからだ。
「ふっ、詳しい話はこのコンクールが終わってからにしよう。今は蒼空君がどうするか、それが問題だ。せっかくのチャンスだ、やってみる気はないか?」
何も分からない、世界が僕の知らない所で動いていたなんて。
僕の名前が音楽業界で通っていた?
夢月なら分かるが僕だというのは間違いだろう。
有名な父の息子と言うだけではなく、僕にも何らかの期待がされていたというのか?
「いま、自分にできることをしなさい。蒼空クン」
「自分にできること……?」
「大丈夫よ、貴方ならちゃんと皆の審査を公平にできるわ」
何もかも、分からないことだらけだけど、今、佐川さん達が困っていて、僕に何かできるのならば協力すべきなんだろう。
それにコンクールの審査なんて大役、滅多にできることではない。
「分かりました。僕でよければお手伝いさせてください」
「よしっ、その言葉を待っていたよ。すぐに採点の仕方について説明する。そうだ、まずは主催者側に説明をしにいこう」
というわけで、僕はなぜかコンクールの審査員をすることになってしまった。
係員の女の人に連れられて、僕らは奥の部屋へと向かう。
「……さて、私は観客席から梓美の応援をするわ。蒼空クン、頑張って」
「美羽さんは僕について何か知っているんですか?」
「多少はね。だって、私は貴方のお母さんである桜さんに指導してもらっていたのよ。ある程度の事情は聞いてるわ。蒼空クン、頑張りなさい」
彼女はそっと僕の背中を押して励ましてくれる。
今は自分にできることを全力で向き合う。
それしか、僕にはできないのだから。
ただ、僕の世界が変わっていく、そんな1日になる予感が僕にはあった。
そして、ついにヴァイオリンコンクールが始まった――。