第47章:見上げる空が遠くても
【SIDE:宝仙蒼空】
梓美さんが僕と一緒に出かけた場所は水族館だった。
彼女が連れて行ってほしいと指示したのは静かな場所。
僕にはここぐらいしか思い当たらなくて、梓美さんもぴったりだと喜んでくれた。
子供の頃に何度かきた場所で、久しぶりのためかものすごくこういう場所は新鮮だ。
ガラスケースの向こう側、小さな魚の群れが泳いでいる。
「イワシってこんなにたくさんで群れをなして泳ぐんですね」
「大きな魚に狙われないため、小さな魚なりの工夫があるんだ」
「なるほど。それにしても、一体何匹程度いるんでしょう」
イワシの群れは少なくとも数百匹はいるように見える。
魚の習性を展示しているのだろうから、当然、数もいなくてはいけないだろうし。
「あっ、こちらの魚はものすごく長い魚です」
「深海魚のリュウグウノツカイってやつか?」
ホルマリン漬けされた魚が展示されているが数メートルとものすごく長い。
深海の魚って独特の形状をしている個性的なものが多い。
僕らは次に大きな水槽の展示を眺めることにした。
「こちらはサメですよ。大きなサメと……あれは?」
「コバンザメ。頭が吸着するようになっていて、他の大きな魚にくっついたりしているらしいよ。へぇ、実際に見るのは初めてだけど変わった形をしているな」
「私、実際のサメって見たの初めてです。やっぱり、怖い顔をしているんですね」
彼女は興味深そうにサメを見入る。
その姿は本当に普通の女の子だった。
天才と呼ばれる少女だが、普段は普通の子なんだろう。
「どうして、コンクールの間近にこんなところに来たいんだ?」
「だって、落ち着くじゃないですか。練習はしておくにこしたことはありませんけれど、それだけじゃコンクールでは実力が出し切れない場合もあります。大事なのは心を落ち着かせてリフレッシュした状態で演奏することなんですよ」
音楽は心の影響を受けやすい。
彼女の言うとおり、前日に心を穏やかに気持ちを入れ替えるのはいい方法だろう。
「だから、今日は一日、付き合ってもらえます?」
「そういうことなら協力するよ」
僕らはそのまま他の展示をしている水槽に向かうことにする。
梓美さんという女の子はとても不思議な魅力を持つ女の子だ。
可愛さだけじゃない、雰囲気がとても夢月に似ている。
傍にいる人を明るくさせる、そんな雰囲気が……。
「カニです。タカアシガニ……すごく長い脚を持っています」
目の前にいるのはとても長い脚が生えているカニだ。
「これって確か実際はカニじゃなくてヤドカリみたいな仲間だったはずだよ」
「そうなんですか?」
「うん。で、さらに言えばあまり美味しくはないらしい。これだけ身があればおいしそうに思うんだけどね」
前にテレビか何かで見た記憶がある。
深海育ちのタカアシガニ、身動きでない水槽の狭さは可哀想だな。
その横は南国の魚のコーナー。
黄色と黒の模様をした魚や赤や青など色彩豊かな魚が泳いでいる。
「綺麗な魚……南国育ちのお魚ってカラフルな魚が多いです。私、熱帯魚を飼ってるんですよ。グッピーなんですけど。こういう可愛らしい色の魚も飼いたいです」
こうして目で愛でる魚というのは見ているだけで心が癒される。
ふたりとも様々な魚たちを前に和んでいた。
「見てください。あの魚、ヒゲが生えている魚ですよ。名前は……見た目通り、オジサンっていう魚ですね」
オジサンという名前がつけられた魚。
……魚や動物の名前って時々、可哀想な名前のものがあるよな。
本人たちは自分たちがオジサンと呼ばれることをどう思うのか聞いてみたい。
「ふふっ、このヒゲは何のためのヒゲなんでしょう」
彼女が指差したのは顎の下に小さく生えたヒゲに見える触覚だ。
その触覚を伸ばして、砂の中を這うように歩く姿からオジサンという名前がつけられた。
「そのヒゲで砂の下にいるエサを探すんだよ。エビとか貝とかさ」
「蒼空さんって色んなことを知ってるんですね。物知りです」
……ごめん、ここに来る前に前日にちょっと調べておきました。
インターネットで個々の魚を調べておいたんだ、ずるしてます。
だって、女の子とのデートで恥ずかしくないようにするのは当然だろう。
「私も蒼空さんみたいなお兄さんが欲しかったです。きっと毎日が楽しいだろうなって思うんです。私、一人っ子ですから」
「兄妹とかに憧れるんだ?」
「はいっ。だって、夢月ちゃんもそうですけど、自分を理解してくれる人が傍にいるって安心できるじゃないですか。いいなぁ、夢月ちゃんは……こんなに優しくていいお兄さんがいて。本当に羨ましいですよ」
にっこりと微笑む梓美さん。
僕もこんな可愛い妹がいてくれるといいな、と思ったり。
いや、星歌と夢月がいるのでこれ以上の贅沢は言わないけどね。
水族館を堪能した彼女は満足したのかとても晴れやかな顔をしていた。
夕焼けに染まる街、最後は公園でのんびりと時間を過ごしていた。
「少し肌寒くなってきました。もう秋ですもの。少ししたら冬がやってきます。蒼空さんはどの季節が1番好きですか?」
「僕はどうだろう。やっぱり、夏かな。暑いのは大変だけど、海とか色んな楽しみがある季節じゃないか。梓美さんは?」
「私は今の季節、秋ですよ。食べ物が美味しいですし、私は紅葉って言うのも好きなんです。色鮮やかな葉が散るさまは幻想的で美しいです」
秋は個人的に微妙な季節なんだよな。
夏と冬の間っていうか、特徴という特徴がない季節というか。
でも、梓美さんみたいに好きな人は好きな季節なんだろう。
「……今日はありがとうございました。とても楽しむことができました。私、男の子とあまりこういうデートとかしたことなくて、緊張していたんですよ」
「そうなの?傍目にみたら全然そう見えなかったけど」
「ホントです。でも、あまりそれを表に出なかったのは蒼空さんだからだと思います。夢月ちゃんが前に言っていました。私の力の源はお兄ちゃんなんだって。その通りですね、蒼空さんには人に力を与えてくれる不思議な感じがします」
それは僕のセリフだと思うな。
梓美さんこそ、人を惹きつける特別な魅力に満ちている。
お互いに褒めあいながら、僕らは秋の夕焼け空を眺めていた。
「……あの、聞いてもいいでしょうか。どうして、音楽をやめられたんですか」
それはここ数日、彼女が美羽さんと話をしていた内容なんだろう。
以前から夢月にも聞いていたらしいが、実際に聞いてみたいと思ったらしい。
「どうして、か。僕は夢月ほど音楽の才能がなかったんだ」
「だけど、蒼空さんは音楽が大好きなんでしょう。美羽さんもそこが気になると言っていました。蒼空さん、失礼を承知で伺います。もしかして、音楽をやめたのは自分のためではなく、誰かのためなんじゃないですか?」
「……」
静かに僕らの間を吹き抜ける風。
どこか肌寒いその風に僕は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「その言い方、梓美さんには何か確証でもあるのかい」
「……蒼空さんには才能があります。音楽の捉え方、たった数日しか接していない私でも貴方の持つ音感には尊敬しました。私に的確なアドバイスをくれました。あれはただ、才能がないと言って音楽を諦めた人の持つものではありません」
ちょっとばかりアドバイスがうまかっただけで、そこまで買いかぶられるのも何だかな。
「僕自身は自分の音感は本職の人間には到底及ばないものだと思っている」
「……音楽をする側、ではそうなのかもしれません。けれども、貴方の音感は指揮者向けの音感だと私は感じますよ。お父様が優秀な指揮者ですもの、その影響を受けていてもおかしくはないです」
「ははっ。美羽さんと同じことを言う。僕は音楽が好きだ、それだけなんだよ……才能なんて特別なものはない。音楽をやめたのも、自分自身の才能に見切りをつけただけ。すべての期待を夢月に背負わせてしまったのは後悔をしているが、それだけだ」
僕らが音楽をやめて1番大変だったのは夢月だろう。
宝仙の人間だということで期待され、留学したりして大変な道を進んでいる。
彼女は望んでその道を進んでいるので、僕の後悔は意味がないのは分かってる。
けれども、思わずにいられないんだ。
僕にも音楽の力さえあれば、と。
「……星歌さん、彼女が音楽をやめた理由と関係があるんでしょう」
彼女は僕の心を見透かしたように落ち着いた声で告げる。
「それはどうかな?」
僕は動揺を抑えて、微笑を浮かべて答えた。
彼女は見た目はぽやっとした天然系だが、洞察眼はかなりものらしい。
「その表情だけでわかりました。貴方はとても優しい人間です。妹さんのことも、自分よりも大事に思っているんでしょう。でも、それは正しいとは言えません。私は貴方の才能を評価しています。蒼空さん、自分の夢を探してると言ってましたが、貴方はもうすでにその夢を持っているはずです。そして、それに気づいている」
「……音楽の道に進むことが、僕にとっての夢だと?」
彼女はその問に答えずに僕に言うんだ。
「蒼空さんはいつまで、自分に嘘をつき続けるんですか?自分の進みたい道を、自分の意思で踏み出してください。そうじゃないと、きっと後悔することになります。私は音楽を止められません。私にとって音楽は自分の一部だからです……蒼空さんも同じなんだと私は思います。貴方も捨てきれない想いがあるはずです」
なぜだろう、それまで抱えてきた気持ちが揺れ動く。
それを揺れ動かすのは間違いなく、梓美さんの強い音楽に対する態度だ。
僕の中にある音楽を好きだという気持ちが、彼女によって再び引き出されようとしているのか……だが、僕は……。
「明日のコンクール、楽しみにしていてください。私は貴方の中にある本音を引き出してみせる。夢月ちゃんもお兄さんの復活を望んでいるはずです、いえ、何よりも私が見てみたい。音楽に全力に向き合う貴方の姿を……」
彼女はそう告げると、僕の手を取って「帰りましょう」と言う。
その横顔はどこか挑発的で、僕に宣戦布告しているようにさえ見えたんだ。
村雲梓美、天才と呼ばれる音楽の才能の持ち主。
明日の演奏は僕にどのような影響を与えるというのだろうか……。