第43章:希望を奏でるメロディー《後編》
【SIDE:宝仙蒼空】
スーパーから帰ってきた僕達だけど、家の扉が既に開いているのに気づいた。
「ん、もう星歌は帰ってきているのか?」
遅くなると言ってたんだが、早めに終わったのかな?
玄関には靴があったので、帰ってきているようだ。
荷物を美羽さんに任せて彼女の部屋に行く事にする。
無事に生徒会長になれた事を祝おうとしていたんだ。
「星歌、おかえり。今日は生徒会長になれて……」
星歌の部屋を訪れた僕はいきなり有無を言わさずに部屋へと引きずり込まれる。
「え?あ、えっと、星歌?」
状況も分からずに目の前で僕を引っ張った星歌を見る。
雰囲気が何やらどよんで見えるのは気のせいではない?
「おかえりなさい、お兄様」
「はい、ただいま、です」
僕が何かをしたのだろうか、か・な・り、不機嫌のご様子です。
こちらを見る瞳が怖い、マジで怖い。
「何か僕がした?怒ってるよね?」
「……自分の胸に手を当ててよく考えてくれれば分かるはずです」
「心当たりは……ないな?」
そう、特に星歌を不機嫌にさせたことが思い浮かばない。
彼女はちょっぴり涙目で唇を尖らせると、
「へぇ、そうなんですか。お兄様にとって“あの程度”はたいしたことがないんですね」
「あの程度って何の話だ?」
「……今日、大学の校舎前で数人の女性に楽しそうに抱きつかれているお兄様を見かけました。あれはどういった状況でしょう?ぜひ、教えてもらいたいです」
低い星歌に声に僕はびびりながら、あの事を思い出した。
あれを見られていたとは、かなりマズイ。
「ち、違うんだ、あれには特別な事情があって……?」
「事情?綺麗な女の人達に抱きつかれる事情とは一体どのような事情なんでしょう?」
「……あれ、何だろう?どんな事情?」
自分でもよく分からないのです、お姉さん達にからかわれただけ?
そうだ、ここは別に何もなかった事を美羽さんに説明してもらえば……。
「楽しそうでしたが『何だろう?』とはどういう意味ですか?私をからかってるんですね?」
だが、そんな僕の考えよりも先に星歌は僕の頬に触れてくる。
「――こんな状況で冗談なんてお兄様、私だって怒りますよ?」
すでに怒ってるじゃないかと言いたいのは我慢です。
一瞬、叩かれたかと思ったじゃないか。
心臓が止まりそうなくらいにびっくりしました、怖いよ。
「本当に僕もよく分からないんだって。美羽さんの友達で、なぜかいきなり囲まれてしまって、あんな形に……全然、変な事なんてなかったから!」
彼女の冷たい手の温もりに背筋が寒くなる。
星歌の怒りは“静”と言える。
本当に怒ってる時は怒鳴りもしないし、感情的にもならない。
……ただ、本当に静かに怒りをこちらに見せ付けるから余計に怖い。
僕の頬からハッと手を離す星歌。
「今、本気で叩きそうになりました。私、こんなに胸が苦しくなって辛いのにお兄様はそれを全く気にもしていなかった事がショックです」
「ごめん。そんなに星歌が気にしているなんて思っていなくて」
「……蒼空お兄様。私、自分でも気づいていなかったんですけれど“独占欲”が強い方みたいですね。恋人になって、他の女性がお兄様に触れているのを見るだけで嫌な気持ちになるんです。ムカつくんです」
ムカつくって……あの星歌からそんな言葉が出るとはよほどご立腹のご様子。
彼女の気持ちは僕だって分かる。
誰だって恋人が他の異性と仲よさそうだと苛立つ。
「勝手に嫉妬して、不機嫌なだけです。別にお兄様の浮気を疑ってたりしてません。蒼空お兄様が私を好きなのはよく分かってるつもりです。女の方に自分から積極的にいちゃつくようなタイプではないですから」
あ、その辺は別に疑われていないんだ。
……男して悲しいやら、ホッとするやら。
「お兄様のバカ……」
今度は拗ねた口調で言うと、星歌はようやく怒りを収めてくれたようだ。
和らぐ雰囲気、いつもの可愛らしい彼女の顔に戻る。
とりあえず、詳細な事情を説明すると、星歌は納得してくれた。
「ごめんなさい、お兄様も困っていたんですね……」
意気消沈、すっかりしょげてしまう。
「いや、誤解を招くような事をした僕が悪かった。ごめんな、星歌」
「私の方こそ、一方的にお兄様を責めてしまいました。これからはそういう事、ないようにしますからお兄様もやめてください」
その辺、よく考えて行動するようにしよう、うん……。
さて、何とか星歌の機嫌も治り、生徒会長就任おめでとう、と少し豪華な夕食を終えた後、僕は元夢月の部屋である美羽さんの部屋を訪れていた。
「いやぁ、ごめんねぇ。星歌ちゃんが怒るなんて思わなくて。今度からは友達にも気をつけるように注意するから」
「お願いします。あれは僕としても大変なんで」
「あははっ。可愛いじゃないの、あれで嫉妬したりするのも。そう言うのも青春でしょ」
それでこれだけ関係がこじれるのは笑い事ではない。
できることなら怒る星歌は見たくない、精神的にも辛いし。
「それじゃ、気を取り直して私のフルートでも聴いてもらおうかな」
「期待していますよ、美羽さん」
美羽さんの音楽、母から指導されていた事もあるその音色に期待する。
星歌も誘ったのだが丁寧に断られてしまった。
……まぁ、無理はできないか。
どんなに心の整理ができていても、過去を振り切れていても、嫌なものはある。
音楽が星歌にとって嫌いなもののひとつになってしまっている現実は悲しいけどな。
「蒼空クンも昔は何か楽器を演奏していたの?夢月ちゃんは色々としていたって話を聞いてるんだ。フルートもそれなりに上手いんでしょう」
「えぇ、でも、1番気に入ってるのはヴァイオリンみたいです。フルートをしていたのは星歌なんですよ。……僕はピアノでした、全然ダメでしたけどね」
「……音楽なんて子供の頃にダメとか言うけどさ。そこで見切りつけちゃうのってもったいないよ。好きならちゃんと続けるべきだったの」
あのまま続けていたら、僕も夢月のように音楽を専門にしていただろうか。
どうだろうな、そんなにすごい才能もなかったし。
音楽は好きだが、もっぱら聞く専門だ。
「蒼空クンの音楽を感じるとる才能は今でも健在、いえ、かなりハイレベルだと夢月ちゃんを含めて、音楽関係者から聞いてる。その力があれば指揮者にだってなれるのに」
「指揮する人間の大変さも知っていますから。それより、聞かせてくださいよ」
その話をそこで止めて、僕は美羽さんに演奏を促す。
彼女は気になりつつも、フルートを手にしてゆっくりと音色を奏で始める。
――正直、僕は美羽さんの実力がこれほどまでとは思っていなかった。
綺麗なフルートの演奏、それは既にアマチュアではなくプロとしての音色だった。
母のフルートを幼い頃から聴かされて、音の良し悪しは他人よりもよく知っている。
彼女の音色は美しく、しっかりとした旋律を奏でていた。
フルートを吹く美羽さんはこれまでの印象を大きく変えた。
天才、その言葉はあまりにも抽象過ぎて僕は好きではないが、彼女は天才なんだろう。
……夢月と同じく、その音楽に選ばれた存在。
伸びやかで、かつ勢いのある音色に聞き惚れてしまう。
これが美羽さんの音楽、すごい……。
1曲、吹き終えた後の彼女に僕は感動を覚えていた。
「素晴らしい音色ですよ。美羽さんがこれほどすごいなんて……びっくりです」
「惚れなおしてくれた?蒼空クン、私はフルートを通じて音楽の楽しさを皆に知ってもらいたい。そういう想いで奏者になったの。キミも力はあるんだから、音楽を目指せばいいのに」
「……僕にはそのつもりはありませんから」
世間に認めてもらうだけの力があるとは思えない。
僕は天才ではない、凡人でしかないのだ。
「私はそう思わない。蒼空クンは努力次第で上にいけるはずよ。本当にすごい力を秘めている。この業界にて私も長いから才能のある、ないくらい分かる。私の音楽を聴いているときの蒼空クンは真剣だったもの」
何か僕から感じ取れるものがあったのだろうか。
美羽はしきりに、僕に音楽への復帰を勧めていた。
「蒼空クンは指揮者になれる素質があるわ。本格的に指揮者の勉強をしてみない?」
「……今はなりたいと思っていませんから」
「これはなりたいと思わなければどんなに才能があっても意味はない。だけど、蒼空クンは音楽が好きだからそう言う道を目指したくなるに違いないわ」
美羽さんが僕に音楽を勧めてくれるのは嬉しい。
だが、それでも僕にはその道を歩む気にはなれなかった。
「星歌ちゃんが気にかかるからダメなのかな?」
「分かりますか?」
「えぇ。星歌ちゃんは音楽が嫌いでしょう?その辺とか気にしているのかなって……」
星歌は僕が音楽を再び始めるとしたら何を思うだろうか。
その事は確かに気にかかることでもある。
「昔の彼女ならそれを否定するかもしれません。でも、今は大丈夫だと思いますよ。これは僕自身の問題なんです。親がすごいと色々とありますから」
何も音楽をしていない今でさえ、うちの両親の力は僕らにも及んでいる。
それはいい意味でも、悪い意味でも……。
「……事情が複雑なのは分かるわ。でもね、音楽の本当の楽しさを知ったら蒼空クンは自分からその道を進む。私にはその確信があるの」
美羽さんは微笑んでもう1度、フルートを吹き始める。
どこか懐かしささえ覚える旋律に僕は魅了されていた。
だが、この時から星歌と僕の仲を“音楽”という存在が引き裂こうとしていた。
僅かに入り始めた亀裂、やがてそれは……どんな結末を僕らに突きつけるのか。
そして、その事件はある1人の少女との出会いから始まろうとしていた。