第26章:天使の零した涙
【SIDE:宝仙蒼空】
「そこは違う、もっと音を響かせて」
父さんの声がコンサートホールに響く。
ここは来週、オーケストラが行われるコンサートホール。
父に「夢月の様子を見たいなら来ていいぞ」と誘われたので来たのだ。
オーケストラ、本格的に音楽をしているものにとっては憧れるもの。
そこに夢月が選ばれたのはかなり異例の事でもある。
それだけの実力があると認められたことでもあるが。
「……夢月も頑張るな」
真剣な様子で他の皆と一緒にオーケストラの演奏を練習している。
音楽に向き合う姿勢だけはいつも真面目なんだよ。
それゆえに、僕は無理をしていないか心配になる。
「キミは宝仙先生の息子さんだね?」
「……はい。宝仙蒼空です。えっと、貴方は?」
僕に声をかけてきたのは20歳前後の青年だった。
彼は舞台を見つめる僕に言う。
「僕は高町圭吾(たかまち けいご)。宝仙先生の弟子なんだ。彼の指揮はとても迫力があるだけじゃなく、聴いている人を魅入らせる力があるよね。娘である夢月さんも、あの歳であれだけの実力を持っているなんて素晴らしい事だよ」
「……僕はあまり音楽の事は分からないんですが、ふたりともすごいとは思います」
「両親は音楽家なのに蒼空君は何も音楽に関わっていないのかい?」
「えぇ、子供の頃に習ってはいましたけど、才能もなかったのでやめてしまいました」
こういう事を聞かれるのは慣れている。
まぁ、僕は星歌と違い、本当に初期の頃につまずいてダメになったから気にしていない。
高町さんは僕達の事をそれなりに知っているのか、
「確か、夢月さんのお姉さんも音楽をしていたよね?彼女もまだ音楽を……?」
「いえ。星歌も音楽はやめてしまいましたよ。今、うちの兄妹で音楽に携わっているのは夢月だけです」
「そう。環境はよくても、それだけで上手く進める世界ではないからね」
僕は高町さんの事を聞いてみる。
「高町さんは指揮者なんですか?」
「あぁ。とはいえ、まだ見習いみたいなものさ。今回のオーケストラで1曲だけ指揮させてもらえることになっている。それが正式デビューかな」
指揮者になるという事は大変な事だ。
海外の指揮者コンクールで優勝したりして、ようやく道も拓けて来る。
彼が父の弟子になったのは数年前、海外留学先で出会ったらしい。
「すごい日本人指揮者がいると聞いて、宝仙先生のオーケストラを聴きに言ったんだ。彼の指揮に惚れて、すぐに弟子入りを志願したよ。何度も頼み込んでようやく弟子にしてもらえた。彼から学ぶ事はとても貴重な経験になっているんだ」
夢のある人間は輝いて見える。
夢月もそうだ、これから先の将来を考えるなら海外留学すればいいのは当たり前。
「……夢月の事、聞いていますか?留学するかもと言う話を聞いたんですけれど」
「あぁ、夢月さんか。その話は僕も聞いているよ。確か以前にも1年間留学して、その教えを学んでいた先生の所へ再び行くつもりらしいね。僕もそうだったけれど、留学と言う経験は他の何よりも代えがたい経験だから」
高町さんは「でも」と言葉を濁す。
その先の言葉を知りたくて僕は尋ね返した。
「でも?何か気になる事でもあるんですか?」
「いや、彼女の気持ちの問題さ。この留学話は向こうの先生と宝仙先生の間で決められたことであって、彼女はまだ決断していない。住み慣れた日本から海外へと出て行く、これは僕の経験談でもあるけれど、並大抵の不安じゃないのも確かだよ」
「……不安か。それでアイツは悩んでいるのか」
最近の夢月の表情が冴えないのはやはり留学の事だろう。
このオーケストラが成功すれば夢月は秋にでも留学してしまう可能性がある。
「どうしても、留学しなきゃいけないんでしょうか?」
「……留学は夢の近道みたいなものさ。留学すれば確実に夢を達成できるわけじゃない。ただ、夢月さんには天才的な才能を持っている。それをさらに成長させる事が出来るのは間違いない。留学はしておく方がいいのは間違いないよ」
「あの子の才能は十分理解しているつもりです。留学の夢がある事も……」
「音楽の道を選ぶという事は他の何かを犠牲にすることでもある。どちらにしても、彼女自身が決めて欲しいものだ。しっかりとした意思がないとせっかくの留学も意味がないから。お兄さんとしても彼女の相談にのってあげたらどうだい?」
海外留学、言葉で言うほど簡単なものじゃない。
高町さんはふと時計を見つめると舞台にいる父に声をかけた。
「宝仙先生、そろそろ時間です。休憩されてはどうでしょう?」
「あ、うん。そうだな。高町、準備をしているな?みんな、しばらく休憩しよう」
父たちが控え室へと向かっていく。
高町さんも僕に「それでは、また」と会釈をひとつして、父の後ろを付いていく。
そして、夢月ひとりだけが僕の方へとやってくる。
「どう、お兄ちゃん?私の頑張り見てくれた?」
「意外に頑張ってるみたいだな」
「意外ってひどーいっ。私だってやる時はやるよぅ。あ、そういえば高町さんと話をしていたんだ?あの人、パパのお弟子さんなんだよ。とてもいい人なの」
「聞いたよ。夢に向かって頑張る、すごい事だと思う」
今の僕にはそれだけ何かに打ち込めるものはない。
「高町さんとは親しいのか?」
「うーん、親しいって言うか、私にとっては先輩かな?何年か前からお世話になってるの。ああ見えて、若手のホープって呼ばれるすごい人なんだから」
夢月は疲れた顔をしているので、僕はジュースを買ってくる事にした。
「休憩だろ、何のジュースがいい?」
「もちろん、オレンジジュースっ」
「……ホント、そればっかりだな。分かった、買ってくるよ」
コンサートホールを出て、自販機にジュースを買いに行く。
「あれ……?」
その帰り、僕の前に高町さんと話す父さんを見つけた。
廊下で意味深な顔をして話をしている。
「父さんと高町さん……何だろう?」
僕は気になり、壁に隠れてこっそりと立ち聞きする。
ふたりは何かを話をしている。
「高町、蒼空と話したのだろう?どうだ、何か感じ取れたか……?」
「妹さんを大事に思っている兄、と言う感じですね。いいお兄さんですよ。ただ、彼もまだ“彼女”の答えを聞いてはいないみたいです」
……彼女、それが夢月を指しているのだと雰囲気で理解した。
「夢月が留学で悩むとは思っても見なかった。喜んでくれると思って薦めた話なんだがな。まさか……“蒼空”のために残りたいと言い出すなんて」
「それだけ本気の気持ちが彼女にはあるんでしょう。義理とはいえ、親しき兄妹。そういう想いも芽生えても不思議ではありません」
衝撃的な言葉だった、親に僕達の関係が知られていたなんて。
そのまま、ふたりは会話を続ける。
「恋愛、か。避けられない運命だとしたら、星歌と蒼空、ふたりが結ばれる事を僕は望んでいる。夢月には恋より音楽を望んで欲しい。今、僕らの期待を背負ってくれるのは夢月だけだ。彼女だけが僕らの希望なんだ」
親の期待に応えきれない自分と星歌。
……ふたりは彼らにとって必要ではないと言われた気がした。
もちろん、そんなつもりは父さんにもないだろうけれど。
音楽をやめた……それは僕らの責任でもある。
そうして、音楽から解放された僕たちは夢月にすべてを背負わせてしまったから。
僕は振り返らずにジュースを持って戻る事にした。
「あ、おかえりなさい。お兄ちゃん」
夢月の無垢な表情、僕は彼女にジュースを渡す。
そして、僕はこう切り出した。
「……留学、どうするのか決めたのか?」
「ふみゃ?えっとぅ、それはね……うーん、何ていうのでしょう?」
明らかな誤魔化し方に僕はくすっと笑ってしまう。
夢月が悩んでいるのは知っている。
日本から離れる事に不安もあるだろう、しかし、彼女の将来にはプラスになるはずだ。
「夢月は音楽が好きか……?重荷になってはいないか?」
「音楽は大好き。私にはそれだけしかないもん。重荷っていうのは?」
「……僕も星歌も音楽をやめた。それは夢月ひとりに音楽を押し付けたんじゃないかって……親や周囲の期待、家柄とかそういうのすべてだ」
本来ならば僕たちにもその重荷は背負うべきものだった。
今は彼女だけがそれを背負い続けている。
「違うよ、蒼空お兄ちゃん。これは私が好きでしている事だもん。確かにパパやママからのプレッシャーは感じるけど、私は満足しているよ」
夢月はそうやって、何でもないと笑うからずるい。
本当に悩むや苦しみさも僕に見せないから。
「留学の事も私、実はもう決めてあるんだ。いろいろと悩んで自分で決めたの」
「どうするつもりなんだ……?」
留学するか否か、夢月の選択は……?
彼女は笑顔のままその言葉を呟く。
「私は留学しないよ。お兄ちゃん達と今、離れたくないから。だって、お姉ちゃんとお兄ちゃんをめぐるラブバトルの最中だもんっ。ここで逃げちゃ、お姉ちゃんの不戦勝。私が留学するのは勝負の結果が出てからだよ」
……父の言葉を思い出す、僕の存在が夢月の留学の妨げになっている、と。
それでも、僕は彼女に留学して欲しい気持ちとして欲しくない気持ちがある。
応援してあげたいのもあるけれど、離れてしまうのも寂しい。
「それが夢月の決めたことなら僕は何も言わない」
「うん。留学はチャンスだと思う。それでも、今したい事をしないで後悔するのは嫌なの。高校卒業からでも、またチャンスは巡ってくるよ……」
夢月なりに悩んだ結果ならば、僕が反対する理由はない。
「……だから、お兄ちゃん。私のこと、ちゃんと見て欲しいの」
夢月は観客席に座っていた僕の手を握ると、自分の頬へと触れさせた。
「私は蒼空お兄ちゃんが好き。お姉ちゃんには負けたくない……」
「夢月……」
薄っすらと瞳に涙を溜め込んでいたのだ。
夢月のそんな顔を僕は久しぶりに見た。
いつも底抜けに明るく人を和ませる妹、側面は精一杯、自分のできる事を頑張る女子高生……16歳の女の子なんだ。
星歌が悩みを持つように、夢月も彼女なりの悩みを持っている。
「私はお兄ちゃんから離れたくない。甘えていたいよ、ずっと……」
僕に寄り添う妹、肩に頭を乗せて身体を預けてくる。
夢月の髪が僕の耳に触り、くすぐったくなった。
「お兄ちゃん、キスしてもいい?」
「……ダメだ。兄と妹、簡単にキスはしません」
「何で?めっちゃ、いい雰囲気なのにーっ!」
「あのなぁ……そうそう、妹が兄に唇にキスして……んっ!?」
僕の説教を無視して、夢月は僕にキスをしてくる。
最近、妹にこうして不意をつかれる事が続いているのは気のせいだろうか。
なんていう事を感じながら僕はそっと間近な夢月の顔を見つめる。
「ふふっ、油断したね、お兄ちゃん……んぅっ」
唇を重ね合わせる僕ら、恋人ではない兄妹のキス……。
「――私の心配をしてくれてありがとう」
小さなお礼の言葉に閉じた瞳の端に零れる涙、それは微笑みの中で流す涙だった。
人間は笑顔でも涙が溢れる生き物らしい。
「……辛いなら無理はするな。何かあれば僕に相談すればいい」
「大丈夫、無理してないよ。蒼空お兄ちゃんが傍にいてくれるだけでいいの」
人生っていうのは幾つも可能性がある。
……ただ、その可能性の中で1番自分にとって悔いのない選択をする事が大変なのだ。
可能性、どんなに悩んでも選んだ結果が出るのは先の事だから。
後になって悔いる、後悔……それさえしなければきっと人生は楽しいんだろう。
「ほら、そんな顔をしたら皆が戸惑うだろう?」
そっと、涙をハンカチで拭いてやる。
夢月はその後に満面の笑みを見せるのだ。
「私、お兄ちゃんのためなら何だってするからね」
「……迷惑だけはかけないでくれ。それだけを切に願う」
「何よぅ、もうっ!すぐにそういう意地悪な事を言うし!可愛くないっ!」
「冗談だ。すぐにムキになるところはまだまだ子供だな」
拗ねる夢月に僕は安心感を抱いていた。
どんな可能性が僕らに待っていたとしても、きっと僕らは変わらずにいられるはずだ。
……だって、僕たちは大切な兄妹なのだから。




