第21章:ガラスの指輪《後編》
【SIDE:宝仙夢月】
誰にでも大切なものはある。
思い出、宝物……それは形を成すもの、成さない物にに関わらず。
その人にとって大切なものは、他の誰かにとっては大切ではない。
「……何よ、それ?そんな子供の玩具、大事そうにしてるの?」
私にとってそのガラスの指輪はただのガラスでしかなく、お姉ちゃんにとってそれはとても大事なものだった。
「なっ、ちょっとやめてよ!返して、それはお兄様からもらったモノよ」
お兄ちゃんからもらっていうのも、イラつくひとつの原因でもある。
お兄ちゃんが好きなのは私一人だけでいいのに……。
私にとって音楽はとても大切なもので、それを否定されたことが私を苛立たせた。
完全な八つ当たり、私は姉の大事なものを奪う。
「お姉ちゃんも双子なんだから同じ痛みを味わえばいいんだ。大事なものを壊される痛み。私の音楽が否定されたの。私と同じように……痛みを分かち合って」
自暴自棄、すべてが嫌になっていた。
怒り、悲しみ、ふたつが入り混じる感情……。
「やめてっ、お願いだからっ!その指輪だけはやめて!」
私は無慈悲にも手に持ったガラスの指輪を床へと落としてみせる。
……ガラスの割れる音、指輪の破片が床に散らばっていく。
「夢月っ!!」
――パチンっ。
姉は私を平手で叩いて、瞳に涙を溜め込んでいく。
彼女は私に理不尽を叫ぶ。
「どうして、こんなことをするのよ!」
「……どうしてだろうね。私にもわかんない」
私の反応にお姉ちゃんはもう何も言わない。
黙って、そのガラスの破片を集めようとする。
復元不可能、割れてしまったガラスの指輪。
私にとってそれをなくしても痛くない。
「……痛っ」
拾い集めていく中で指を切ったらしい。
指を怪我しても、それでも破片を集める事をやめない。
少し血の滲む指を見ると私の心に変化があった……。
「そこまでするほど大切なモノだったの?」
「……お兄様がくれたもの。大切な……指輪だったのに」
感情を抑えて話すお姉ちゃん、今にも泣きそうな声をしていた。
その瞳にはやり場のない怒りが秘められている。
「私にもあったの。大事にしてたもの。それが壊れちゃった」
「……だから、私の大切なものを壊したの?それに何の意味があるの?」
何の意味があるのと言われて私は返す言葉を探す。
「意味なんてないよ。私がしたかっただけ……」
もう1度、私はお姉ちゃんに叩かれた。
今度は声を荒げて私に言い放つ。
「夢月なんて嫌い……大嫌いっ!」
叫んだ声に反応するようにリビングに蒼空お兄ちゃんが入ってきた。
「何だ?お、おいっ。星歌、どうした?指を怪我してるんじゃないか」
お姉ちゃんの様子に気づいた彼が慌てて彼女に近づく。
お兄ちゃんが星歌お姉ちゃんの指に触れる。
「お兄様……すみません」
「え?あっ……これって、あの指輪?割れちゃったのか、ガラス製だったしな」
「ごめんなさい。せっかく買っていただいたのに……」
申し訳なさそうに謝るお姉ちゃんをお兄ちゃんが慰めてる。
見たくなかった、こんな私を見て欲しくなくて私は逃げるしか出来なかった。
あれから2週間が経って、私とお姉ちゃんは会話すらしないほど仲が悪くなっていた。
その頃になれば自分のした事の愚かさが分かっていた。
ただの八つ当たり、私が辛くてしょうがなかったから、やってしまった。
私のせいだ、それでも、素直に謝れない。
お姉ちゃんが大事にしてた指輪はどうしようもないし、私はあの日以来、ヴァイオリンを弾くこともできなくて嫌な時期が続いていた。
沈んだ気分で夏休みを過ごしていたある日、お兄ちゃんが私の部屋にやってきた。
「……話があるんだよ、夢月。いいかな?」
彼はそう言うと私に話をし始める。
星歌お姉ちゃんとの事を聞かれると思っていたらまずは違う話題だった。
「あの優勝から全然ヴァイオリンの練習してないそうだな。どうした?」
「練習する気になれないの。もうダメだって……私の音楽は完璧なはずなのに、梓美に負けた。どうしようもない、私の音楽が否定されたの」
私は愚痴を聞いてくれるお兄ちゃん。
「否定された?梓美っていうのはこの間の準優勝の子だよね」
「そうよ、お兄ちゃんも聞いたでしょ。あの子はすごい。私でも初めてすごいって思えた子なの。あの子の音楽に比べて私は中身がないの」
衝撃的だった、楽しくなんて子供のすることだって思ってた。
私がしなくちゃいけないのは完璧な演奏を完璧にこなすこと。
……技術だけでも、才能だけでもダメなんだ。
大切なのは自分に欠けている楽しむことだって。
「留学して、色んな人に会ったよ。向こうじゃ、私よりもレベルの高い子だっていた。……これじゃダメだって思って、練習もたくさんしていたのに。頑張って、そのレベルまで近づいて、完璧に演奏できるようになったよ」
「その代わり、夢月は大事な事を見失っていたんだ。初めてヴァイオリンを弾けた日の事を覚えているかい?僕は夢月が笑って弾いてるのを印象的に覚えている」
いつしか私にとっての音楽は宝仙夢月という人間の全てになっていた。
だから、否定された時に悲しくなったの。
焦りがあって、周囲の期待に応えるのが精一杯だった。
あの頃の気持ちを私はどこで忘れてしまったんだろう。
「夢月は梓美さんの音楽を聴いて、自分の音楽との違いに気づいた。それはなぜか分かるか?初めから夢月にもその音楽があったんだよ」
お兄ちゃんがぎゅって手を握り締めてくれる。
それだけで私は今までの苦しみや不安が消えていく。
「私にも……梓美みたいに皆が笑ってくれる、楽しんでくれる音楽ができるかな?」
「当たり前じゃないか。昔から夢月は楽しませてくれたよ。僕を、星歌を、皆を楽しませてきてくれたじゃないか。それさえ、思い出せば夢月にもできる」
私はその時から心に決めたの……。
楽しんで演奏をしようって、結果だけが全てじゃないんだって。
必要のないプライドを捨てた私はようやく重圧から解放されたの。
私らしい音楽を奏でられるようになった。
ちなみに梓美とはその後、何度も別のコンクールで会って、仲良くなった。
私の憧れ、ライバルでもある彼女は今じゃ大の親友なんだ。
彼女に出会ったおかげで私は楽しんで演奏をするようになれたの。
とはいえ、私は自信を取り戻したのはいいけれど、もうひとつ大きな問題がある。
「どうしよう。……お姉ちゃんの大事なモノを壊しちゃったの」
「あの指輪はこの前、一緒に出かけた時に買ってあげたんだよ。あれ以来、ふたりの仲が悪くなってしまった。悪い事をしたらちゃんと謝らないといけない。それは夢月にも分かっているはずだ」
「……うん。私が悪いんだから謝るよ。許してくれるかどうかは分からないけど」
星歌お姉ちゃんは許してくれるかどうかなんてホントに分からない。
何も悪くないのにひどい事をしちゃったんだから……。
お兄ちゃんは私とお姉ちゃんを対面させるセッティングを取ってくれた。
私が彼女の部屋にお兄ちゃんと一緒に入ると、入った瞬間に睨みつけられた。
うぅ、気まずい……ていうか怖いよぅ。
「あ、あの、お姉ちゃん……」
「さっさと出て行って。貴方の顔なんて見たくない」
お姉ちゃんは言語道断とばかりに言い切る。
怒ってる、当たり前だよ……私はそれだけのひどいことをしてしまったの。
「星歌。夢月が話があると言ってる。聞いてあげるぐらいは……」
「お兄様は夢月の味方をするんですか?この子がどれだけひどい事をしたのかと知っていますか?私は許せないです」
「……知ってるよ。それがどれだけ星歌を傷つけた事だって」
「それなら、どうして?お兄様はこんな妹の味方をするんですか!」
こんな妹、その言葉がグサリと胸に突き刺さる。
私は震えていく、自分のした行動の重さを痛感する。
「どうして、か。それは僕がふたりの兄だからだ。どんなにひどい事をしても、ふたりがいがみ合う関係にはなって欲しくない。……仲直りして欲しいんだよ」
「お兄様……気持ちは理解してます。それでも、私は夢月を許せないんです」
お兄ちゃんにそう言ってすがりつくお姉ちゃん。
私は勇気を持って、お姉ちゃんに頭を下げた。
「ごめんなさい……お姉ちゃん、ごめんなさい」
「謝ればすべて済むと思うの?ふざけないで」
「ごめん、私が悪かったの。お姉ちゃんに八つ当たりして……」
「うるさいっ。貴方なんか……えっ?」
お姉ちゃんの叫びをお兄ちゃんが抱きしめて止めた。
「邪魔して悪い。それでも、僕は星歌のそんな姿を見たくないんだ」
「……お兄様」
私の目の前で優しくお姉ちゃんを彼は抱きしめている。
それは私にとって、最大級の罰だった。
大好きなお兄ちゃんが私以外の相手にそんな事をするなんて。
私は心の痛みを我慢するの、私がしたことのこれが罰だから。
「星歌、夢月を許してあげてくれ」
「……もうあんな事をしないと私に誓えるのなら」
「絶対にしない。しないから……ごめんね?ホントにごめんなさい」
お兄ちゃんの機転もあって私はお姉ちゃんに許してもらえたの。
だけど、姉妹としての仲は表面上は仲直りしたけど、溝は残ったままだった。
「代わりにはならないかもしれないけれど、ふたりにプレゼントがあるんだ」
「……これは?」
「ガラスだとまた割れたら危ないし、これなら割れることがないだろ」
お兄ちゃんが私たちに用意してくれたのは色違いの指輪だった。
お姉ちゃんにはゴールドの色、私にはシルバーの色をしていた。
「あまり値段は高くないんだけどね」
「値段なんて関係ないです。お兄様、ありがとうございます……」
嬉しそうに笑顔を見せるお姉ちゃん、すっかりと機嫌も治ったみたい。
それぞれの指にお兄ちゃんはつけてくれた。
けれど、そこで私は……最後の罰を受けるの。
「ほら、夢月。ああいう事はもうするなよ、僕とも約束だ」
「うん。お兄ちゃん、ホントにごめんなさい」
中指にはめてくれた綺麗な指輪を私は眺めていた。
同じようにお姉ちゃんにも指輪をはめるお兄ちゃん。
でも、その指は……左手の薬指だったの。
「星歌も今回の事は辛かっただろう。これなら割れる心配はないよ」
「あっ……お兄様。本当に嬉しいです」
お姉ちゃんは私のはめた指と違うのに気づいた。
それがどういう意味があるのか、誰だって知ってる。
私とは違う、お兄ちゃんは無意識ながらお姉ちゃんの事が好きなんだって思った。
こんな風に区別されるなんて……想いを強く持つことでその痛みにも耐える。
悔しさはあっても、今回の事は私が悪いから何も言えない。
その指輪は私にとって、お兄ちゃんの想いを知った思い出でもあるんだ。
指輪を見つめて過去を思い出していた私は再び部屋の整理を始めた。
過去は過去、今は違うの……私は変えて見せるよ、お兄ちゃん。
「……お兄ちゃんが好きになるのは私なんだから」
子供だったんだよね、あの頃は……。
控えめなノックと共にお姉ちゃんが部屋に入ってくる。
「夢月、部屋の整理はどう?あら、少しは片付いてるじゃない」
「当たり前だよぅ。私だってやれば出来る子なんだ」
あの日から比べて私達は仲良くなれたと思う。
お兄ちゃんが私達の絆を繋げてくれたんだ。
「……星歌お姉ちゃん」
私はぴたっとお姉ちゃんにくっつく。
お姉ちゃんは驚きながら嫌そうに身体を離そうとする。
「な、何なの?暑苦しいからくっつかないでよ」
妹として私はお姉ちゃんを傷つけた過去があるの。
それでも、今、私は彼女を独りの姉として認めている……。
「ふぇーん。甘える妹に対してひどい言い方だぁ」
「こんな暑い時に甘えられても。それより、お兄様がケーキを食べないかって」
「ケーキ?もちろん、食べるよ。ほら、早く行こうよ」
私はお姉ちゃんに手を差し出した。
彼女は「ホント、呆れるくらい素直なんだから」と苦笑しながらその手を握ってくれる。
「……お姉ちゃん、あの時はごめんね?」
「あの時?夢月にはいつも困らされてるから思い浮かばないわ」
「あぅ……善処します」
姉妹で握りしめあう手……私はこの関係を大事にしていきたいと思うよ。
だって、どんなにライバルでも、世界でたった二人の姉妹だもん。
私達はいつまでも仲の良い姉妹でいたいな。
……ねぇ、お姉ちゃんもそう思わない?