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忘れ病

作者: 小雨川蛙
掲載日:2026/06/26

 

 数年前、崖の上に引っ越してきた少女がいる。

 とても穏やかでいつも笑顔を絶やさずに、道行く人に手を振って挨拶をする。


 言葉はない。

 手を振って、笑顔を向けるだけ。


 幸せに彼女は生きている。

 誰もがそう思うし、誰にもそう見える。


 それで良いのだと私は感じている。



 *



 彼女が数年前に忘れ病という難病になったのを知る人は少ない。


 残酷な病だ。

 人が人であることを奪う病だ。


「記憶が失せていく」

「何も分からなくなる」

「やがて、言葉さえも忘れる」


 症状を聞いた彼女は直ちに医師である私に願った。


「自分である内に殺してほしい」


 それが出来ないと知ると彼女は親に頼んで崖の上に引っ越した。


「殺人も自殺も許されないけれど、事故ならば」


 そう言って、彼女は託したのだ。

 忘れ病で失われた自分がやがて足を踏み外すのを。


 散歩を日課とした。

 日々は静かに過ぎた。

 彼女は少しずつ自分を失った。


 柵が出来た。

 崖の上は危ないからと地元の住民からの働きで。

 長年の意見がようやく叶った形だ。


 幸いなことに。

 柵が出来た頃には彼女はもう、その理不尽さを感じることが出来ないほどに自分を忘れていた。



 *



 今日も柵で覆われた崖の上、少女は幸せそうに世界を眺めている。

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