第四話
―――オレが三歳になった頃。
「ミーナ。フィル様は、また……」
エイダはそこで言葉を切った。
そして、中庭の方へ視線を向ける。
「はぁ……またですか」
「はい……またです」
侍女のミーナは、シーツを整えながら困ったように笑った。
「屋敷の外には出ないという約束で、庭での自由行動を許したのですが……こうも毎日、走り回られると流石に心配になりますね」
「でも、いいじゃないですか。あんなにお元気なのですから」
「ありすぎるのが困るんですよ。聞き分けもよく、手のかからない賢いお子様ですが、万が一お怪我でもされたら、責任を問われるのは私たちです……それに」
エイダが声を潜め、不安げに眉をひそめた。
「最近、フィル様の『歩き方』……いえ、走り方がおかしい時があるのです」
「おかしい、とは?」
「腕を一切振らず、滑るように……まるで、糸で操られた人形のような、見たこともない奇妙な動きをされていることがあって……あれは、何かの病の前触れではないでしょうか? はぁ……」
エイダは、不安からため息を吐く。
「きっと、ただの遊びですよ……そういえばエイダさん、フィル様も三歳になりますし、そろそろ新しい教育係の方がいらっしゃるのでしょう? そうなれば、その人がしっかり見守ってくれますよ。私たちの心配の種も消えます。きっと」
「……そうなればいいのですけれどね」
エイダは一抹の不安を抱えた。
その後、窓の外で奇妙なリズムで庭を横切る小さな影を見送り、仕事に戻った。
―――
「はっはっ。ふっふっ」
オレはリズミカルに呼吸をしながら、走っている。
当然、体を作るためだ。
二才の頃にあの本を読んだ後。
エイダさんに一人で外を走ってもいいかを相談をした。
当然、いい顔はしない。
まぁ、そうだよね。
普通に考えると、二才の子供を一人ほうって置けるわけがない。
しかも、何かあれば責任も追求されかねない。
それに、二才では体が安定していない。
そいった理由で却下された。
まいったなぁ。
これじゃあ、オレの肉体改造計画が流れてしまう。
そこで、条件を付けて交渉してみた。
エイダさんたちが目の付く、庭先でやること。
一時間くらいで戻ること。
危険なことはしない。
何度も交渉を重ねて(ただをこねて)なんとか許可(諦めて)された。
それで今に至っている。
ごめんなさい、エイダさん。
そして、許可してくれてありがとう。
と、心の中で感謝した。
そして早速やってみたのだが……
さすがに始めはきつかった。
走り出しても、すぐに疲れる。
次の日は筋肉痛に襲われる。
疲れすぎて、『やめよう……』。
と、弱音がでてきた。
だが、自分で決めたことだ。
前世と同じことはしたくない。
そう思い、続けることにした。
すると、一か月くらいから楽になり、大分慣れ始めてきた。
「よしよし、いい感じになってきた。諦め癖のあるオレにしては続いているな」
………今回は前世とは違う。
同じ繰り返しはしたくない。
そう決めている。
さて、そろそろ次に移ろうかな。
オレには少し試したいことがあった。
前の世界では、試したくても、恥ずかしくて出来なかった。
何かの動画で見て聞いたことのある走り方。
変態江戸時代の飛脚が使っていたという――
―――『ナンバ走りだ』。
なんでも、江戸から大阪まで一週間くらいで踏破したという。
五百キロを一週間……
一日七十キロを走らなければいけない計算だ。
しかも、多少の整備はされているとはいえ、土の道。
それに、整備のされていないであろう山河の悪路。
あの頃、大きな川には橋を掛けていなかったらしい。
掛けれないのではなく、ワザと掛けなかったいう。
それは、その川自体を敵の防波堤として使うためだと言われている。
だから、その川が増水すると渡れなくなるとかもあったらしい。
そんな事もありながら一週間……
これを変態と言わずしてなんというのだろうか?
それを可能にした要因の一つが『ナンバ走り』だったらしい。
体を捻らない特異な動き。
腕を振らない。
腰を捻らない。
手と足を同時に出す。
そういった事で、体に余計な負担を掛けない。
力の全てを、前に押し出している。
理屈の上ではそうなるらしい。
だが、そんなことを知らない江戸時代の人たちはそこに至っていた。
そんなところも変態だと思えた。
「よし、やってみるか。すぅ~はぁぁぁ」
オレは息と整え、意識を集中させた。
―――そして、三才になった頃には『ナンバ走り』も慣れてきた。
はじめこそ、
「よし。右、右。左、左……」
不恰好な操り人形のような動きになった。
ほかの人にはさぞかし不気味に見えたことだろう。
だが、今となってはほぼモノになりかかっている。
それに、普通に走るよりも楽になっている……
と、思える。
比較が出来ないために、正直分からない。
けど、随分と楽に走れている感覚は確かにある。
これは、このまま続けていこう。
そう、思えた。
§§§
―――ここは、ランカスター地方。
城塞都市『セクト・アーデ』。
ブッシュボーン家が治める領地だ。
小高い丘の上に一族の屋敷がそびえ立つ。
その眼下には、広大な城塞都市が広がっていた。
元々は、ただの険しい山だったという。
先祖たちが森を焼き、山頂を削った。
岩を砕き、整地し、巨大な要塞城を築き上げた。
それが、この街の始まりだ。
見上げれば高い外壁。
それが街全体を囲っている。
その中で数多の民がこの中で息づいていた。
街は常に、圧倒的な喧騒に包まれていた。
多種多様な人種。
ひしめき合う屋台。
飛び交う怒号のような客引きの声。
「焼きたての串焼きだよ! 魔獣の肉は精がつくよ!」
香ばしい煙を上げる肉屋の角。
「奥さん、この魔石、帝都の半額だよ。今が買いだ!」
怪しげな掘り出し物を並べる広場の露店。
そんな賑わいの中。
一際、どす黒い熱気を放つ建物があった。
ひび割れた石壁に掲げられた、毒々しい原色の看板。
重い鉄扉の隙間からは、酒の腐ったような匂い。
そこに獣の咆哮が加わっていた。
だが、それらすらもすべて塗りつぶすほどの凄まじい「人間の叫び」が漏れ出している。
――賭博場『大紅蓮の檻』。
その昔、大陸最強の闘士たちが集う戦場があった。
その中に常に中立を保ち、勝敗の行方を冷徹に見届ける「審判」が存在した。
彼らは私情を一切挟まず、ただ事実のみを宣告する。
そのあまりの厳格さ。
敗者に死をも厭わぬ絶望を与える姿。
そこから、彼らは『大紅蓮』と呼ばれた。
時は流れ、かつての名はいつしか公正な真剣勝負の場。
その名を示す象徴へと昇華されていく。
そして時は流れ、現在。
公平さは、皮肉にも欲望渦巻く各地の賭博場が掲げる看板。
その代名詞へと堕ちていったのだった――
そんな檻に一歩、足を踏み入れる。
そこは、肺が焼けるような熱気があった。
男たちの脂汗が蒸発した不快な湿気に満ちた世界。
血走る眼球が観客席を埋め尽くす。
彼らの手の中では、汗でふやけた賭け札が。
それは、まるで最後の手綱のように握りしめられている。
カード、ルーレット、ダイス。果ては牌を弄ぶゲーム……
そして、生身の剣闘士による殺し合いまで。
ここ『大紅蓮』に欲望と絶望が揃っている。
なかでも群衆が最も狂喜し、最も絶望するのが目玉種目――
それが、魔物同士を喰らわせる『闘魔』だった。
そして――そこは、今まさにこの世の欲望の渦が展開されていた。
「殺せ! 殺せッ! 腹を裂けぇぇ!!」
「リザードマン! 立て! 立てよオイ! 俺の人生がかかってんだよッ!!」
魔法障壁で仕切られたリング内。
体長四メートル、鋼のような鱗を持つ『鉄甲リザードマン』。
それが深手を負いながら膝をついていた。
対するは、小柄だが毒を塗った短剣を振るう『変異ゴブリン』。
本来、勝負は明白だった。
リザードマンの強烈な一撃。
それが当たれば、ゴブリンなど肉塊に変わるはずだったのだ。
だが――
「……ぎっ……ギギッ!」
ゴブリンが放った、卑劣な目潰し。
視界を奪われた巨躯が、無様に石畳の上で「つるり」と滑った。
その刹那、闘技場を支配した。
時が止まったような静寂。
そして次の瞬間。
ゴブリンの短剣がリザードマンの喉笛を深々と貫いた。
「……ガハッ…………」
断末魔の代わりに、鮮血がアリーナの砂を黒く染める。
審判の鐘が鳴り響くと同時に、檻の中は文字通り「爆発」した。
「ざっけんなぁぁぁ!! 八百長だ! 金を返せッ!!」
「ああ……ああああ……ボクの、ボクの家が……」
「ひゃはははは! 逆張り大勝利! 今夜は高級店で酒盛りだぁ!!」
狂喜、怒号、絶望。
むせ返るような汗。
蒸発する魔獣の体液の匂い。
この世のあらゆる醜悪な欲望を煮詰めたような空間。
そこから這い出すようにして、一人の女性が表へと吐き出された。
勢いよく扉が開く。
中から、濁った酒の匂いと熱気が溢れ出した。
そこから、ふらつく足取りで一人の女性が現れる。
知的な眼鏡は斜めにズレていた。
整っていたはずの服も、どこか着崩れている。
手にした財布は、あまりに、あまりに軽い。
「……ありえない。あそこでリザードマンが転ぶなんて……オケラよ。完全なオケラだわ……」
そこに、肩を落とし、項垂れながら歩く一人の少女? がいた。
見た目は、まだ十代の少女のような風貌。
背も低く、百五十センチあるかどうか。
少し癖っ毛の淡く若草を透かしたような。
それていて、透明感のある薄い緑の髪が揺れている。
手には、先端に「蕾」のような宝珠を誂えた杖。
かなり使い込まれているのか、年季の入った色合いだ。
頭には、黒というよりは深い紺色の三角帽子。
そこには、小さな星がまばらに散りばめられている。
身に纏うのは、白いローブとスカート。
その衣服の縁には、丁寧な金の縁取りがあった。
その胸には、赤く神秘的な宝石のようなものがある。
一瞬見ただけでは、ブローチのように見える。
だが、それは体内に埋まっていた。
足元は、革製のしっかりとした黒いショートブーツ。
一瞬見ただけなら、一端の立派な魔導師の装いだ。
そんな少女のような女性がふらふらとおぼつかない足取りで歩いていた。
どうして、こうなったの……?
途中までは良かったのよ……
「あー、もう! どうすればいいのよ、この借金!! こんなことなら『闘魔』になんて手を出すんじゃなかった!」
まさか、リザードマンがゴブリンに負けるとは思わなかったじゃないのっ!
ああ……もうっ!
……こうなったら、最後の手段!
『冒活』に手を出すしかないの……?
彼女の脳裏に、酒臭い冒険者たちが、
「ねぇちゃん、俺のパーティに入らないか?」
と下卑た笑いで誘ってくる姿が浮かぶ。
「いやいや、無理! あんなしみったれた連中の相手なんて、死んでもごめんだわ!」
でも、もしSランク冒険者なら……
……うん。
それならワンチャン……って、何考えてるのよ、私!!
誇り高き私がそんなことできるわけないでしょ!!
エニィは自分の頬をパチンと叩いて正気に戻る。
しかし、すぐにまた別の打算が頭をもたげる
「そうよ、相手が冒険者だからだめなのよ。商人なら……」
……いや、それこそダメだわ。
あいつら、甘い口車で契約書にサインさせられて。
気づいたら『華市場』に直行コースじゃない!!
私、そこまで落ちぶれたくないわよ!!
「はぁぁぁ……」
絶望のどん底で、エニィの前に一枚の求人票が舞い降りる。
「なにこれ……?」
――ブッシュボーン家、三歳児の家庭教師募集――
「…………っ!! これだわ!!」
『冒活』なんて胡散臭い立ち回りより!
由緒正しい名門貴族の『育成』よ!!
この三歳児を私の理想に育て上げれば……
「くふふ……これよ。これだわっ!」
見た目に反して腹黒い少女の瞳に、不吉な紅い輝きが宿っていた。




