第41話 鹿のモンスター
夕方。
志乃と別れた祈は、実家の大事な会合があるため、白守家本家へとやってきていた。
白守家の本邸は、島の中でも一際大きな屋敷だった。
その家は古い木造建築で、手入れの行き届いた庭には松の木が立ち並び、石灯籠が並んでいる。まさに、島の神社を管理する一族に相応しい、格式ある佇まいだ。
そして、祈は、その屋敷の広間に座っていた。
彼女は正座。正直に言えば、窮屈だった。ただ、それを顔に出すことはしない。
また、隣には従姉妹の美奈が座っており、向かいには当主であり、美奈の父親でもある伯父、白守当一が座っている。
広間には、白守一族の主だった面々が集まっていた。当一の妻であり、美奈の母親である明子。その他に親戚の男女数人。それから、島の有力者と思しき老人たちも数名が顔を揃えている。
「祈、怒った顔してたら、空気悪くなっちゃうよ」
隣に座っている美奈が、小声で囁いた。
「……怒ってない」
そう祈は、短く答えた。
美奈は、ため息をついた。こんな無愛想な従姉妹を持ったことを、彼女は何度後悔したか分からない。
(無愛想なくせに、顔だけはいいからチヤホヤされてる女。こんなのが高貴くん、良いんだから……でもまぁいいか)
しかも、美奈が憧れる高貴は祈ばかり見ている。幼馴染であり、一緒に夜に怪異と戦うメンバーの美奈。
ただ、彼女は祈が心配だから、一緒にいるわけではない。その理由は、祈を気にかける高貴に好意を持っているだけだった。
だから、自分が好きな相手が、嫌いな相手に好意を持っている。それがどうしようもなく嫌い、嫌いで、嫌いで仕方ない。
それは単なる悪感情とは言えないほどに、憎悪とも言える感情に育っていたのかもしれない。
(──だって祈はもうすぐ……)
冷たい目線、いや、そもそも温度がないような瞳だった。そんな瞳に祈は気づくことはなかった。
(本当に理解ができない。なんで、こんなに何もしなくてもみんな振り向くんだろう)
再び、美奈は、祈を横目に見た。白い髪、黄金の瞳、整いすぎた顔。ただ座っているだけで、広間の視線が集まる。
(……顔がいいだけね。祈の母親も顔がよかったらしいけど。お母さんが言ってたなぁ、本当にあの女に似て、大嫌いだって。まぁ、死んでせいせいしたらしいけど)
そんな美奈の内心など知らず、当主であり彼女の父親である、当一が口を開いた。
「では、本日も無事に皆が集まれたことを喜ばしく思う。まず、島の祭典について——」
定例の会合が始まった。
祈は、話を聞きながら、周囲を観察していた。
島守様への奉納、来月の祭典の段取り、神社の修繕費用。毎回同じような話が続く。嫌いな場だが、白守の一族として出席しないわけにはいかなかった。
そして、会合が一段落したころ。
──広間の入り口が、静かに開いた。
そこに立っていたのは、異様な男だった。
黒いスーツ。両手には黒い手袋。そして、頭部には大量の包帯が巻かれており、辛うじて目だけがわずかに覗いている。
包帯の隙間から見える瞳は、暗く、深く、まるで底のない井戸のようだった。
男は、ゆっくりと広間へと入ってきた。
その瞬間、場の空気が変わった。
(……なんだ、あの人)
祈は、男を見つめた。
不思議なことに、当一をはじめとする一族の重役たちが、さっと居住まいを正した。あの当一が、である。普段は傲慢ともとれる態度を崩さない男が、まるで目上の者を迎えるように、表情を改めている。
「これはこれは、白守縁様。ようこそお越しくださいました」
当一が深く頭を下げた。
白守縁。
その名前を祈は初めて聞いた。
縁は広間を見渡した。そして、その視線が、祈のところで止まった。
「……ああ」
縁は、包帯に包まれた顔のまま、静かに言った。
「おや……大きくなったね。祈」
「……え、知ってるんですか、わたしを」
急に話しかけられた祈は、反射的に答えた。ただ、彼女は不可思議な感覚を覚える。
(この人、どっかで会ったことがある?)
しかし、そんな疑問に答えなどなく。ただ、不思議な感覚に支配されるだけだった。
そして、彼女は同時に不快な感情も湧いていた。
(それに、この人、なんだ、すごく嫌な感じがするな)
だが、いきなり敵対行動をするわけにもいかない。一族の大事な会合、そこにやってきた白守縁はかなり重要な人物であることも容易に、彼女は想像がついた。
だから、何もできずに目線を合わせるだけとなる。
「知っているとも。有紗さんによく似た」
そう語る白守縁。彼の口から出た有紗という名前。それは、祈の母親の名前だった。
「……母を、知ってるんですか」
「昔ね。美しい人だった。君も同じように美しく育ったね」
まるで本当に、嬉しそうな声音で彼はそう言った。そして、縁は、それだけ言って、当一の方へと視線を移した。
「では、当一さん。続きを聞かせてもらいましょうか」
「は、はい。もちろんです」
当一は、まるで別人のように恭しく答えた。祈は、縁の背中を見つめながら、僅かに眉をひそめた。
(……なんだ、あの男)
母の知り合い。それだけは分かった。しかし、それ以上の情報がない。そして、何より気になるのは、あの当一が頭を下げているという事実だ。
祈の中では当一は非常に偉そうな傲慢な男という印象だ。だというのに、まるで怯えたウサギのような言動を彼はしていた。
この島で白守の当主に頭を下げさせる人間が、果たして何者なのか。そんな疑問が彼女に浮かぶ。
(こんなやつ、白守にいたか? ボクは基本会合はサボるが、偶には出てる。でも、見たことないし、名前も知らない)
(だけど、全員が恐れている。いや、美奈は、あんまり恐れない、と言うか知らないって顔してる。一族の一部と、重役しか知らない存在なのか?)
ふと、再び白守縁が祈を見た。包帯に包まれた顔から微かに見える瞳、獰猛な獣のような視線に思わず彼女は視線を逸らす。
──まるで、生きた心地がしない。
急に極寒の中に放り込まれたような恐怖が彼女を包んだ。そのまま、彼女は時間が過ぎるのを待つしかなかった。
◾️◾️
会合はその後も続いた。
縁は当一たちと談笑をしながら、島の祭典や奉納の細かな段取りについて話し合っていた。美奈はその様子を、不思議そうに見ていた。
「ねえ、祈。あの人、誰なの? 私、ちょっと分からないんだけど」
美奈が小声で聞いた。
「……知らない」
「知らないの? でも、名前は白守だし、一族の人なのかな。お父さんも凄い気を遣ってるし」
「……さぁ」
祈は、短く答えた。
食事が運ばれてきた。島の食材を使った料理が並び、縁も当一たちと共に箸を取る。
祈も、黙って食事をした。そして、縁が一度だけ、祈の方を見た。
その視線には、何か含みがあるように思えたが、縁はすぐに当一との会話に戻った。
(……やっぱりどっかで会ったことが)
祈は、そう感じた。会合が終わり、縁は静かに屋敷を後にした。その後ろ姿を見送りながら、祈は、冷たい夜風の中に立っていた。
だが、彼が去ると恐怖感が消え、そして、その心はもう、夜の島の方を向いていた。
◾️◾️
そして、夜。
祈は屋敷を出てすぐに足を速めた。なぜなら、彼女には約束がある。志乃たちと、合流する約束だ。
島の市街地を抜け、山寄りの場所へ。月明かりの下、祈は走った。
やがて、志乃の顔が見えてきた。それだけでなく、横にはさらに二人の男女の影がある。
それは黎明、志乃、白妙詩の三人だ。
「……遅くなった」
祈は、三人に近づきながら言った。
「あ、祈さん。ぜ、全然大丈夫ですよ」
「お、きたね」
志乃が小さく頭を下げた。そして、次に黎明は、にこにこと笑った。また、詩は、短く頷いた。
「わざわざすまないな」
「……いえ、ボクも聞きたいことがあったので」
祈は、それだけ言った。詩は、それ以上は聞かなかった。その時、遠くから足音が聞こえた。
「祈ーっ!」
そんな声と共に走ってきたのは、瞳月だった。
「あーし、ちょっと遅れちゃった?」
「いや、ボクも今来たところだ」
少し、ぶっきらぼうだが祈は、短く答えた。そして、五人が揃ったところで、黎明が口を開いた。
「じゃあ、行こうか。今夜も経験値稼ぎに。今のところ、珍しいモンスターとかもいないし、今日こそレアモンスターに出会いたいね」
にこにこと笑いながら歩き出す黎明の後ろを、四人が続こうとした。
その時。
「──でも、もう一人こっちに来てる人がいるけど。その人はどうしようか」
ふと、黎明は足を止める。
五人が振り返ると、そこに一人の男が立っていた。
ぼさぼさの長い黒髪。深い目の隈。中年ほどの年齢であり、顔色も悪い。いかにも不健康そうな外見だ。
しかし、その目は鋭く、五人を見渡している。あれ、この人どっかで見たなと思う黎明。
誰であったか。と思い出す前に──
「パパ!?」
瞳月が、驚いたように声を上げた。
そう、彼女の父親である九条透。
彼は、娘が夜に出かけたことに気づき、追いかけてきたのだった。その経緯は彼女が出た直後、娘がいないことに気づき、急いで島を走り回り彼女を見つけたのだ。
また、黎明が見覚えがあった理由。それは朝ランニング中に黎明もすれ違っていたため、どこかで会った気がしていたのだ。
「……瞳月、夜に出るなと言っただろ」
透は低い声で言った。しかし、その声はどこか震えている。なぜなら、目の前には化け物とすら評した、【黎明】が立っているからだ。
なぜ、娘と一緒に? そして、何が目的なのか? 色々と疑問が尽きないが、彼は父親。
一度、それらを横に置いて娘を見据える。
「で、でも、パパ……」
「それに……なんで、その化け物と一緒なんだ、早く、離れろッ」
透はそう言って、瞳月の腕を掴もうとした。その時、黎明の視線が、透に向いた。
一瞬、透の全身が固まった。まさに蛇に睨まれた蛙のように。無論だが、黎明は威嚇的な行動は何もしてない。
いつものように、普通の目線を向けているだけである。
朝のランニングで出会った、あの化け物。今、目の前に立っている。
「あ、朝の人だ。こんばんは」
軽く、知り合いに声をかけるように。ただ単に挨拶をしただけであった。だが、しかし、黎明の潜在能力の一端を見てしまった彼には、それだけでも恐怖を感じる。
(……また、こいつだ)
透の背筋に、氷のような悪寒が走った。心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。手の中には汗が溢れ出し、地震が起きてるかのように震えた。
(落ち着け。落ち着け、オレ。こいつは今のところ、何もしていない)
震えながらも透は、必死に自分を制御した。そして、震えながらも必死に声を捻り出す。
「……ああ」
目線を落とし、透は、掠れた声で答えた。その様子を見ながら瞳月は、父親と黎明を交互に見た。
「パパ、黎明くんのこと知ってるの?」
「……朝に会った。それだけだ」
「……あ、やっぱりさっき言ってた化け物って、黎明さんのことなんだ」
透は、努めて冷静に答えた。だが、彼の異様な怯えようから、娘である瞳月は気づいた。
黎明こそが、父が恐れていた存在なのだと。このような父を彼女は見たことがない。
いつも、家の中に閉じ籠り仕事もしない。しかし、彼女にとっては身近な大人であり、父親であったがゆえに大きな存在として見えていた。
だが、まるで小動物のように縮こまっている。それが衝撃的だった。
(……【霊眼】)
一方で、そんな娘の事情など考えられない状態の透。そんな彼の能力が、再び発動する。
現れるのは黎明の強さの数値。
霊力:0043
剛:983
迅:891
堅:671
あれは決して間違いなどではなかったと改めて戦慄をする。朝と変わらない数値。この絶対なる化け物が、今、目の前にいる。
(——どうやっても、これは倒せるわけがない。今生きていることさえ奇跡。こいつが少しでも気が変わればこっちは死ぬ)
「パパ、黎明さんは大丈夫だよ? それとこっちの詩さんと志乃さんも、最近知り合った人で安全な人達みたい……だから、そんな怖がらなくて大丈夫だと思う」
瞳月が透にそう語りかける。確かにと、彼は僅かに納得した。なぜなら、黎明には本当に一切の敵意がない。
もちろん、嵐のような自然災害同様、人間にはどうしようもないほど強いのは事実。しかし、それを無闇に扱うようには見えない。
だからこそ、僅かに彼は安堵をした。
「えっと、これから、怪異を倒しに行くんだよ。一緒に来る? パパ、前に人間は怪異は倒せないって言ってたけど、黎明さん達は倒せるんだって」
「いや、馬鹿を言うな。人間が怪異を倒せるはずが——待て、そもそもこの男は、人間、なのか?」
それは当然の疑問だった。志乃も異様な霊力をしているが、何よりも目を引くのは黎明という存在。
その強さは、人の枠組みを超えている。表すなら、神域、神の領域に足を踏み入れているような強さだ。
これを人間と言うにはあまりに不可思議であると彼は考えた。
「人間だよ。俺は」
「……ただの、人間、だと言うのか?」
「まぁ、職業は勇者だけど」
「……勇者? 英雄のような存在ということか?」
「あー、いや、あり方っていうより、職業的な意味かな。俺は別に世界平和とかは考えてない」
「……職業的な意味か。まるで、RPGのような」
「あぁ、そうそう。俺はそんな感じ。ほらモンスターも倒したら、経験値入って強くなるじゃん? RPGみたいだし、職業も勇者的なのがある感じかなって」
その場で色々と話を聞いた透。そして、黎明の話を頭で考え、理解をする。しかし、彼の頭は理解を拒んでしまった。
(え、何言ってるんだ。言ってることはわかるが、共感ができない。怪異をモンスターとも呼ぶし、そもそも、こいつはまるで……生まれ落ちた瞬間から、怪異を倒すのが当たり前のようだった言い方だ)
(……人間に、怪異が倒せる。しかも、当然のように……そんなことが?)
戸惑いながらも、透は黎明を見据える。そして、彼だけでなく、改めて五人を見た。
娘の話では、祈も倒せていたと聞かされていた。しかし、それは彼自身が眉唾だと否定をしてしまっている。
でも、それは当然だった。彼は陰陽師として生きてきて、怪異を倒せるわけではないと、そう信じて生きてきた。
だが、あの時、間違っていたのは……
(……ありえない。だが、この化け物が一緒にいるなら)
透は、葛藤した。
ただ、目の前には圧倒的な力を有する人間がいる。しかも、彼だけではなく、他にも異様な霊力を保有する少女までもが。
それらの事実が徐々に、透の考えを変えていた。
「……もし、本当に倒せるなら、見せてくれ」
「いいよ。ただ、この辺あんまり強いのがいないから、見てて退屈かもね」
まるで余裕綽々。近所に遊びに行くかの如く、歩き出した黎明。その後を透は、ゆっくりと追いかけ始めた。
◾️◾️
六人は島の山寄りの道を歩いていた。
透は黎明から少し距離を置きながら歩いている。隣にいたいわけでは断じてないが、目が離せないという複雑な心境だった。
(人間が怪異を倒す。ありえない話だ。しかし、この化け物——黎明がいるなら、何かが起きても対処できるのか……?)
透は複雑な思いで歩き続けた。その時だった。空気が、変わった。
ぞわり、と。
全員の肌が、同時に粟立った。
「……なんだ、これ」
透が、低い声で言った。その声に呼応するように、志乃は、黎明の袖を思わず掴んだ。
「黎明さん……これ、今までとは」
「うん、そうだね」
黎明は嬉しそうに短く答えた。その後、瞳月は、異様な気配の場所に向かい、無意識に霊力測定を発動した。そして、視界に映った数値を見て、息を飲んだ。
「459……?」
それは、志乃を除けば今まで見たことのない数値だった。祈の数値すら遥かに超える、圧倒的な霊力量。
「瞳月……見えたか?」
そう言って透が娘を見た。彼もまた、その異様な数値を見て、額に汗をかいている。
「パパ、459って……志乃よりは少ないけど、ものすごく不気味で気持ち悪い感じ」
「あぁ……邪悪。人とは違うと一瞬でわかるほどだ」
既に透も【霊眼】を発動していた。
霊力:459
剛:318
迅:302
堅:344
全項目が、三桁。ここまでの数値の怪異となると、霊格的には穢れを超える強さであることは明確。
(……怪異か。そして、この数値は)
透は思考を巡らせた。
(黎明の数値と比べれば、霊力は遥かに下。だが、剛・迅・堅は、黎明よりも——)
その時、透は気づいた。黎明の剛は983、迅は891、堅は671。どの数値も、目の前の存在を上回っている。
(……このバケモノより、黎明の方が強い。それが事実なのか……人間の方が恐ろしいと思うだと? それと、こっちの女の子も700オーバーだと? どうなってやがる。黎明ほどじゃないだろうが、この子も異次元だ)
黎明は言わずもがなだが、その横にいる女の子。志乃も霊力が高い。二人を見て透の背中にまた冷や汗が流れる。
そして、暗闇の中から、それは現れた。
白い鹿の角を持つ、人型の怪物。
身長は二メートルを超え、二本の脚で直立して歩いている。体つきは鹿に近いが、骨ばって痩せ細り、人が鹿の皮を無理やり被ったような歪さがある。
顔は、鹿のようだが口だけは人間のように裂けている
動物の顔だが、愛くるしさは一切なく、瞳には明確な殺意が宿っている。常に薄く笑っている口は、耳元まで裂けており、奥には人の歯と鹿の歯が混ざって生えている。
黒く濁った目が、六人を見渡した。
「……ッ」
透が、息を呑んだ。
「あ、あれ……」
瞳月が震える声で言った。
志乃も、全身が凍りついたように動けない。詩は、無言で符を構えた。
祈は、その怪異を見て、眉をひそめた。
(……やばい、これには絶対に勝てないッ どうやっても、勝てるイメージが湧いてこない……だけど、なんだ、どこかで、会ったことがある気がするのは気のせいか?)
そんな既視感が祈の胸の中に広がっていた。いつ、どこで。それが思い出せない。ただ、確かに知っているという感覚だけがある。
一方、黎明は。
「お、でかいね。角がかっこいい」
そんな感想を抱きながら、黎明はにこにこと笑っていた。そして、目の前の怪異は、六人を見渡した後、ゆっくりと口を開いた。
「……最近、怪異の減るのがあまりに早いと思っていたら、まさか、人間の仕業とは」
「お、話せるんだ。こりゃ、レアモンスターなわけだ。人語を話せるモンスターが強いのはあるある、ちょっとワクワクしてきたね」
「……人間にしては、随分と好戦的だ」
次の瞬間、黎明は動いた。
いや、正確には、動いたと気づいた時には、既に黎明は怪異の懐に入り込んでいた。
「——ッ」
鹿の怪異が、反応しようとした。
だが、それは黎明という規格外の前では余りにも遅い反応だった。
黎明の拳が、怪異の胴体に叩き込まれた。その衝撃波が、周囲の木々を揺らした。葉が舞い散り、地面が小さく揺れる。
次の瞬間には怪異は、吹き飛んだ。
二十メートル以上、木々をなぎ倒しながら、その巨体が吹き飛んでいく。
「……え」
透が呆然と言った。瞳月も、口を開けたまま固まっている。
だが、黎明は止まらなかった。
吹き飛んだ怪異に向かって、再び走る。怪異は、四足に切り替えて立ち上がろうとした。だが、その動作が完了するより前に、黎明はもう目の前にいた。
「速い……何かが動いてるとしか分からん」
透が、掠れた声で言った。
(迅が891。オレがおかしいわけじゃない。寧ろ正解だったか。能力が誤作動を起こした可能性も考えていたが……その通りだった。人間の動体視力では、追いきれない速さッ)
黎明は怪異の角を掴んだ。
そして、そのまま地面に叩きつけた。
轟音。地面が割れ、土煙が舞い上がった。
「すごい……」
志乃が息を飲んだ。
怪異はそれでも立ち上がろうとする。霊力の高さが、尋常でない耐久力を生んでいるのだろう。
だが、黎明は掌に炎を作り出した。それは、志乃の炎とも、祈の炎とも違った。小さいが異様な存在を感じさせる。
遠くにいる五人にも、その熱量が、肌を刺す。
そして、黎明はその炎を、怪異の胸へと叩き込んだ。
「──フレアボム」
轟炎。爆発するように炎が広がり、怪異を包み込んだ。その後、紅い光が、夜の闇を切り裂いた。
「……」
透は声が出なかった。だが、心の中では必死に彼の強さに驚愕をしている。
(今初めて理解した。こいつは、紛れもなく……どうしようもないほどに強い。文字通りの桁違いの強さだッ)
炎が収まった後、怪異の姿は消えていた。六人の間に、静寂が流れた。黎明は、掌を見つめた。
「……うーん」
すると、黎明は、少し首を傾げた。なぜか、倒したはずなのに、達成感がないような顔つきだ。
「どうしました?」
志乃が、恐る恐る聞いた。
「なんか、倒した感触がないんだよね。ちゃんと当たったはずなんだけど」
「倒した感触が……ない?」
詩が、眉をひそめた。これまでの経験から、黎明の言ってることは意味があると分かっている彼女はすぐさま、思考を回す。
「うん。なんか、違和感がある。もぬけの殻みたいな感じ?」
黎明は、そう言いながら、周囲を見渡した。
その時。
後ろから、気配がした。
全員が振り返った。
そこにはまた同じ怪異が立っていた。
その容姿も全く同じで、白い鹿の角と顔。裂けた口。黒く濁った目。
さっきと全く同じ姿で、静かに立っている。
「ほーう」
黎明は、目を輝かせた。そして、口元に笑みを浮かべた。
「面白くなってきた。さっきのは分身か何かかな。こっちが本番ってこと?」
「……さぁ、どうでしょうか」
「いいね。ネタバラシされても、面白くない。攻略本は読まない主義なんだ」
そう言って、黎明は怪異を見つめながら、にやりと笑った。
「倒し方はこっちで考えるから、わざわざ言わないでね」
「……狂人。こんな人間が存在するのか? あり得ぬ、だが、野放しにするのは非常に危険ですね」
静かに黎明を見つめ返しながら、怪異が言葉を紡ぐ。
「あなたを、食材にしてさしあげましょう」
「こっちは、経験値にしてやる」
夜の饗島に、輝くような黎明の笑顔が浮かんだ。ようやく、彼が楽しくなるような展開になってきていた。




