幕間 新時代幕開け
──とある、陰陽師は走っている。
足音が、自分のものか、それとも背後から迫る、それのものか、もう分からない。
息が喉に引っかかり、肺が焼けるように痛む。視界の端が暗く滲み、木々の輪郭が歪んでいく。何度も転びそうになりながら、それでも陰陽師の男は必死に森を駆けていた。
「……く、そ……!」
振り返る勇気はない。
振り返った瞬間、終わると本能が理解している。
背後から聞こえるのは、ぬちゃり、と湿った音だった。土を踏みしめる足音ではない。何か柔らかいものを引きずり、擦り潰すような、不快な音。
――追ってきている。
男が遭遇した怪異は、正式名称すら定まっていない存在だった。
人の形をしているが、関節がすべて逆向きに折れ曲がっている。首はありえない角度で傾き、顔は布で覆われているように見えるが、目も鼻もない。ただ、口だけが異様に大きく裂け、そこから常に粘ついた黒い液体が滴っていた。
その怪異は恐怖に反応する。
心拍が上がるほど、呼吸が乱れるほど、距離を詰めてくる性質を持っていた。
だから男は、必死に平静を保とうとした。符を切り、簡易結界を張り、陽動をかけた。だが、それらはすべて無意味だった。
恐怖は、消えない。逃げれば逃げるほど、怪異は速くなる。
「はぁ、はぁ……っ!」
足がもつれ、男はついに倒れ込んだ。苔むした地面に膝をつき、片手を突く。もう立ち上がれない。
背後で、音が止まった。終わりだ、と男は悟った。
ここで自分は喰われる。骨も、魂も、恐怖ごと。
そのときだった。
「――そこまで」
澄んだ、しかしよく通る声が森に響いた。男の視界に、二つの人影が割って入る。
一人は白装束を現代風に着崩した少年。もう一人は、巫女装束を思わせる服を着た少女。
怪異が、ぴたりと動きを止めた。恐怖に反応するはずの怪異が、まるで様子を窺うように、距離を取る。
「……さて、倒すか」
少年が、気負いもなく言った。男は呆然と二人を見上げる。状況が理解できない。
「大丈夫? もう、無理に動かないで大丈夫だから」
少女が短く告げる。
「そいつ、恐怖を餌にするからな。あんた、今はもう何もしなくていい」
そう言って、少年は静かに前へ出た。怪異が低く唸り、再び動き出そうとする。
だが、次の瞬間――
「――遅い」
少年が一歩踏み出した。符も、呪文もない。ただの踏み込み。だが、それだけで空気が変わった。怪異の動きが鈍り、まるで重力が増したかのように地面に沈む。
「……え?」
男の口から、間の抜けた声が漏れた。少年は淡々と続ける。
「オレはもう、ビビってねぇ」
怪異が口を大きく開き、黒い液体を噴き出す。だが、それは少年に届く前に霧散した。
「紅、結界を頼む」
「了解」
少女――紅と呼ばれた彼女が、素早く結界を展開する。逃げ場を失った怪異は、初めて明確な焦りを見せた。
目の前の存在は、確実にこちらを打破しようとしていると悟ったからだ。
そして、驚くべきは術の発動速度。
言霊も発しておらず一瞬で取り囲まれた。
さらに狩衣を着ているわけでもない。それなのに一瞬で術を発動させたことに、男の陰陽師も驚きを隠せない。
「今、言霊使ってない!?」
そして、終わりは一瞬だった。少年が持っていた刀を抜く。そして、その刀に炎を纏わせた。
「イグニス・セイバー」
──そのまま、怪異を両断した。
怪異は、崩れ落ちるように消滅した。音もなく、痕跡すら残さずに。森に、静寂が戻る。
男は、しばらく声が出なかった。
「……え、倒した、のか?」
「倒しただろ。見てなかったのか。まぁ、その反応は当然だがな」
少年はあっさり答えた。
「封印じゃなくて?」
「倒した」
男は、ごくりと喉を鳴らした。
陰陽師として長く活動してきたが、怪異を倒す光景を、見たことはない。
「……君たちは、一体……」
その問いに、少年が振り返る。
「自己紹介しとく」
彼は軽く手を挙げた。
「安倍蓮。職業は冒険者」
続いて、少女が一歩前に出る。
「安倍紅。一時的にだけど……ワタシも冒険者よ」
男は、その姓を聞いて、目を見開いた。
「安倍……? まさか……」
安倍家と言えば陰陽師の世界では有名な一族。しかも、十年前に壊滅をした話が有名だ。
「細かい話は後でいいだろ。とりあえずは生きていることを喜んでおけ」
「あ、あぁ、ありがとう。本当に助かった……」
紅も、穏やかに微笑む。
「……大丈夫。もう追われないですよ」
男は、震える手で地面を掴みながら、深く息を吐いた。
――助かった。
それだけは、確かだった。
森の奥で、二人の冒険者は、静かに次の戦いへと歩き出していった。
──九月。双子は黎明との訓練により、格段に上の実力を手に入れていた。
怪異でも、霊格が穢れであれば倒せるほどに。
「さて、他にもモンスターがいれば経験値にしてやるんだがな」
「え? も、モンスター?」
「あ、すいません。蓮は怪異がいれば倒して、修練を積みたいって意味で言ってます」
蓮は黎明のように怪異をモンスターと呼んでいる。徐々にだが、彼は黎明のような思考になっていた。
陰陽師の男は、何が起こっているのか分かってはいない。名家ならば怪異を倒せるのか? そんな話は聞いたことがないが?
と、悩みに悩んでいる。
ただ、彼の感覚は正しい。名家であっても怪異は人間が倒せるわけがない。
この二人が、唐突に例外になったのだ。
そして、この二人は徐々に頭角を現していく。
それは、新時代の幕開けのように。
──ただ、その事実に他の陰陽師が気づくのはまた別の話。
──そして、何よりも、黎明と言われる革命の中心、台風の目に気づくのもまだ先の話なのだ。




