第11話 親
昼。
影森町の空は、いつもより少し明るかった。灰色の雲の切れ間から差す光が、志乃の髪を照らす。
外の空気は昼と夜でこんなにも違うのかと、志乃は少し驚愕していた。
「……夜と違う。でも、少しどこからか視線がある。怖いけど、今日は、ちゃんと調べるんだ」
志乃は震える手を握りしめ、図書館の扉を開いた。中は静かで、紙と埃の匂いが混じっていた。
古びた本棚の奥へと足を進める。
「……山神様、火の鳥様……」
姉が願いを叶えてくれる神と言った、山神様。昨日、父親が消える直前に語った、火の鳥様。その二つの神様を調べるために、彼女は図書館で町の歴史を調べていた。
しかし、その最中に小さく呟いたその声を、誰かが拾った。
「へぇ、あんた、まだ生きてたんだ」
「え、志乃じゃん。やば、マジで外出たの?」
その声を聞いた瞬間、志乃の体が強張った。制服姿の三人組。中学一年生の時、彼女を呪われ女と呼んでいた子たちだった。
「ねぇ、あんたんちまだお札だらけ?」
「あれで寝てるとか無理〜」
「てか、家から出たら祟られるんじゃね?」
志乃は唇を噛んだ。声が出ない。ただ、心臓の音がどんどん早くなる。時間が過ぎるのを忘れて、ただ、志乃は言いなりになった。
――その時。
「ねぇ」
低く、静かな声が背後から響いた。着物姿をしている、白銀の髪を持っている少年。
──朝霧黎明が、ゆっくりと本棚の影から歩み出た。
「うるさいから、図書館では静かにしてね」
「は?」
「なに言ってんのこの人」
「コスプレ?」
黎明の格好に対して、三人の中学生は疑問と嘲笑の視線を向ける。そして、自分たちに注意をしてきたことにも腹がたち、彼に対して、喧嘩腰に対話をする。
「てか、ダサくね。その格好なにそれ?」
「ダサいわ。服装のセンス無さすぎ」
「陰キャっぽいわ……キモい」
黎明は眉をひとつ上げた。そして、右手をゆっくりと上げる。
「──最後に、もう一回、言っておくけど。ここは本を読む場所だからね。静かにしてね」
「何その手、絶対痴漢とかしてきそう。キモいわ」
「警察呼んだ方がいいんじゃない?」
「格好もキモいし、絶対痴漢してくるって」
──うるせぇ
言葉にしないが、そう思っていたのが志乃には手に取るように分かった。あげた右手から、何かが放たれたのが、志乃だけには分かった。
ただ、空気が――重くなった。床がきしみ、紙がひとりでにめくれる。鼓動のような震えが、図書館全体を包んだ。女子たちが青ざめた顔で後ずさる。
「な、なにこれ……息、できな……」
「耳が……キーンって……」
黎明は冷静だった。まるで呼吸するように霊力を操る。
(MP消費……ゼロに近いな。まぁ、軽く飛ばしてるだけだし)
黎明は霊力を使うと、黒い瞳が赤い瞳となり、光を帯びる。その微かな変化に気づく、存在はここには居ない。
「うるさいから、静かにしてよ」
圧が一瞬強まった。女子たちは悲鳴を上げて逃げ出した。図書館の自動ドアが開き、閉まる。沈黙が戻る。
「経験値は……ゼロかな。RPGだと人間と戦っても入ってくる時はあるんだけども。あの程度じゃ、何も得られなくて当然だよねー」
志乃は呆然と立ち尽くした。その後、黎明は再び、本棚を眺めて、気になった本があったのか、それを手に取り、椅子に座る。
──他人に興味なく、志乃のことも特になんとも思ってないのが、よく分かる少年だった。
志乃を助けたわけではなく、ただ単にうるさいから黙らせただけ。それは助けられた彼女も分かった。しかし、助けられたのは事実であるので、お礼だけは言った方がいいだろうと志乃は感じる。
「……あ、あの……今、その、あ、ありがとうございました」
「ん? あ、うん。図書館では静かにね」
なんだか、話が噛み合っている感じがしなかった。だからこそ、志乃は首を傾げてしまう。この少年は何か勘違いをしてるのかもしれないと。
(あれ? もしかして、私も騒いでた連中の一人って思われてる……?)
「あ、えと、はい。あ、あの、今、私を助けくれましたよね?」
「……ん? いや、別に。うるさいから注意しただけだけど」
「あ、えと、その、私は騒いでなくて。その、あの人たちは私を、からかってたというか、私もそれが辛くて、その」
「あ、そうなんだ。気にしないでいいから。大した労力でもないし」
淡々と受け応えるだけ、どちらかと言うと冷たい反応だった。しかし、志乃は不思議と温かい感覚を覚えた。それと同時に、スザクを思い出していた。
(スザクさんと、似たような人なのかな? スザクさんも、手から急に炎とか出してたし……この、人、手から何か出てたし?)
「あ、あの、ちょ、ちょっとだけ、話いいですか?」
「うーん、少しなら」
「あ、ありがとうございます。え、えと、さっき手から、何か出してませんでしたか? ち、違ったらすいません」
「あぁ、MPだね」
「MP……?」
聞きなれない単語に、志乃は首を傾げた。しかし、彼の手から出ていた何かが、スザクも持っていた力と質が似ていると彼女は思っていた。
「えと、MPとは?」
「ステータスの一個だね。魔法発動に必要な力」
「す、ステータス? 魔法? えと、ごめんなさい、その、魔法使えるんですか?」
「まぁね」
(やっぱり、スザクさんと同じってことなのかな? なんか、さっき手から出てたの、スザクさんと似てるし。でも、スザクさん、魔法なんて言ってたかな?)
「その、とにかく、ありがとうございました」
「うん、気にしないで」
(スザクさんもだけど、親切な人って、外にたくさんいるんだな。ずっと、怪奇現象とか周りで起きるから、遠ざけられる人生だったけど)
虐められていた過去を持ち、ずっと引きこもりだった、志乃。
まさか、親切な人だと思った黎明が、大分変わった人間であるとは、夢にも思っていないようだ。
志乃は、そこで黎明が呼んでいる本が少し気になった。タイトルには『影森町怪異譚』。
「あ、そ、その、その本なんですが」
「あー、一冊しかないね、これ」
「あ、あの、どうしてもそれ読みたくて、い、いいい、一緒に見てもいいですか?」
以前の彼女ならば、そんな事は絶対に言えなかった。しかし、今の彼女は前とは違い、前に進む覚悟があった。
「いいよ。座りなー」
「あ、どう、どうも」
黎明の隣に座り、志乃は本を再度覗き込む。すると、いきなり彼女が求めていた神様の名前があった。
「……火の鳥様、って、書いてある。これ、ここの町にいる神様、ら、らしいです」
「ふーん、神様なのかな? それよりも、たぶん火属性のモンスターな感じするけどね」
「も、モンスター?」
「そうそう。ほら、ここに鳥として町を見守るって書いてある。時折、町を飛ぶ姿を見れて、見れたら幸運らしい。これはあれだ、偶にエンカウントできるレアモンスターかもしれない」
「……そ、そうなんですかね……?」
「うん、面白そうなモンスターがいるね。これは狩りたい」
志乃はついていけない。一体、この人は何を言っているのか、何を考えているのか、意味がわからない。さっき助けてくれたことは覚えており、悪い人ではないと分かったが、それでも理解はできそうに無かった。
(この人、私と同じで火の鳥様を探してる……? でも、狩りたいとか、モンスターとか言ってるし。あれ、でも、スザクさんは怪異って……どうなんだろう。この人何がしたくて、何が目的なんだろう)
色々と迷ってしまった志乃だが、そこで志乃は自分の目的を最初に果たす事が大事であると感じる。
そこで、それ以上は何も言わずに本を眺めることに没頭した。彼女が黙って本を読めば、隣の黎明も何も言わずに本を眺め続けた。
その本はかなりの厚さで、難しい漢字も多かった。古びており、読みづらい文字もあったが全く読めないほどではない。
その中で、二人は特に気になる箇所を見つけた。
──そこには、以下のように書き記されていた。
昔より、願望山には 山神様が住まうと語られる。
山神様は元は他の地の神であったが、争いにより居場所を失い、この影森へ辿り着き、根を下ろしたと伝わる。
山の頂には山神様の祭壇あり。
夜更けにそこへ赴き、願いを口にすれば、望みは何度でも叶えられるという。
どんな願いも、どんな望みも思うがまま。代償は一切取られることもなし。
また、影森の町には 火の鳥様 と呼ばれる守り神の社あり。火の鳥様は時に人の姿をとり、里の暮らしを見回るとされる。
しかし、山神様と火の鳥様は昔より仲が悪く、争いの因縁深し。火の鳥様は、自らの願望を山へと投げようとする者を好まず。
願いがあるなら、火の鳥様に告げることなく、山に持っていくべし。
◾️
「……夜に願ったことが何度でも叶う、って……代償も何もないなんて。そ、そんな都合良いことあるんでしょうか?」
「さぁ、どうだろ? でも、次のページに願いを叶えてもらった人間の日記とかも書いてる。ただ、こんなの捏造はいくらでも可能だしね」
「……お、お姉ちゃんは、もしかして、これを読んで……これは真実なんでしょうか?」
「真実は分からないけどね。ただ、この願望山って場所は気になるなぁ。ボスが居るならこの祭壇とかな気がするし。それと火の鳥様ね。神社には居なかったけど。レアモンスターっぽいな」
──そこから、二人はその本を読み続けた。他にも山に住まう怪異についてなども書いてあったが、志乃が本当に求める火の鳥様がどこに居るのか?
助けてくれるのか? そう言った情報はなかった。
本を読み終えると、二人は一息つく。
「ふむ、かなりの時間読んだ気がするね」
「そ、そうですね。た、ただ、あんまり火の鳥様とか、山神については、そこまで詳しく書いてなかったような……」
「うん。願望山って場所で山神が願いを叶えてくれるとかは多少書いてあった。あとは、他のモンスターについて書いてある感じだね」
志乃は迷っていた。スザクは怪異と呼ぶから、あの化け物はそういう名称なのだと考えていた。
しかし、目の前の不思議な少年はモンスターと呼ぶ。一体どちらが正解なのか?
(モンスター、怪異。どっちが正解なの?)
彼女が悩み始めたタイミングで、館内放送が響き渡る。
『閉館時間です』
いつの間にそんなに時間が経って居たのか、不思議な様子で二人は帰りの支度を始めた。
「あ、もうそんな時間……」
「ふーむ、町の調査は一旦ここまでだね」
「……え?」
二人は並んで図書館を出た。夕焼けが町を染め、影が長く伸びていく。歩きながら、志乃は小さく息を吐いた。
「……あ、あの、ありがとうございました」
「いえいえ、それじゃねー」
あっさりと入り口で別れたが、歩く方角が同じであることに二人は気づいた。
「あれ、帰りこっち?」
「そ、そうです」
「ふーん」
「……あ」
そこで、志乃は初めて気づいた。目の前の少年は、この間引っ越しの挨拶に来てくれた少年だと。
(あ、あぁ、こ、この人、この間、挨拶に来てくれた人だ。ずっと、目を合わせるのが恥ずかしくて、伏せてたから、全然気づかなかった。この人も、気づいてないけど)
(まぁ、言わなくてもいいかな。それよりも、私はお父さんが言ってた火の鳥様を探して、お姉ちゃんを助けるのが一番大事。これだけは絶対に成し遂げないといけない)
強い思いで、彼女は帰路に急いだ。特に黎明と会話をすることもなく、淡々と早歩きで帰ろうとする。
――その時だった。
通りの向こう。街灯の下に、派手な服の女と、チャラチャラした男。金髪、香水、そして不自然な笑顔。
志乃の歩みが止まった。
「……あれ……お母、さん……?」
空が、ゆっくりと赤く染まり始めた――。
街灯の下で、志乃は足を止めた。あの声。忘れたくても忘れられない声だった。
「……あら〜? 志乃じゃない。まだこの町にいたのねぇ」
篝火七姫
――志乃の母親。派手なピンクのジャケットに、ギラつくネイル。
濃すぎる化粧の奥の目は、どこまでも冷めていた。隣には、チャラチャラした男。金髪にピアス、片手に酒缶。
その笑い方が下品で、志乃の胸をえぐった。お父さんが死んで直後、自分の母親が別の男と一緒にいる姿を見て、良い思いなどするはずもない。
「……お母、さん……?」
「あら、声まで暗いのねぇ。ほんと、父親にそっくり。あんたのせいであの家、呪われたって噂されたのよ?」
隣の男がニヤリと笑う。
「マジかよ、七姫の娘? 意外と陰キャで草」
「でしょ〜? 本当にオドオドして低姿勢で、それが元旦那に似てて腹が立つわ。でも、あいつが最近消えたでしょ? 正直、せいせいしたのよ。あんな陰気な男、あたしの人生の足かせだったもん」
志乃の目が見開かれた。
「……お父、さんのこと……?」
「そう。夜に勝手に出て行ってそのまんまらしいじゃない。どうせどっかで死んだんでしょ」
篝火七姫は、笑いながら煙草に火をつけた。紫煙が夜気に溶け、鼻を刺す匂いが漂う。
「志乃も死んでくれて、せいせいしたんじゃない? いっつも、不気味な物ばかり買ってきてたし」
「……わ、私、は、そんなことお、思って……」
「あーあ、あんたはいつもお父さんの味方ね。やっぱ両方きもいわ。ほんっと、あの男の血が流れてるわね」
志乃の視界が揺れた。何も言い返せない。大好きな父親を馬鹿にされて、それに対して言い返すこともできずに、喉の奥が固まって、涙が滲む。
「なぁ、七姫」
隣の男が退屈そうに言う。
「こんなガキ放っとけよ。腹減ったし、飯行こうぜ」
「うるさいわね。せっかくいい気分なのよ。だって見てよこの顔、写メ撮っちゃお」
志乃の唇が震えた。昔から、母親は虐待気質なところがあり、そのせいで彼女は抵抗する気力がなかった。
「や、やめて」
「は? 散々迷惑かけたんだから、これくらいさせなさいよ」
「……ごめんなさい……」
「謝るくらいなら、最初から生まれてこなきゃよかったのよ」
その言葉は、刃よりも鋭く志乃の胸を裂いた。彼女の足がふらつく。
――その時。
「……やめとけ、それ以上はさ」
「は? だれ、アンタ」
黎明が七姫のスマホを奪い取っていた。志乃に同情をしているとかではなく、迷惑そうな顔をしている。
「なんか、前の親と接してる自分を見てるみたいで、ちょっときつい」
「あ?」
「どうでもいいけど、さっさと立ち去ってよ」
「あんた、こいつの彼氏?」
「違うけど。単純に思い出がフラッシュバックしたから、止めただけ」
そんな黎明の様子を見た、七姫が鼻で笑う。
「てか、ダッサイ格好してるわね。ふーん、志乃、男のセンスもないのね」
「彼氏じゃないって、言ったと思うけどね」
「あら、キープしてるんだ。まぁ、キープする程でもなさそうな男だけど」
「あ、論点をずらすこの感じ。そっくりすぎてなんか心臓痛くなってきたー」
「は? そっちが勝手に痛くなってるだけでしょ。そうやってすぐ人のせいにするんだ。親の顔が見たい坊ちゃんね」
親の顔が見たい、その言葉に黎明の瞳が少しだけ細まった。
「……俺の前の親はさ、宗教を信仰してて、それを破った俺を殴ったりしてたんだよね。ご飯抜きとかされたこともあったし。偶に、なんでこんなふうにされるのか疑問なときもあった」
「はあ?」
「感謝もあるけど、制限されてた時の記憶が偶に巡るんだよね。それが、あんまり気持ちよくなくてさ。ようやくゲームっぽい感じの世界で楽しくやってるからさ」
「……何言ってるの? 頭大丈夫?」
「あぁ、これ以上ないほどに平気。だったんだけどね、あんたのせいでちょっと、頭痛くなりそうだから、消えてくれないかな?」
その瞬間、空気が変わった。風が止む。夜が沈黙する。空気そのものが、圧を持って押し寄せる。
「インナーフォール」
インナーフォール──直訳すると内側の落下。
黎明が昔プレイしていたゲームでは、相手の精神を揺さぶり、集中力を奪うことで行動を遅らせる魔法として登場していた。
彼はそれを、霊力を軽く飛ばすことで再現をしていた。
そう、霊力を飛ばすだけだ。霊力を感知や見ることができない一般人からすると。
何も起きていない。
それなのに――息ができない。喉が勝手に震え、足がすくむ。という現象とる。
七姫の笑顔が引きつった。
「な、なにこれ……空気、重……っ」
そして、一緒にいた男は顔を真っ青にして後ずさる。
「ちょ、やべえ……マジで動けねぇ!」
「こ、これ、志乃と同じ……怪奇現象!!?」
黎明は微動だにしない。静かに、ただ見下ろしているだけ。その存在感が、すでに異質だった。
「ほら、さっさと消えてねー。そうじゃないと、どんどん圧が強くなるぞー」
「こ、この、志乃と同じ化け物……」
「さっさと帰りなー。こっちは最強職だから」
さらに圧が強まった。七姫は叫び声を上げ、男も一緒に逃げ出した。ヒールの音が夕日に消える。
静寂。志乃の体から力が抜け、膝が震えた。黎明が振り向く。
「大丈夫?」
「……うん……でも、今の……」
「さっきのやつ。魔法ってやつだよ」
「あ、あの、二度もありが、とう、ございます」
「助けたいとか、あんまり思ってないけどね。俺が不快だっただけだけど……まぁ、どういたしまして」
適当に返事をして、黎明は再び歩き始める。彼は振り返ることがなかったが、志乃の顔は今までにないほどに、絶望に染まっていた。
理由は、父親が馬鹿にされていたのに言い返すことすらできなかった、自分に対する失望。
──ずっと、俯き続けて、夕日の道を彼女は歩き続ける。
◾️
夜。
影森町の外れ、誰も近づかない古びたラブホテル。壊れかけた看板の「夢」の文字だけが、赤く点滅していた。その駐車場に、白いワゴンが一台止まっている。曇った窓の中、篝火七姫の笑い声が響いた。
「志乃の泣き顔の写真はやっぱりいいわね」
七姫は煙草をくわえ、助手席の男に軽く足を投げ出す。スカートの裾から、安物の香水の匂いが漂った。
「お前、娘もう一人いたんだったか?」
「いたわよ。二人もね。どっちも使えないクズ。一人は家にこもって、もう一人は勝手に山行って消えたらしいけど。あたしの人生、あの子たちが全部壊したのよ」
七姫は鼻で笑う。
「志麻も志乃も……あのガキどもがいなきゃ、今ごろもっといい人生だったのに」
男が口をニタニタさせながら、微かに微笑む。
「……お前、マジで母親かよ。クソすぎてウケるわ」
「母親? そんなのとっくにやめたわよ」
笑い声が虚しく夜に溶ける。窓の外では、蛙の鳴き声が止んでいた。風も、虫の音もない。まるで世界そのものが息を潜めたかのように。
男がぼそりと呟いた。
「……なんか、静かすぎねぇか?」
「うるさい。ビビり?」
「いや、びびってねぇ。ただ、昔よく言われたんだよ。夜には外出るなって。それを思い出して」
「そういうの気にするタイプだっけ? まぁ、あたしもよく言われたけど……志乃が居るなら、話変わるけど。普通は気にしなくて……」
七姫は窓を開け、煙を外に吐き出した。
――その瞬間、空気が変わった。
湿った匂い。土と鉄と、甘い蜜を混ぜたような臭気が漂う。
「なにこれ……?」
風が、逆流する。草がざわめき、ホテルの外壁に絡みつくように、何か黒いものが這い上がっていた。
それは、根のような、触手のような、血管のようなもの。地面から何十本も生え、車の下を這い、タイヤを包む。
七姫が気づいた時には、車体の下が動いていた。
「な……に、これ……」
運転席の床から、ぬるりとしたものが滲み出す。生臭い。鉄のような臭いが鼻を刺す。男がドアを開けて外へ出た。
「うわっ……! おい、やべぇぞ、これ!」
彼の足元。地面のひび割れから、何かが生えていた。それは人の腕に似ていた。だが皮膚は樹皮のように硬く、指先が根に変わっている。
関節がぎしりと鳴り、土を掻き分けるように蠢く。地面の奥で、何か大きなものが呼吸をしていた。
ぼこっ、ぼこっ――。
男が悲鳴を上げるより早く、腕が彼の足を掴んだ。そして、引きずり込む。
「ぎゃあああああっ!!」
咄嗟に手を伸ばした七姫の顔に、泥と血と何か甘い液体が飛び散った。
「うっ……! な、なにこれ……!」
振り向く。ホテルの壁に、影があった。それは人の形をしていたが、輪郭が溶けている。
獣のような四足。枝のような腕。首が不自然に長く伸び、顔の部分には――目も鼻も口もなかった。
ただ、顔全体に穴が空いている。まるで巨大な蜂の巣のように。穴の中で、何かがうごめいていた。
黒く、無数のものが蠢き、湿った羽音が夜気を震わせる。
ぶううううううん……。
「ひ、ひぃぃぃっ……!」
七姫はバックして車で逃げようとする。だが、後輪はすでに根に絡まれていた。
「やめてっ! やめてよ! なんであたしが……! 志乃は居ないのに……!」
シートベルトを外して外に飛び出す。裸足でアスファルトを蹴りながら、走るたびに何かを踏みつける。
粘つく音。それは――潰れた蛹だった。
「いやぁぁぁぁっ!」
七姫は走る。けれども、影は音もなく追ってきた。動くたびに、根と羽が地を擦る。
その度に、甘い腐臭が漂った。木々の間から、腕のような根が伸び、七姫の足を掴む。
転んだ拍子に顔がアスファルトを擦り、血が滲む。痛みも恐怖も入り混じって、叫ぶしかなかった。
「誰かっ! 助けてぇぇぇっ!!」
返事はない。風もない。ただ、根のざわめきだけが耳を満たす。
――そのとき、空が裂けたような音がした。
木々の間から、巨大な影が這い出てきた。鹿の胴に、無数の人の腕。
背中から、羽虫のようなものが溢れている。
その胴の中心――
まるで胎のように膨れた部位から、蜜のような黒液が滴り落ちていた。七姫の足元に、それが触れた。
皮膚が焼ける。熱い。いや、冷たい。わからない。痛みが混じり、脳が痺れる。
「いやあああああっ! やめて! やめてぇぇぇっ!!」
背中が弾けた。皮膚が膨れ、破れ、黒い膿が吹き出す。腕が硬化し、節を持ち、足が歪む。髪が触角のように蠢き、目が濁り、口から蜜が溢れ出た。
「……わたし、あれ、い、生きてる?……?」
誰もいない夜に、七姫は笑った。背中には――巣があった。蜂の巣のような穴が並び、その中で黒い影が蠢いている。
風が吹き抜ける。
ラブホテルの「夢」の文字が、一瞬だけ光を放った。
だが、もうその下には、人間はいなかった。
そこにいたのはただ――
血と蜜でできた巣を背負う女。
怪異蟲后
それが、篝火七姫の成れの果てだった。ぶうううううん。羽音が、町へ流れていく。
新しい巣を探すように。
「……志乃、アンタのセイで……こんなニモ、コンナニモォォォ!!!」




