5
センリが執務室を出ていったあと、部屋の空気はしばらく揺れていた。
静かになった扉を見つめたまま、大地はゆっくりと視線を落とす。
自分の左手首へ。
黒の手袋を外し、袖を少しだけまくる。
そこには、昨夜からずっと鳴り続けているものがあった。
――薔薇の鎖。
細く、鋭い棘をいくつもまとった、光の鎖。
黒に近い深紅の光が、鼓動に合わせてじん、と脈打っている。
「……うるさい」
小さく呟いてみても、鎖は鳴りやまない。
センリがこの城に入って以来、ずっとそうだ。
嵐の中で初めて瞳が交わったあの瞬間から、鎖は目を覚まし、勝手に動き始めた。
(センリが……俺の番だ)
認めざるを得ない。
これは、魔王種の魂に刻まれた“運命の証”だ。
一生に一度。
絶対に、たった一人だけ。
それを、すでに選んでしまった。
周りが何を言おうが関係ない。
ひつじ族だろうが、獣人だろうが……
(反発など、ねじ伏せればいい)
黒の王国の貴族が騒ごうが、他国が噛みつこうが、
力で黙らせる自信はある。
それが、魔王である自分の役目でもある。
宰相の桜鬼も、桜炎も…そして今城にはいない将軍の煉獄も―反対はしないだろう。
面倒は増えるだろうが、それでも支えてくれると分かっている。
問題はそこではない。
(……あいつの気持ちは?)
センリ自身の、気持ち。
嵐の夜、震えながらも立っていた少女。
天制球を抱きしめ、「お役に立てでよがった」と笑った娘。
今も、自分の中に居場所なんてないんじゃないか、と怯えながら、
それでも「少しだけなら」と、この国に残ることを選んだ。
(手放してやる自信がない)
鎖が、きしりと鳴る。
もし、センリが「やっぱり帰りたい」と言ったら。
ひつじ国に帰してやるべきだと、頭では分かっている。
だが―心は、首を縦に振らない。
ここまで来て、あの温度を知ってしまって。
自分の国を救い、自分の鎖を鳴らした少女を、「はいそうですか」と手放せるほど器用ではない。
苦々しく息を吐いた、その時だった。
「おーい! 黒の王さまはご在室かなー?」
ノックもそこそこに、勢いよく扉が開いた。
炎のような赤とオレンジの髪が、朝日を受けてぎらりと揺れる。
黒い軍服の胸元には金の装飾。
眩しいほどの笑顔を貼り付けた男が、ずかずかと執務室に踏み込んできた。
「勝手に入るな、煉獄」
大地が眉をひそめると、男―赤の魔王、炎帝。そして黒の王国の将軍の煉獄は愉快そうに笑った。
「細けぇこと言うなよ、大地!扉閉めてるからどの部屋か迷って辿り着けねぇだろ?」
「辿り着けるように作ってある。お前の方向音痴の問題だ」
「おっと手厳しい!」
ケラケラと笑いながら、煉獄は机の前までやってくる。
いつものことだが、嵐の夜が明けたばかりの城には、少し眩しすぎるテンションだった。
「……で、とりあえず一度帰ってきたぞ。事後処理は順調だ。
氾濫した川の上流も押さえたし、避難民も大きな被害は出てねぇ。
さすがは俺、と褒めてもいいぞ?」
「好きに自分で褒めていろ」
「はいよ、自分で自分を褒める炎帝、今日も絶好調!」
勝手に満足してから、ふと煉獄は大地をじっと覗き込んだ。
「―それよりお前」
炎の様なオレンジと赤を混ぜたような眼差しが、すぐに鋭さを帯びる。
「番見つけたってマジか?」
その一言に、執務室の空気が、わずかに張り詰めた。
大地は、何も答えずに視線を逸らすでもなく、煉獄を見返した。
手首の鎖が、また小さく鳴る。
煉獄は、にやりと口角を上げた。
「その顔は、図星だな?」
煉獄は、しばらくじっと大地の顔を眺めていた。
嵐の夜を越えたばかりの魔王の表情。
いつもの無表情に見えて、その奥でなにかが揺れているのは、昔からこの国を守り横にいた彼にはよく分かる。
ふっと、肩をすくめた。
「黒の魔王がそんな顔するとは。
長生きってするもんだな」
「黙れ。煉獄」
即座に返しながらも、その声音には、いつもより少しだけ力がない。
煉獄はそれを聞き逃さなかった。
「番だが…………どうしていいかわからない」
大地は、ほんの少しだけ視線を落とした。
手首の薔薇の鎖が、ちり、と鳴る。
認めた瞬間から、逃げ場がなくなる。
そんなことは分かっていたはずだった。
煉獄は、珍しくすぐには茶化さなかった。
「……そう来たか」
彼は大きく息を吐き、背中で両手を組むと、ゆっくりと机の前を歩く。
「番見つけたらどうするかなんて、単純な話だと思ってたけどな。
―離さねえ。以上。だろ?」
「それが、できれば苦労はしない」
「へえ?」
煉獄の瞳が、興味深そうに細められる。
大地は眉間に指を当て、一拍置いてから続けた。
「周りの反発なら、ねじ伏せればいい。
王としても、魔王としても、それくらいの覚悟はある」
「知ってる」
「だが……」
言い淀む。
こんなふうに言葉を探す大地の姿を、煉獄はほとんど見たことがなかった。
「……あいつの気持ちは、どうだ?」
ぽつりと落ちた声は、雷鳴よりもずっと静かなのに、重かった。
「ひつじ族の、天を読む娘だ。
家族も、仲間も、国もある。
嵐を止めて、礼を言って、帰るつもりだったところを、俺が引き留めた」
「ほう」
「ここに残れば、利用しようとする者も、排斥しようとする者も出てくる。
それでも――」
大地は、指先で自分の左手首をなぞった。
そこに巻きついた光の鎖が、主人の迷いをなだめるように、静かに光る。
「それでも、手放してやる自信がない」
煉獄は、ようやく「なるほどね」と笑った。
「お前がそこまで言うの、初めて聞いたな」
「からかうなら出ていけ」
「いやいや、真面目な話だって」
煉獄は机に片手を置き、少し身を乗り出した。
「いいか、大地。
番ってのは、鎖に選ばれるだけじゃ足りねぇ」
いつになく真面目な声音だった。
「選ばれた方にも、『ここにいたい』って思ってもらわなきゃ意味がねぇんだよ」
大地の赤い瞳が、わずかに揺れる。
「……どうすればいい?」
「簡単だ」
煉獄はにかっと笑った。
「怖がらせんな。追い詰めんな。
『ここにいていい』って、ちゃんと分からせてやれ」
「言うのは容易い」
「やるのも、案外容易いぞ?」
煉獄は指を折りながら、数えてみせる。
「まずは、居場所を作る。部屋だけじゃねぇ、“役目”もな。
次に、味方を増やす。桜鬼と桜炎あたりはもう落ちてんだろ?」
「……桜炎はともかく、咲鬼は最初から反対しない」
「ほらな」
煉獄は笑いながらも、真っ直ぐに友を見据えた。
「それなら―お前が一番やらなきゃいけねえのは、たったひとつ」
「……なんだ」
「ちゃんと、“好きだ”って自覚することだよ、黒の魔王さん」
大地の指が、かすかに止まった。
薔薇の鎖が、からん、と高く鳴る。
「自覚しねえでうだうだ悩んでたら、番の方が先に疲れちまう。
お前は昔からそうだ。国のこと、民のこと、全部先に考えて、自分は最後だ」
煉獄はふっと笑い、肩をすくめる。
「番ぐらいは、最後じゃなくていいだろ。
お前が手放したくないって思うなら、そのわがままくらい、誰も責めねえよ」
しばしの沈黙が、二人のあいだを流れた。
大地はゆっくりと目を伏せ、息を吐く。
「……お前は、炎のくせに、たまに妙に冷静だな」
「炎はな、燃やすだけじゃないんだぜ。暖めることもできる」
煉獄はウインクして見せた。
「ま、悩むのはいいけどよ。
一個だけ忠告しといてやる」
「なんだ」
「モタモタしてると、桜炎に『優柔不断は可燃ゴミですよ?』って燃やされるからな」
大地は、ほんの少しだけ口元を引きつらせた。
「……それは避けたい」
「だろ?」
煉獄は声を上げて笑った。
「だったら、さっさと腹ぁ括れよ。黒の魔王」




