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重い扉が、音もなく開いた。
部屋の中は、思ったよりも静かだった。
広い部屋の中央に大きな机がひとつ。その向こう側に、黒い衣をまとった男が座っている。
黒の魔王―黒黎の大地。
彼は山のように積まれた書類に目を通し、さらさらとサインを書き入れていた。
最後の一枚に印を押すと、ペンを置き、ゆっくりと顔を上げる。
まっすぐに、センリを見る。
昨夜、嵐の中で見上げたのと同じ瞳。
けれど朝の光の中で見るそれは、少しだけ印象が違って見えた。
冷たそうなのに、奥の方で何かが熱を帯びているような、そんな色。
「……おはようございます」
とっさに声が出なかったセンリは、慌てて頭を下げた。
「あの、えっと……」
昨夜からずっと考えていた言葉を、なんとか掻き集める。
「き、きのうは泊めてくださってありがとうございましだ。
わたし………雨がやんだし、そろそろ帰ろかどおもっで……挨拶さ……」
自分でも分かるくらい、語尾が心許なく揺れる。
ひつじ国に帰る。
天制球を持って、また群れと一緒に空を見上げて、いつものように風と話す。
そうすれば、きっと昨日までの日常に戻れるはずだ―そう思っていた。
だが、大地は微動だにせず、センリを見つめていた。
その視線に、胸の奥の鎖がぎり、と鳴る。
短い沈黙。
そして――
「帰るな」
低く、よく通る声だった。
センリは思わず顔を上げる。
「……へ?」
意味を理解するより先に、大地は椅子から立ち上がっていた。
長身の影が近づいてくる。
気づいた時には、センリの目の前に立っていた。
すっと伸ばされた手が、センリの手をとる。
指が触れた瞬間、熱い――と思った。
まるで、さっきまで炎を握っていたかのような体温。
けれどそれは、火傷のような痛みではなく、冷え切った身体を内側から温める薪の火みたいな、優しい熱だった。
センリの胸がどくん、と鳴る。
「か、帰るなって……なんで……?」
かすれた声で問い返す。
大地は、つないだ手から視線を離さないまま言った。
「お前は、この国を救った。嵐を止めた。
それだけでも、十分に引き留める理由になる」
ぐっと、少しだけ手に力がこもる。
「……でも、それだけではない」
赤い瞳が、今度はセンリの目をまっすぐ射抜いた。
「俺の鎖が、昨夜からうるさくてかなわん」
「……鎖?」
センリは思わず、自分の手首を見下ろした。
大地の手に隠された手首の内側で、薔薇の鎖がじわりと熱を帯びる。
「魔王種の魂に刻まれた鎖だ。
一生に一度だけ、番を選び、つなぐ。……運命の鎖」
大地の声は静かだったが、そこには迷いも嘘も感じられなかった。
「嵐の中、お前を見た時から、ずっと鳴り続けている。
―帰らせたら、一生後悔する気がする」
センリは言葉を失った。
昨夜から胸の中で言い訳みたいに渦巻いていた思考が、一気に音を立てて崩れていく。
(魔王さまの……運命の鎖……)
自分の手首の鎖が、大地の言葉に呼応するように、更に強く光った気がした。
「でも……わだし、ひつじ族で……ただの、天気ちょこっといじれるだけの……」
「“ただの”で済む力ではない」
大地はぴしゃりと言い切る。
「お前は、天を止めた。
そして―俺の鎖を動かした」
それは、魔王にとって、何よりも重い言葉だった。
センリの喉が、きゅっと詰まる。
帰りたい気持ちがないわけじゃない。
ひつじ国には家族も仲間もいる。
自分の居場所はそこだと、ずっと思っていた。
でも。
手首の鎖が、行くなと鳴る。
つないだ手の熱が、ここにいていいと言ってくる。
「……魔王さま」
センリはゆっくりと、大地を見上げた。
「わだし……ここさ居だら、迷惑にならねぇべか」
その一言に、大地の眉がかすかに揺れた。
「迷惑なら、そもそも引き留めない」
短く、きっぱりとした返答。
『……俺も、お前がいた方がいい」
最後の一言だけ、ほんのわずかに声が低くなる。
センリの胸の奥で、何かがきゅっと締めつけられた。
(……ずるいし)
そんな言葉が、喉まで出かかったが、飲み込んだ。
代わりに、手首の鎖が小さく鳴る。
まるで「はい」と返事をしたみたいに。
「……少しだけ、なら」
センリは、ぎゅっと大地の手を握り返した。
「少しだけ、この国さ居ても……いいですか」
大地の瞳が、ほんの少し和らぐ。
「少しで済めばいいがな」
「……へ?」
「いや、何でもない」
大地はわずかに口元を緩めると、つないだ手を離さないまま言った。
「歓迎する、センリ。
―魔王の治める黒の王国へ』
その言葉に、薔薇の鎖が、はっきりと鳴り響いた気がした。




