39
日々は、ただ過ぎていった。
センリがいなくなったその日から――
黒の王国の時は確かに進んでいるのに、黒の魔王の心だけが、あの青い月の夜に置き去りにされたままだった。
国内から「側室を」という声は、
もう二度と上がることはなかった…。
空の王国は滅び、裏切った貴族たちは一人残らず粛清された。
番を奪われた王の怒りを目の当たりにした者たちは、二度と「器」や「側室」などという言葉を口にできなかったのだ。
だが、声が途絶えたのは黒の王国の中だけだった。
隣国から、他種族から――
文だけは、淡々と届き続ける。
魔王様の寂しさを癒やすために我が娘を。
黒の血を絶やさぬために、我が姫を。
番を失った王に、新たな伴侶を―。
書かれている文言はさまざまだが、どれも本質は同じだった。
強い魔王の血を、次代へと繋ぎたい。
センリがかつて「器」と呼ばれたように、
彼らは新たな“器”を差し出そうとしている。
桜鬼がその文を執務机に並べるたび、大地は一度だけ目を通す。
そして―
どの文にも、返事を出さなかった。
「陛下、いかがなさいますか」
桜鬼が問う。
大地は、窓の外に目を向けたまま、低く答える。
「……保留だ」
同意するとも、否定するとも言わない。
“もし、その相手がセンリなら”と、一瞬でも考えてしまう自分がいる。
(センリが生まれ変わっていたら………)
そんなあり得ない問いが喉に引っかかり、
返事はいつも曖昧なまま宙ぶらりんになる。
文は積み上がり、いつしか一つの箱を満たした。
だが、そのどれにも、魔王の署名は記されない。
春が過ぎた。
黒の王国のメロン畑に、今年も新しい芽が顔を出す。
苗を植え、蔓が伸び、花が咲く。
大地は例年と同じように、土をならし、水の量を調整し、病気の葉を摘んで回った。
ただ、一つだけ違うのは――
作業の合間、振り返ってもう誰もそこには立っていないということ。
『おっきぐなるべなぁ……楽しみだね!』
嬉しそうに笑いながら、未熟な実を両手で包んでいたセンリの姿は、どれだけ目を凝らしても見つからない。
初夏、メロンが丸く膨らみ、甘い匂いを漂わせはじめた頃。
大地は、今年一番の出来だと自ら見定めた一玉を、静かに両手で抱え上げた。
「……いい出来だ」
誰に言うでもなく、呟く。
かつてなら、この一番のメロンは決まってセンリのためのものだった。
甘くて、よく冷えた果肉をスプーンですくっては、嬉しそうに頬張る姿を見ているだけで、どんな争いの疲れも溶けていった。
『大地さんも食べるべ? ほら、あーん』
そんな声が幻のように耳元で蘇る。
大地はしばらく黙って、腕に抱えたメロンを見つめていた。
そして、そっと倉庫の片隅に置く。
誰にも食べさせないまま、やがてそのメロンは静かに熟し、香りだけを畑に残して消えていった。
秋が来る。
黄金色に染まった畑で、収穫が行われる。
センリが生きていた頃なら、
収穫のたびに彼女は侍女たちと一緒に走り回り、
小さなひつじ耳を揺らして笑っていた。
今年の秋は、代わりに咲彩が現場に顔を出した。
「親父、ここの段差危ないから整備しとけよ。
母さんだったら絶対ここでこけてただろ」
「……そうだな」
言葉を交わすことはできる。
冗談を言えば、咲彩は呆れたように笑い、煉獄は豪快に騒ぐ。
国は、回っている。
会議も、裁定も、戦後処理も。
黒の王として為すべきことは、すべて滞りなくこなされていった。
ただ、仕事を終えて執務室に一人残されたとき―
大地はふと、窓の外を見つめる時間が増えた。
そこに、誰もいないことを知っていながら。
冬が来た。
静かに、雪が降る。
黒の王城の中庭も、メロン畑も、白く覆われていく。
ひつじ族の大臣の姿は、どこにもない。
積もり始めた雪を窓越しに眺めながら、大地は思う。
(あの夜も、こんなふうに……)
あの時のセンリの涙も、こんな雪のように静かに落ちていた。
声にならない痛みを抱えたまま、笑おうとして、うまく笑えなかったあの顔を思い出す。
手首に触れる。
そこには、何もない。
薔薇の鎖は、もう目に見える形では存在しない。
けれど、大地は時々、空を見上げる癖が抜けなかった。
青い月の夜。
アクアの青い光。
光に溶けて消えたセンリの姿。
あれは夢ではない。
どれだけの夜が明けてもあの光景だけは瞼の裏に鮮明に焼きついている。
「……センリ」
名を呼ぶ。
返事はないことを知っていて、それでも――
机に山積みになった書類は、いつものように片付いていく。
国の収支も、軍備も、法も、すべては整えられ続けた。
黒の魔王としての大地は、一片の綻びも見せなかった。
だが、その心は――
また出会うと誓った番を待ち続ける、その一点以外はすべてが、からっぽだった。
雪は、静かに降り続く。
黒の王国の冬は、例年よりも冷たく長かったが、
それでも春は必ず巡ってくる。
番を失った魔王の心にも、
いつの日か、もう一度“芽吹き”が訪れるのか――
それを知るのは、まだ遠い、遠い先のことだった。




