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翌朝――
黒の王城の廊下には、まだ雨上がりの冷たい空気が残っていた。
窓から差し込む朝日が、濡れた石畳を細く照らしている。
センリは、そわそわと指先をいじりながら歩いていた。
(……なんで、こんなことになってんだべ)
理由は、分かっている。
――手首の、鎖だ。
朝、目が覚めた時にやっぱり見えていた。
手首に巻きついた淡い光の鎖。
それは、昨夜よりも少しだけ、はっきりしている気がした。
鎖は静かに脈打つように光りながら、まるで道案内みたいに前へ伸びている。
センリが一歩進むたび、しゃらり、と音もなく揺れて進むべき方向を示してくるのだ。
「……好き勝手に連れ回してくれるなや……」
小声で文句を言いながらも、センリの足は止まらなかった。
角をひとつ曲がると、昨日とは違う、重厚な扉が見えてきた。
周囲には、見張りの兵が二人、直立している。
鎖は、そこでぴたりと止まった。
手首から伸びる光が、扉の向こう側に吸い込まれていく。
(……たぶん……いる。魔王さまが)
センリは、ごくりと喉を鳴らした。
ここは、黒の魔王の執務室―昨日の夜、城内を案内されたときそう桜炎から聞いている。
国を動かす書類が山のように積まれ、宰相や側近たちが出入りする場所。
そんなところに、ひつじ国の娘が勝手にノコノコ来ていいのか?
非常識じゃないか。
迷惑なんじゃないか。
頭ではそう考えながらも、手首の鎖は、じっとりとしたあたたかさで彼女を前へ前へと押し出してくる。
「……やめろってば……」
袖の上から鎖を押さえ込みながら、センリは小さく深呼吸した。
廊下を行き来する侍女や兵士たちの視線が気になる。
でも、逃げ出したくなる足を、なんとか踏みとどまらせる。
(お礼、言わねぇと……)
昨夜、あの魔王は言ってくれた。
―お前がいなければ、この国は水に沈んでいた。
―お前は、俺の国を救った。
その言葉が、ずっと心の中であったかく響いている。
(ちゃんと、礼を言って……それから……)
それから、何を言うつもりなのか、自分でもよく分からない。
運命とか、相手とか。
そんな大それた話をするつもりなんて、ない。
けれど―手首の鎖は、そういうことを言わせたそうにしている。
「……バカだな、わだし」
苦笑しながら、小さく肩をすくめた。
それでも最後には、センリはきちんと背筋を伸ばす。
「ひつじ国のセンリです。……昨日の夜泊めていただいたお礼ど、ご挨拶させでください。黒の魔王さま」
扉の前で言って扉をノックする。
手首の鎖が、期待するように微かに鳴った。
しばしの沈黙。
やがて―中から、低くよく通る声が返ってきた。
「入れ」
(……やっぱり、いた)
胸がどくん、と大きく跳ねる。
鎖が、喜ぶようにじんわりと熱を帯びた。
センリは、震えそうになる手をぎゅっと握りしめ、ゆっくりと扉へ手をかけた。
その先にいるのは―嵐の夜、自分の手を取ってくれた魔王。
そして、きっと、自分の運命を変えてしまう相手。
重い扉が、静かに開いていった。




