38
青い月の下に、重い気配がもうひとつ落ちた。
「……黒黎」
空から地へ静かな声が響く。
青の外套を揺らしながら、アクアが塔の上へ姿を現した。
その瞬間、咲彩が立ち上がる。
ふらついた足で、まっすぐアクアに向かって歩き―
胸ぐらをつかんだ。
「……光皇」
「光皇じゃねぇよ!!」
怒鳴り声が、夜を裂く。
「“手を打つ”って言ったくせに、あんた何してたんだよ!ふざけんな!!」
腕に込める力が震えている。
涙で濡れた瞳が、真っ直ぐアクアを睨みつける。
「母さん、連れてかれて、一年も見つけられなくて……!今日だって、白鬼がここに来てもあんた何もしなかっただろ!!」
アクアは、その怒りを正面から受け止めた。
抵抗も、言い訳もせずに。
「……すまない」
短く、それだけを言う。
「私が思っていたより、白鬼の動きが早かった。
いや……言い訳だな」
視線を落とし、握った拳に爪を立てる。
「ここまでやるとは思わなかった。
“番の切断”だけでなく、“器”として使い潰すところまで―私の読みが甘かった」
「甘かった、で済むかよ!」
咲彩がさらに掴む手に力をこめる。
「母さん、死んだんだぞ……!」
「分かっている」
アクアは、静かに咲彩の手を外した。
そして、センリを抱いている大地の前まで歩み寄る。
そっと、膝をついた。
「黒黎」
アクアは、センリの額の少し上に手をかざした。
青い魔力が、静かに揺らめく。
「私は調停者だ。
国と国の戦だけじゃない。時に“理不尽”そのものと向き合わねばならない立場だ」
青い光が、かすかにセンリのまわりを包む。
すでに途切れた命の流れを、じっと見つめながら。
「今回、お前と番を引き離したのは、ただの権力争いでも、戦の結果でもない。
空の歪んだ理屈と、白鬼の“切断”が組んだ、あまりにも一方的な暴力だ」
アクアは目を閉じた。
「調停者として―このまま“終わり”にするには、あまりにも理不尽だ」
その言葉とともに、彼はゆっくりと宣言する。
「だから、天秤を少しだけ動かす。
この魂を、“転生”させる」
大地が顔を上げた。
赤い瞳に、かすかな光が戻る。
「……転生」
「ああ」
アクアは頷く。
「同じ魂を。同じ記憶を持つ者として。
別の時代、別の器に生まれさせる」
そこで、言葉を一度切る。
「ただし、時間がかかる。
もしかしたら今すぐでも生まれ変わるかもしれない。
でもそうではなく百年か、それ以上か―いつとは、言えない。」
風が、塔の上を撫でる。
大地は、腕の中のセンリを見下ろした。
痩せた頬。
眠るように閉じた瞳。
青い月の光に照らされてもなお、彼女は彼の“センリ”だった。
「どうする?」
アクアが問う。
「このまま、ここで安らかに眠らせることもできる。
それが自然な流れだと、世界は言うだろう」
けれど、と彼は続ける。
「番を奪われ、鎖を断たれたまま終わらせるのは、あまりにも不均衡だ。
調停者として、私は“もう一度出会う道”を提示する」
塔の上の空気が、静まり返った。
咲彩も、煉獄も、桜鬼も桜炎も。
みな、大地の答えを待っている。
大地は、長く息を吐いた。
震える指で、センリの髪を撫でる。
頬に触れる。
その感触を、ひとつ残らず刻みつけるように。
「……もう一度」
かすれた声で、言葉を紡ぐ。
「もう一度……会えるなら」
喉の奥で、何かがつかえる。
それでも、言葉を止めない。
「何年でも、何百年でも……待つさ」
赤い瞳に、静かな決意が宿る。
「俺は……センリを“番”と呼んだ。
なら、番のいない時間なんて……
いくら長くても“つなぎ”みたいなもんだ」
ほんの少しだけ、唇の端を歪める。
「もう一度会えるなら……何度でも、そこから始めればいい」
アクアは、その答えを聞き、ゆっくりと目を細めた。
「そうか」
青い光が、センリの身体を包み始める。
「なら―別れを告げてやれ。
しばらく、会えないのだから」
ひとりずつ、センリの側へ歩み寄る。
煉獄が、最初だった。
「おい、センリ」
いつもの威勢のいい声ではなく、かすれた低い声。
「お前の作った飯、また食わせろよ。
泣きながら笑うみてぇな顔も、また見せろ」
ごつい手で、そっと頭を撫でる。
「……だから、さっさと戻ってこい。黒の王国が冷めちまう」
次に、桜鬼と桜炎。
「センリ様」
桜鬼は、深く頭を垂れた。
「私の至らなさで、お守りできなかったこと……お詫びのしようもございません」
桜炎がセンリの手を握る。
「戻っていらしたら、また一緒に畑の収支を計算しましょうね」
少しだけ笑おうとして失敗する。
「今度は、赤字を出さないように努力しますから」
咲彩が、ふらふらと歩み寄る。
子どもの頃のように、センリの胸元に顔を寄せた。
「……母さん」
ひとこと呼ぶだけで、喉がつまる。
「私、ちゃんと王やるから。
父さんの暴走も、煉獄のバカも止めるから」
声が震える。
「だから……早く戻ってきて。
私、また“母さんのメロン”食べたい」
涙がぽろぽろ落ちて、センリのドレスを濡らした。
最後に、大地。
大地は、ゆっくりとセンリを抱き直す。
腕の中の重みが、もうすぐ消えることを、身体のどこかが理解していた。
「……センリ」
名前を呼ぶ。
「約束を、守れなかったのは……俺の方だ」
喉の奥で、苦い笑いがこぼれる。
「“守る”って、あの時言ったのに……
お前を、一人にした」
センリの指を、自分の指で包む。
冷たくなりかけた指先が、小さく揺れた気がした。
「……帰ってこい」
短く、しかし深く。
「待ってる」
額と額を合わせる。
青い月の光の中で、ゆっくりと唇を重ねた。
熱のない、静かな口づけ。
それでも、そこには確かな“誓い”があった。
「――始める」
アクアが、両手を広げる。
青い魔力が、塔の上に満ちていく。
風が円を描き、センリの身体の周りに光の紋様が浮かび上がる。
天制玉のネックレスが、胸元で淡く光った。
「あれは……」
「魂の“座標”だ」
アクアが短く答える。
「この石がある限り、魂は迷わない。
――必ずここへ帰ってくる」
彼は、指先でそっと印を結ぶ。
「今度は、世界の方に刻み込んでやる。
“この魂は、黒黎の番だ”とな」
光が強まる。
センリの輪郭が、透けてゆく。
抱いている大地の腕を、すり抜けるように薄れていく。
「……っ」
思わず、力がこもる。
それでも、もう掴めない。
最後に、ひつじ耳がふるりと揺れた。
風に囁くような声が、誰かの耳に届いたかもしれない。
そして――
センリの身体は、青い光に包まれ、そのまま空へと溶けていった。
天制玉のネックレスもまた、同じ光に飲み込まれ、跡形もなく消える。
腕の中には、何も残っていない。
けれど。
風が、確かにこう囁いた気がした。
(――また、会うべ)
黒の王城の塔の上で、
運命の鎖は一度、完全に途切れた。
だが同時に。
別の場所、別の時間へ向けて――
新しい“座標”が、静かに描き込まれたのだった。




