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細い指が、彼の胸元の布をつまんだまま、力を失っていく。
「……約束………守れな…かった。ずっと……そばに……いるって」
息を吐くたび、白く曇る唇。
震える声は、もうほとんど風の音と変わらない。
大地は、喉の奥を押しつぶすようにして言葉を絞り出した。
「…………帰って……来ただろ?」
腕の中で、センリがほんのわずかに目を細める。
長いまつげが震え、痩せた頬を一筋、涙が伝った。
「また…会えたら……今度は……ずっと…………」
そこで、言葉が途切れる。
胸に預けられていた重みが、ふっと軽くなった気がした――嫌な予感に、心臓が跳ねる。
「センリ……?」
呼びかけても、返事はない。
さっきまでかすかに揺れていたまぶたが、静かに閉じたまま動かない。
つないだ手から、体温が少しずつこぼれ落ちていく。
「センリ、目を開けろ」
揺さぶる。
そのたびに、痩せた身体が力なく揺れるだけだ。
「センリ!!」
叫びが、塔の上で弾けた。
青い月の下、風が一瞬止まる。
兵たちは息を飲み、咲彩は唇を噛みしめて目を見開いた。
大地は、何度も名を呼ぶ。
「センリ……おい、起きろ……冗談だって言え……」
耳元で囁いても、その耳はもう小さく震えない。
胸に耳を押し当てる。
聞き慣れた鼓動はどこにもなく、代わりに自分の荒い心音だけが響いていた。
理解した瞬間、世界から音が消えたように感じた。
喉の奥が焼ける。
視界が、にじんで見えなくなる。
腕の中のセンリは、穏やかな顔をしていた。
まるで、長い旅の果てにようやく安らぎを見つけたみたいに。
「…………嫌だ」
子どものような声が、魔王の喉から漏れた。
「まだ……何も返してねぇ。
メロンも、畑も、約束した未来も……何ひとつ、渡してねぇんだぞ……」
額を、そっと彼女の額に押し当てる。
冷たい。
頬を伝う涙が、センリの肌に落ちた。
「戻ってこいよ……センリ……」
返事はどこにもない。
青い満月だけが、静かに二人を照らしていた。
咲彩は、その場に膝から崩れ落ちた。
「……………母さん」
震える声でそう呼んだきり、もう言葉が続かなかった。
金の魔力を宿すはずの手が、小さな子どものように震える。
マリアディアが後ろから抱きとめ、カイスターンがそっと肩を支える。
「泣いていいのですよ、咲彩様」
「今は……王でも光皇でもなく、ただの娘でいてください」
二人の言葉に、張り詰めていた糸が切れた。
「いやだ……母さん……母さぁんっ……!」
咲彩の泣き声が、青い月の下に響き渡る。
その姿に、兵も侍女も誰一人として顔を上げている者はいなかった。
皆、地に額を押しつけるように俯き肩を震わせる。
少し離れた場所で、煉獄も拳を握りしめていた。
熱血漢の赤の魔王の頬を、熱いものが静かに伝う。
「……っくそ……なんでだよ……」
いつもなら声を張り上げる男が、今だけは誰にも聞こえないほど小さく呟く。
こらえていた嗚咽が、喉の奥でにじんだ。
桜鬼は、無言で剣の柄を握りしめていた。
爪が皮を切り、血がにじんでも緩めない。
(守れなかった……)
桜炎は、その横顔を見つめながら、ただ唇を噛む。
あの夜会の最中、自分がほんの一瞬でも目を離さなければ………
―そんな「もしも」は、もう意味を持たないのに。
風が、塔の上を吹き抜ける。
精霊が放った風も、アクアの見守る空も、
もうこの場所にいるセンリを守ることはできない。
黒の魔王の腕の中で、
センリは静かに眠り続けていた。
―すべてが、終わってしまったように見えた。
けれど、この夜こそが始まりだった。
運命の鎖を断たれた魔王が、再び鎖を求めて彷徨う、長い長い百年の物語の―
その、最初の終わりだった。




