36
その夜、空には青く輝くような満月が浮かんでいた。
普段は金色の光を帯びる月が、まるで世界の色を奪うような蒼に染まっている。
黒の王城の最上階―見張りの兵が、ふと肌を刺すような寒気に襟をすくめた。
「……なんだ、今の……」
次の瞬間、風が切り裂かれる。
空間が“線”となって割れ、その裂け目から、白い影が滲み出るように現れた。
白い髪。
片目を覆う黒い眼帯。
氷のように冷たい銀の瞳。
「し、白……の、魔王……!」
兵の声が震えるより早く、その男はなにかを片手でつまむように持ち上げ、塔の床へと投げ捨てた。
――鈍い音が響く。
小さな身体が、乱暴に石床へ転がった。
「……っ!? センリ様!」
駆け寄った兵が息を呑む。
そこに横たわっていたのは、ぼろぼろの青い布をまとった少女。
ひつじ耳は痩せこけた頬に沿って垂れ、髪は艶を失い、体は骨ばっている。
けれど、その顔を、兵たちはよく知っていた。
「……母さん…!」
駆けつけてきた咲彩が、思わず叫ぶ。
その声に反応するように――
重い足音が、塔の階段を駆け上がってくる。
階段を登りきる前から、嫌な気配を感じていた。
運命そのものが、焼け焦げるような――
大地は、肩で息をしながら塔の上へと出る。
視界に飛び込んできたのは、青い月の下で横たわるセンリの姿だった。
「……センリ」
息が止まる。
あまりにも――軽い。
膝をつき、抱き上げた瞬間、腕に伝わる重みのなさに、大地の胸はきしむ。
指の下から伝わる肋骨の感触。
かすかに震える息。
生きてはいる。だが、その命の火は今にも消えそうに揺れていた。
「た…だいま…だいち……ん……」
かすれ切った声が、喉の奥から漏れる。
「ごめんね…大地さん……約束……守れねで……」
「しゃべるな」
大地は、震えそうになる声を押し殺した。
腕の中のセンリは、あまりにも冷たかった。
まるで、もうすぐこの腕から零れ落ちて溶けてしまう雪のように。
そんな大地の背後で、白い男が愉快そうに笑う。
「約束どおり返してやるよ」
白鬼―白の魔王は、青い月を見上げながら、淡々と告げた。
「もう長くはもたないだろうがな」
その声は、風に紛れるほど軽い。
だが、その後に続いた言葉は、石のように重く塔の上に落ちた。
「いい仕事をしてくれた。魔王の子を産んでくれた。白を継ぐ―最強の魔王種をな」
咲彩が息を呑み、兵たちがざわめく。
だが、大地の耳には、何ひとつ届いていなかった。
ただ、腕の中のセンリの脈だけを数えている。
弱く、細く、それでも懸命に打ち続けている鼓動を。
「本来な」
白鬼が、楽しげに続ける。
「魔王の子を産めるのは、一人の女につき一人だけだ。命を削るからな。器が壊れる。限界だ」
銀の瞳が、抱きしめられたセンリを冷たく見下ろす。
「でもこいつは二人目を宿した。
……面白いだろ?」
大地は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、炎はない。
ただ、底なしの暗闇があるだけだ。
「……センリに、触れるな」
「もう用は済んだ。二度と触る気はない」
白鬼は肩をすくめる。
「だが、お前のその顔―愉快だ。
もっと早く攫っておくべきだったかもしれん」
笑い声さえ、氷の刃のように耳を刺す。
「安心しろよ、黒黎」
白鬼は、片目を細めた。
「そのうち、お前も送ってやる。
その女がこれから向かうあの世へな」
その瞬間――
大地の中で、なにかが切れた。
ほんの一瞬、時間が止まったように感じた。
青い月。
白い魔王の笑み。
腕の中のセンリの重み。
すべてが、ひとつの色に飲み込まれる。
熱ではない。
怒りですらない。
ただ、耐えきれないほどの痛みが、胸の奥から溢れた。
「…………センリ」
その名を呼んだとき。
頬を伝うものがあった。
熱い雫が、センリの髪に落ちる。
それが自分の涙だと気づくまでに、少し時間がかかった。
黒の魔王が―初めて、人前で泣いていた。
震える腕で、センリをさらに強く抱き寄せる。
「大地さ……」
「いい。喋るな」
喉が焼ける。
声にすれば、全てが崩れてしまいそうで。
「俺が……守れなかった」
自分を責める言葉が、奥歯の隙間からこぼれ落ちる。
白鬼は、その光景をしばらく眺めていた。
「……ふん」
つまらなそうに鼻を鳴らす。
「泣く黒の魔王、ね。
お前らは壊すに限る」
風が、再び塔の上で渦を巻いた。
「じゃあな、黒黎。
あの世でその女と再会を祝える日を楽しみにしていろ。俺が殺しに来るまで地獄を生きてな」
鋭い線が、空を走る。
白鬼の身体は、空間の裂け目に溶けるように消えた。
残されたのは、大地とセンリと……
青い月だけ。
冷たい夜気の中で、黒の魔王の小さな嗚咽だけが、いつまでも響き続けていた。




