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足もとが定まらない。
視界の端が、にじんだ赤と黒でぐるぐると回る。
喉はひどく渇いているのに、胸の奥は氷を呑み込んだみたいに冷たい。
「陛下、こちらです。もう少しでお部屋に着きます」
桜鬼の声が、遠くで響いているように聞こえた。
肩を貸され、半ば引きずられるように歩く。
大地は、噛みしめた奥歯のきしむ音だけを頼りに、どうにか一歩ずつ前へ足を出していた。
曲がり角をひとつ抜ける。
見慣れた黒の扉―自室の前が、視界の先ににじんで見えた。
(もう少しで―)
そう思った瞬間だった。
ぞわり。
背骨を、冷たい刃物でなぞられたような悪寒が走る。
膝が、がくんと抜けた。
「……っ、陛下!?」
桜鬼が慌てて身体を支える。
だが、大地は桜鬼の手を振りほどき、荒い息のまま、自分の左手首を見下ろした。
そこには――
何も、なかった。
確かにあったはずの、温かな重み。
目に見えなくても、いつも皮膚のすぐ下で寄り添っていた感覚。
運命の鎖。
センリと自分を結ぶ、薔薇の鎖。
それが―音もなく、ぷつりと消えていた。
「……………………は?」
一瞬、頭が真っ白になった。
理解が、世界のほうを拒否する。
あり得ない、と本能が叫ぶ。
あり得てはならない、と魔王としての理性が悲鳴を上げる。
けれど、現実は残酷に、ただそこに“空白”を突きつけてくる。
繋がっていたはずの場所に、何もない。
胸の奥で、遅れて激痛が爆ぜた。
「―センリ」
かすれた声が、喉からこぼれる。
「センリ……?」
呼び名を重ねた瞬間、
肺の中の空気が、全部どこかへ逃げていった。
大地は、立っていられなくなった。
崩れ落ちるように膝をつき、床に手をつく。
石畳が、爪の下で軋む。
「陛下、しっかり―」
「……センリ……」
唇から漏れたのは、ひとりの男の声だった。
魔王でも、王でもない。
ただ、最愛のものを失いそうな悲痛な声。
胸の奥で、何かが叫ぶ。
嫌だ、と。
認めるな、と。
まだ繋がっているはずだ、と。
それでも。
どれだけ必死に手首を握りしめても、
薔薇の鎖は、もうそこにはない。
「センリィィィィィーーーーーっ!!」
喉が裂けるような声が、城を揺らした。
回廊の遠くで、兵たちが驚いて足を止めた。
大地は、残っていた力を総動員するみたいに、床を叩いて立ち上がった。
「陛下、どこへ――」
「広間だ」
先ほどまでの朦朧とした声が嘘のように、低く、鋭くなる。
「センリの気配が消えた……!」
足はふらつく。
視界もまだにじんでいる。
それでも、大地は前へ進んだ。
壁に、床に、時に桜鬼の肩に手をつきながら、ほとんど這うように。
ただ、ひとつの場所へと。
広間に戻ると、そこは戦場のあとだった。
割れたグラス。
倒れた椅子、こぼれたワイン。
床には、見慣れた宴の色ではなく、切り裂かれた空間の名残のような“線”が走っている。
マリアディアが、まだ咲彩の傍らで処置を続けていた。
カイスターンも、煉獄の毒の流れを抑えるために魔力を注いでいる。
その少し離れた場所に、桜炎が膝をついていた。
いつもの余裕ある笑みは影もない。
唇を噛みしめたまま、床に刻まれた線を睨みつけている。
「……センリは。センリはどこだ」
大地の声に、広間のざわめきがぴたりと止まった。
誰も、答えない。
答えられる者が、いなかった。
桜炎が、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳の奥には、悔しさと、自分自身への怒りが滲んでいた。
「……申し訳……ありません……」
その言葉だけで、何が起きたのか、大地には分かってしまった。
足が、自然と前に出る。
広間を見渡す。
いつもなら、すぐに目につくはずのピンクの髪。
ひつじ耳の、心細げな輪郭。
どれだけ探しても―どこにも、いない。
嗅ぎ慣れた匂いも。
胸の奥で答える気配も。
すべてが、跡形もなく削ぎ落とされていた。
「センリ……」
喉の奥から洩れた声は、ほとんど呼吸の音に近かった。
そこにいない、という事実が、
これほどまでに世界を空洞にするのかと、思い知らされる。
手首の“無”が、改めて痛み出す。
(俺から、奪ったのか)
薔薇の鎖ごと。
運命ごと。
頭の中で、白い髪と片目のない顔がちらつく。
(白鬼……)
奥歯が砕けるほど噛みしめる。
空の王国。
天空人。
白の魔王。
すべての線が、一気に一本に繋がっていく。
広間の真ん中で、大地はゆっくりと膝をついた。
掴みたいものはもう掴めない。いつも腕の中にいるはずの温もりはそこにはない。
ただ、胸の奥の空洞だけが、残酷なほどはっきりしていた。
「センリ…………」
名を呼ぶ声が、静かに震える。
「必ず……連れ戻す」
誰に聞かせるでもない誓いだった。
けれどその言葉は、血の味と一緒に、
黒の魔王の喉奥に深く刻まれた。




