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会談からふた月―
空の王国からの使節が黒の王城に到着した。
アクアの計らいで設けられた地上での宴。
城は、一見華やかな賑やかさに包まれていた。
広間に吊るされたシャンデリアの灯りが、ワイングラスと宝石を照らす。
黒と金を白と…様々な彩りの夜会服の群れ。
その中で、ひときわ淡い光を纏っている一団がいた。
天空人の使節団。
硝子のような瞳と、白銀の髪。
地上の者たちとは違う、どこか軽やかで冷たい雰囲気をまとった彼らが、次々に挨拶へと歩み寄ってくる。
玉座の段差には、大地とセンリと咲彩。
その下に、煉獄、桜鬼、桜炎、そして吸血鬼の女王マリアディアとエルフの王子カイスターンが顔を揃えていた。
「黒の王国が、これほど華やかな夜会を開くなんて」
マリアディアがワイングラスをくるくる回しながら、楽しげに笑う。
「番の護りを優先なさる魔王様が、わざわざ“夜会付き”の歓待。青の魔王様の計らいとは言え……
空の王国も、随分と特別扱いされているのね」
「お前が余計なことを言うと、全部嫌味に聞こえるんだが」
煉獄が肩をすくめる。
「だがまぁ、今日は正式な席だ。喧嘩は明日にしろよ」
「喧嘩するとは言ってないわ」
マリアディアは紅い唇で笑った。
「“観察”するだけよ」
その視線の先では、咲彩が天空人の若い使節と形式的な挨拶を交わしていた。
やがて、乾杯の時間が来る。
給仕たちが、トレイに乗せたグラスを運んでくる。
煌めく液体が、次々と各々の手に渡った。
「黒の王国と、空の王国の友好に」
空の使節団の代表と、大地が並んでグラスを掲げる。
大地は、ちらりとセンリを見る。
センリは緊張しながらも小さく頷き、ひつじ耳を揺らした。
全員が一斉にグラスを傾ける―その瞬間。
ワインの香りに紛れて、かすかに違う匂いがした。
甘さとも苦さともつかない、妙な香り。
(……?)
咲彩が一瞬眉をひそめたときには、すでに遅かった。
喉を通る液体。
じわり、と胸の奥がざわつく。
「……なんか、変な――」
言いかけた咲彩の視界が、ぐにゃりと揺れた。
「咲彩様!?」
真っ先に気づいたのはマリアディアだった。
咲彩が胸を押さえ、膝をつきかける。
すぐさま桜鬼が支え、煉獄が近くの卓を蹴り飛ばすように退けてスペースを作った。
「っ、くそ……」
煉獄自身も、胸の奥から冷たい熱が広がるような感覚を覚えた。
汗がじわりと浮き、手先に力が入りづらい。
「……毒か」
大地が低く呟く。
同時に、自分の体にも異変が起きていることを自覚した。
熱い。
血の流れそのものが、焼けるように熱い。
筋肉が勝手に強張り、鼓動が早まる。
(これは……)
ただの毒ではない。
身体の内側に火をつけるような、いやな熱。
媚薬―そう呼ぶしかない性質のもの。
周囲がざわめき始めるのと、
大地の呼吸が乱れ始めるのは、ほぼ同時だった。
「咲彩様!」
桜鬼が脈を確かめる。
顔色は悪い。だが、呼吸はある。
脈は早いが、不規則ではない。
「……毒だ。だが、じわじわと身体を蝕むタイプというより――」
「魔力を乱す系ですね」
背後から、紅い気配が近づいた。
マリアディアだ。
彼女は咲彩を覗き込み、そしてすぐに煉獄の方へ視線を移した。
「あなたも、少し顔色が悪いわね。煉獄」
「俺はいいから…」
「いいわけないでしょう。そんな真っ青な顔して」
皮肉混じりに言いながらも、その動きは素早かった。
「失礼」
マリアディアは煉獄の手首を取り、脈を確かめる。
舌打ちを一つ。
「魔力と血の流れを乱す毒。
光皇と赤の魔王を狙うなんて、随分と大胆ね、空の王国」
「治せるか」
大地の声が、かすかに震えた。
マリアディアはちらと彼を見た。
その瞳の奥に、いつもと違う赤が宿っているのを、敏感に察する。
(……あなたのは、別のタイプってわけね)
「光皇と煉獄の分なら、どうにかなるわ」
彼女はそう言い切る。
「吸血鬼の血で毒を薄めて、流れを変えてしまえばいい。後で文句を言われても知らないけれど」
「言わねぇよ。さっさとやれ。ただし…」
煉獄が苦笑混じりに吐き捨てる。
「咲彩を先にだ」
「わかっているわ。」
マリアディアは裾を翻し、咲彩に膝をついた。
周囲の兵士と楽団が慌てて下がる。
「皆さん、少し離れて」
カイスターンが、柔らかいが通る声で人々を誘導し始めた。
混乱する夜会の中で、エルフの王子と吸血鬼の女王が、素早く“医療班”に変わる。
その間―
大地は、自分の手を見つめていた。
握るだけで精一杯で力が入る。
身体中で暴れる熱が、制御を失いかけている。
(まずいな)
心の中で、冷静な声が囁く。
(これは“毒”じゃない。
理性を焼き切る類のものだ)
すぐ近くに、センリの気配がある。
心配そうに、何度も彼の名前を呼ぶ声。
「大地さん?大丈夫……?」
センリが近づいてこようとした瞬間―
「来るな」
低く、押し殺した声が飛んだ。
センリの足がぴたりと止まる。
大地は、唇を噛んでいた。
血の味がするほど、強く。
視界の端で、センリの白い喉と、胸元の赤い石が揺れている。
指先が、勝手に伸びそうになる。
その衝動を、必死に押し殺した。
(今、触れたら――)
この手で壊してしまう。
優しく抱きしめる余裕が、今の自分にはない。
ただ、燃えさかるような熱と衝動のまま、貪りつくことしかできなくなる。
「大地さん……?」
センリの声が震える。
ドレスの裾が揺れて、薔薇の鎖が手首の下でかすかに鳴った。
「頼む」
大地は、まるで喉を絞り出すように言葉を吐いた。
「今は……来るな」
握りしめた拳が、白くなるほど強く握られている。
「お前を、壊す」
その言葉に、センリの瞳が大きく揺れた。
怖い、とは思わなかった。
ただ、胸が締めつけられる。
(そんな顔させだぐねぇのに)
大地の中で、別の声が泣きそうに呟いている気がした。
守りたいのに。
抱きしめたいのに。
今、その願いの全部が、毒によって歪められている。
「……っ」
センリは、ぎゅっと手を握りしめた。
足を止める。
それが、大地の必死の願いだと分かったから。
「……わがった」
震える声で、かろうじて答える。
「ここで、待ってるがら」
それだけ告げて、一歩だけ下がった。
それでも視線は外さない。
倒れそうになれば、すぐにでも駆け寄れる距離は保ったまま。
大地は、ほんの一瞬だけ彼女を見た。
その瞳に、悔しさと、怒りと、どうしようもない愛しさが滲む。
(天空人……)
歯を食いしばる。
(番を“器”と呼んで、今度はその番を傷つけるために俺を使う気か)
夜会は、ざわめきと恐怖と怒号に包まれていた。
音楽は止まり、グラスが割れ、誰かが悲鳴を上げる。
その中心で―
黒の魔王は、己の衝動と戦いながら、ただひたすらに一人の女を遠ざけていた。
愛しているからこそ、腕の中に閉じ込めず。
守りたいからこそ、手を伸ばさず。
その選択が、この夜会の“混乱”の中で、
最も痛ましく、切ない光景だった。




