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空の王宮の回廊は、どこまでも白く静かだった。
足もとの半透明の床の下には、雲と青空がそのまま見える。
風は吹かない。
けれど、色んな意味で『高すぎる』と思わせる気配が肌にまとわりついていた。
咲彩は、ひとりで回廊の端を歩いていた。
謁見の間での会談を終え、頭を冷やすつもりで外に出たはずが―冷えるどころか、苛立ちだけが胸に残っている。
(“天候を操る器”ね……)
握った拳に、爪が軽く食い込んだ。
(母さんの名前、一度も呼ばなかったな、あいつら)
空の王とその取り巻きの顔を思い出して、猫耳がぴくりと揺れる。
そのとき、前方の柱の影から、ひとりの男が姿を現した。
長い青の外套。
風もないのに、裾だけがふわりと揺れる。
青の魔王―アクア。
「……こんな高いところ、よく平気な顔して歩けるな」
彼が苦笑まじりに声をかけると、咲彩は肩越しに振り向いた。
「そっちこそ。空の調停者のホームグラウンドじゃないの?」
「ホームってほど居心地よくもないさ」
アクアは欄干に手をかけた。
遥か下、雲の切れ間から、かすかに地上の大地が見える。
「……さっきは悪かった」
ふざけた調子をやめて、ぽつりと本題を落とす。
「………すまないな、光皇」
咲彩は、すぐには答えなかった。
回廊に、風のない風の音だけが流れる。
やがて彼女は、小さく息を吐いて前を向いたまま口を開いた。
「わかってるよ」
それは責めるでも、慰めるでもない声音だった。
「あなたいつも言ってるじゃん。
“俺は空が落ちないように見てるだけだ”って」
自嘲めいたアクアの台詞を、わざとそのまま返す。
「あなたは調停者。中立を保つべき者だ。
私や父や煉獄とは違う」
アクアの横顔が、少しだけ驚いたようにこちらを向いた。
「……怒ってないのか?」
「怒ってるよ」
咲彩は、あっさりと言い切る。
「母さんを“器”って呼ばれて怒ってないわけないし、
あんたがあの場であんまり強く言えないのも、むかついてる」
「正直だな」
「うち、番と家族を軽く見られるとすぐキレる家系だから」
少しだけ自嘲気味に笑う。
「でも、それとこれとは別。
あんたが“調停者”で、“中立”なのは、最初からわかってる」
アクアは、しばらく黙って咲彩を見ていた。
やがて、ふっと目を細める。
「………ありがとう」
短い言葉に、いろんなものを押し込めた。
「中立を選ぶってのはな。
どっちの味方にもなれないってことじゃない」
彼は欄干にもたれ、空を見上げる。
「どっちの“敵”にもなりうる覚悟を持つってことだ。
君の父上にも、天空人にも」
「大変な役回りだね」
咲彩がぼそっと言うと、アクアは「だろ?」と笑った。
「だから、こうやってたまに“わかってる”って言ってもらえると、少しだけ救われる」
「……父さんと母さん、好きだからね。あんたのこと。空と地を守る者だって。
あんたが下手に肩入れしてバランス崩すほうが、きっとあの二人も嫌がる」
「そうかもな」
アクアは、どこか寂しそうでもあり、嬉しそうでもあった。
しばらく二人で黙って空を眺めたあと、
彼はふと真顔に戻る。
「一つだけ……」
風のない空気が、きゅっと締まるような気配。
青の魔王の声が、いつになく低く響いた。
「白に気をつけろ」
咲彩の耳が、ぴくりと立つ。
「……白鬼のこと?」
「ああ」
アクアは視線を地平線の彼方へ向けた。
白の魔王、白鬼の力は切断。
運命も、縁も、すべてを断ち切る力。
「“不合理な鎖を断ち切る”って名目。そして黒黎への恨み。白は喜んで刃を振るう」
咲彩の背中に、薄い寒気が走った。
「空の王国が、番を“不合理”と言い切るのは分かってるな?」
「さっき聞いたばかりだよ」
「なら、あとは足し算だ」
アクアは小さく息を吐く。
「天空人の理屈と、白の“切断”が組めば―
黒の王国から番を奪う計画くらい、簡単に描ける」
「……あんた、それでも中立守るつもり?」
少しだけ責めるように問うと、
アクアは苦い顔で笑った。
「中立を保ったまま、できることをやる」
「器用なまねを」
「調停者ってのは、そういうもんだ」
青の瞳が、咲彩をまっすぐ見つめる。
「光皇。
お前は地上で“番を守る王族”と同盟を結んだ」
吸血鬼とエルフ。
番を軽んじない種族たち。
「俺は空で、“番を切ろうとする奴ら”の動きを抑えられるよう、手を打つ」
「具体的には?」
「和解案を出して天空人を説得する。考えもある。」
即答だった。
「多くは言えなくても“白に気をつけろ”って警告をするくらいなら、中立の調停者にも許されるだろ?」
咲彩は、しばらく彼を睨むように見つめ、それからふっと視線を外した。
「……ずるいよね。そういうとこ」
「魔王だからな」
「魔王のくせに、妙に人間くさい」
言いながら、ほんの少しだけ口元が緩む。
「忠告、ありがと。
白と空が組んで動くのなら―こっちも、それ相応の準備をする」
「黒黎と光皇が本気で守る番を、“理屈だけ”で奪えるほど、この世界は甘くないと、教えてやれ」
「……上から目線の空に、地上の怖さ、叩き込んでやるよ」
回廊の端で、二人は並んで立ったまま、同じ空を見上げた。
この先、嵐が来る。
番を奪いに来る刃と、運命の鎖を断ち切ろうとする力が、確かに迫っている。
それでも――
青の魔王は中立を掲げたまま、
地上の光皇は、番を守ると決めたまま。
それぞれの立場から、同じ一点を見つめていた。
空の王宮の回廊で交わされた、その短い会話は、
やがて訪れる日の静かな序章となるのだった




