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―――雲よりもさらに高く。
空気が薄く、風の流れさえ違う世界。
天空人の王城―空の王国の謁見の間は、まるで空そのものを削って作ったみたいに白く、冷たかった。
床は透き通るような硝子石で、足元には底知れない青が広がっている。
(落ちそうで落ちない床とか、気持ち悪ぃ……)
咲彩は表情ひとつ変えずに、内心でだけため息をついた。
マリアディアとカイスターンとの婚約からひと月。
咲彩は正式な会談として天空人の城に来ていた。
咲彩の正面には、天空人の王とその側近たちが並んでいる。
腰まで届く白銀の髪、薄い水色の瞳。
背に生えた白い羽。
金でも紅でもない、曖昧な色で着飾った衣服は、どこか“自分たちこそが空の主人だ”と主張しているようだった。
「遠路、ご足労いただき感謝申し上げます。黒の王国の光皇様」
王座に座る天空人の王が、薄く笑む。
「地上の王自ら、ここまでお越しになるとは。
黒黎の魔王様は……さぞお忙しいのでしょうね」
視線が一瞬だけ、咲彩の背後―随行している桜鬼や桜炎、そして無言で控える煉獄へと流れる。
「父は“番の護り”で忙しいので」
咲彩はにこりともせずに答えた。
「今日は、黒の王国の国王として、光皇候補として来ています」
「番、ですか」
天空人の王の隣にいた老臣が、わざとらしく小さく笑った。
「魔王種には時に、“番”などという厄介なものが現れると聞きます。魔力と寿命を分け合い、判断を鈍らせる“鎖”だとか」
言葉は柔らかい。
けれど、「厄介」「鈍らせる」という単語は、きっちり毒を含んでいた。
(……運命の鎖を“厄介”呼ばわりね)
咲彩の猫耳が、ぴくりと揺れる。
「ですが、我ら天空人にはそのような不合理はありません」
王は続ける。
「空を治める者は、情ではなく理で判断する。
強い力は“最適な場所”に配分されるべきだと、我らは考えます」
「“最適な場所”ね」
咲彩はあくまで落ち着いた声で返した。
「それが、“ひつじ族の女を黒の王国から引きはがすこと”だと?」
一瞬、空気が冷えた。
老臣が、ゆっくりと扇を畳む。
「誤解なきよう。
我々は、ただ“天候を操る器”が、空の側にある方が理にかなうと申し上げているだけです」
「“器”」
咲彩はその言葉だけを反芻した。
「ひつじ族のセンリは、“黒の王国の大臣”で、“黒黎の番”で、“私の母”です」
瞳の奥で、怒りが静かに燃える。
「それを“天候を操る器”とだけ呼ぶのは、どう理屈を並べても侮辱だと思うけど?」
王の隣にいた若い天空人が、わざとらしく肩をすくめた。
「感情を挟まれると、話が難しくなりますね。光皇様」
「感情を持たない王なんて、地上にはいませんよ」
咲彩が即座に返すと、相手の眉がわずかに動いた。
そこで、後方に控えていた青の魔王アクアが、気まずそうに咳払いをした。
「……まぁまぁ、その辺で」
どこか疲れた調停者の声だ。
「今日は、“一応”話し合いに来てるんだから。
天空人も黒の王国も、“対立の確認”で終わらせるつもりはないだろ?」
天空人の王は、アクアにちらりと視線を向ける。
「天空の調停者殿が、我らの側に立つことはないと理解しています。貴方はいつも通り、中立を装われる」
「“装う”って言い方はひどいな」
アクアは苦笑する。
「俺はただ、地も天もまとめて“落ちたら困る空”を見てるだけだよ」
その軽口も、天空人たちにはどこか鼻につくのかもしれない。
王の一団は、どこか一段高い場所から、地上の全てを見下ろしているような目を崩さなかった。
「光皇様」
再び、天空人の王が咲彩を見た。
「貴方様にはすでに吸血鬼とエルフという婚約者がいるとか。それ自体は悪くない選択でしょう」
唇にだけ笑みを浮かべる。
「ですが―貴方が番を得ようと、その番が誰であろうと。“天候を操る器”は、空にあるべきです」
はっきりと言い切った。
「地上の畑を守る程度の仕事なら、
我々の管理する“空のシステム”の一部に組み込めばよい。個人の番だの、情だのに縛らずに済む」
その瞬間、咲彩の中で何かがすっと冷えた。
(ああ)
心の中で、短く吐き捨てる。
(こいつら……)
この強気。
国境を平然と越えた“管理”発言。
センリを“個人”として一度も見ていない言い方。
(やっぱり、黒幕か)
貴族たちを焚きつけ、
「側室」「器」「他国へ嫁がせる案」を繰り返し吹き込んでいた影。
その根っこが、今、目の前で平然と“理屈”を語っている。
咲彩は、椅子の肘掛けをそっと握りしめた。
爪が食い込む感覚で、かろうじて平静を保つ。
「―ひとつ、確認しておきたいことがあります」
声は静かだった。
「空の王国にとって、“番”とはなんですか?」
空気が、また一段と冷たくなる。
王は、さも不思議そうに首を傾げた。
「“特定の個体に魔力と寿命を偏らせる、不合理な契約”」
淡々と言い切る。
「天空人には、必要のないものです」
その答えに、咲彩の中で、疑いは完全に確信へと変わった。
(……番を切り捨てる価値観)
運命の鎖を「不要」と言い切る王。
“空のシステム”とやらに組み込みたいと言ってのける連中。
(センリを攫って、父さんとの鎖を切って、
“器”として空の国に組み込む――)
その筋書きを描けるのは、きっとこの種族しかいない。
咲彩は、猫耳をぴんと立て、細く息を吐いた。
「―ありがとう。よく分かりました」
「何を、でしょう」
咲彩の黒い瞳が、まっすぐ天空の王を射抜く。
「少なくとも、“同盟相手”の話じゃない」
謁見の間の空気が、きしりと軋んだ。
アクアが「おいおい」と額に手を当てる。
だが、止めることはしなかった。
咲彩ははっきりと理解したのだ。
天空人はただの「厄介な隣国」ではない。
センリを器として狙い、
黒の王国の空ごと握ろうとしている――
本物の黒幕だと。




