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城門をくぐり、濡れた石畳を踏みしめて大広間へ入ると、すぐに足音が二つ駆け寄ってきた。
「陛下!」
黒い軍服に赤い縁取りを施した男。鬼神の一族と狼族の血を引く側近。―宰相の桜鬼が最初に声を上げる。
そのすぐ後ろから、書類束を片腕に抱えた女。桜鬼の妹―秘書官の桜炎が、裾をつまみながら小走りで現れた。
「どうしたと……えっ? この子は?」
桜炎の視線が、大地の隣に立つ羊角の少女に吸い寄せられる。
城に慣れないのか、少女はきょとんと辺りを見回し、濡れた外套の裾をぎゅっと握りしめていた。
大地は濡れた前髪を指で払うと、短く言った。
「―彼女が天を止めた。雨が止んだ」
その一言に、桜鬼の目が大きく見開かれる。
「……まさか、この嵐を、ですか?」
「わだしのできる範囲で……だけども……」
少女はおずおずと金色の球――天制球を抱え直し、ぺこりと頭を下げる。
「黒の王様さ困ってるって聞いで……わだしの力でなんぼか役に立つならと……その……」
訛り混じりの言葉が、広い大広間にふんわりと落ちていく。
桜炎は一瞬ぽかんと口を開け、それからじろりと大地を見上げた。
「……陛下。嵐のど真ん中から、また妙に可愛い子を拾ってきましたね?」
「拾ってきたわけではない」
大地はむっと眉をひそめる。
「天をねじ伏せた。黒の王国を沈没から救ったんだ。だから連れてきた。」
「天候を……制御した、ということですか」
桜鬼が一歩前に出て、少女をまっすぐ見つめる。
狼の血を引く鋭い瞳と、少女の素朴な瞳が正面からぶつかった。
「……ひつじ族、ですか?」
「あ、はい……わだし、ひつじ族の国の……センリと申します」
小さな声ながら、はっきりと名を名乗る。
センリ―その名前が、音となって大地の胸に落ちた瞬間、また、あの見えない鎖が、かすかに軋む。
(センリ……)
胸の奥で、薔薇の鎖がゆっくりとかたちを取り始めている。
目には見えないはずのそれが、まるで少女の手首と自分の心臓を繋ぎ直そうとしているような感覚。
桜炎はそんな大地の変化をちらりと横目で見て、ふうっと小さくため息を吐いた。
「なるほど。嵐を鎮めてた少女を拾ってきた陛下の様子がいつもと違う…………
はい、理解しました。面倒ごとが一つ、増えましたね?」
「桜炎」
桜鬼がたしなめるように名を呼ぶが、桜炎は肩をすくめただけだ。
「事実ですよ、兄さま。―ひつじ族の娘が天を止めて、王の隣に立つ。
これを黙って見ているほど、うちの王国の貴族はお利口さんではありませんから」
センリは、不安そうに大地の袖を見上げた。
「あの……わだし、余計なこと、でしたか……?」
「違う」
大地は即座に否定した。
その声音には、先ほどまでの冷えた響きが消え、わずかな優しさが宿っている。
「お前がいなければ、この国は水に沈んでいた。―お前は、俺の国を救った」
そう言い切ると、彼は桜鬼と桜炎に向き直る。
「この者を客人として迎え入れる。ひつじ国からの使者だ……それと―」
言葉が一瞬だけ途切れた。
大地は自分の胸元に、ぎゅっと握りこんだ手の熱を感じる。
「俺の“運命”に関わる存在かもしれぬ」
その言葉に、桜鬼は静かに目を伏せ、深く一礼した。
「承知いたしました。宰相として、全力でお支えいたします」
桜炎はしばし沈黙し、それからじっとセンリを見つめる。
幼い羊角、濡れた髪、抱きしめた金色の天制球。
何より―嵐を怖がりながらも、誰かを助けようとしてここまで来た瞳。
「……まあ、いいでしょう」
桜炎は小さく息を吐き、センリの前に歩み寄る。
「ようこそ、黒の王国へ。ひつじ国のセンリ様。
私は桜炎。このどうしようもない仕事中毒の魔王と、融通の利かない宰相の秘書官です」
「さ、桜炎様……?」
「桜炎で結構です。―まずは、温かい湯と、乾いた服と、ごはんですね」
桜炎は、ふっと柔らかく笑った。
「嵐の夜に王国を救ったお客様を、びしょ濡れのままにはしておけませんから」
センリの表情が、ほっと綻ぶ。
「ありがとうごだいます……」
そのささやかな笑顔に、大地の胸の奥の鎖が、また小さく鳴った。
果てなき夢を求める答えのない未来に、ひとつ、新しい座標が灯った瞬間だった。




