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朝食後……
執務室には、再び書類の山が戻ってきていた。
水害の事後処理。
被害状況の報告。補償金の算出。避難民の受け入れ計画。
上流の堤防再整備。橋の補修。流された畑への支援……。
机の上には、山と積まれた報告書と決裁書類。
いつもなら、大地は黙々とそれを片っ端から片づけていく。
――はずだった。
「………………」
手にした書類の数字を目で追いながら、
ふと、さっきの光景が脳裏によみがえってくる。
フルーツの皿。
隣で、目をきらきらさせてメロンをほおばるセンリ。
無意識に伸ばした自分の手。
差し出したフォーク。
戸惑いも薄く、「いいんですか?」と。
その瞬間の、嬉しそうな笑み。
思い出しただけで。
大地の口元が、じわりと緩んだ。
「……………………」
自覚した瞬間、慌てて表情を引き締める。
が、一度緩んだ頬はなかなか元に戻ってくれない。
たまたまそのタイミングで入ってきた桜鬼が、
思わず足を止めた。
(……今、陛下……笑いましたよね?)
滅多に表情を変えない主が、
書類を持ったままぼんやりしている姿は、なかなかの衝撃だった。
後ろから入ってきた煉獄も、すかさずそれを見逃さない。
「おーおー、黒の魔王が執務中ににやけてるぞ。
どこの国の終末が近いんだ?」
「うるさい」
大地は咳払いをひとつし、書類を机に置いた。
水害の事後処理は、確かに山積みだ。
だが―今、優先すべきことは、別にある気がしてきた。
「……………………もういい」
ぽつり、と呟く。
「ん?」
「……判断材料は、充分だ」
「お、おう? まあ、そうだな。被害状況も見えたし―」
「違う」
大地は机から立ち上がった。
赤い瞳が、まっすぐに桜鬼と煉獄を捉える。
「一日で充分だ」
その言い方が、あまりに唐突で決然としていたので、
桜鬼も煉獄も、一瞬何の話か理解できなかった。
「……陛下?」
「えーっと、それは、水害のことで被害の確認は“一日で充分”って意味じゃねぇよな?」
煉獄が慎重に確認する。
大地は、はっきりとうなずいた。
「センリのことだ」
室内の空気が、すっと変わる。
「……えっ? まさかだよな」
煉獄の目が丸くなる。
「その“まさか”だ」
大地は一歩、咲鬼の方へ歩を進めた。
「咲鬼」
「……はっ」
宰相としての顔に切り替え、咲鬼は背筋を伸ばす。
「ひつじ族に使者を送れ。
――センリを、俺の妻にすると文をしたためてだ」
その場にいた全員の時間が、一瞬止まった。
咲鬼は、軽く目を見開き、すぐに表情を引き締める。
「……ご婚姻の正式な申し入れを、ひつじ族へ、という理解でよろしいですか」
「ああ」
大地は迷いなく答える。
「番だと分かっていながら、曖昧にしておく理由はない。
周囲の反発も、他国の出方も、いずれにせよ避けられん。
ならば最初から、正式な“王の妻”として迎え入れる」
言いながら、自分の手首に視線を落とす。
袖の下で、薔薇の鎖が、嬉しそうに高く鳴った気がした。
「ひつじ族の王に対しては、
センリの働きと天制球による水害の抑制を最大限に評価した上でその功績に対する謝意と、
俺個人としての婚姻の意思を、明確に伝えろ」
「……承知いたしました」
咲鬼は深く頭を下げた。
その瞳の奥に、わずかな驚きと、喜びと仕方のない諦めにも似た覚悟が浮かぶ。
「反対意見が出るのは確実です。
王国内の保守派や、一部貴族からは――」
「ねじ伏せる」
大地は即答した。
「それでも納得しなければ、王宮から出ていけばいい。
俺の番を侮る者に、ここにいる資格はない」
その言葉に、咲鬼は口元をわずかに引き結び、静かに頷いた。
「では、文の草案を作成し、後ほどご確認いただきます」
「頼む」
咲鬼が足早に部屋を出て行く。
扉が閉まるのを見届けてから、煉獄が大きく息を吐いた。
「…………マジで、決めやがったな」
「何か不満か」
「いや? むしろ清々しくていいんじゃねぇか?」
煉獄はにやりと笑う。
「一日で番だって認めて、即婚姻申し込み。
さすが黒の魔王。やるときは極端だな」
「ぐだぐだと迷って時間をかける方が、余計な火種を生む」
「それもそうだ」
肩をすくめてから、煉獄はちらりと部屋の隅を見た。
そこには、いつからいたのか、いつものように静かに控えていた桜炎の姿。
サエは書類を抱えたまま、表情ひとつ変えずに言った。
「……そういうわけで、煉獄様」
「ん?」
「あなたも、センリ様の“味方側”としてカウントしておきますので。
後で逃げられると思わないでくださいね」
「はっはっはっ、こえーな桜炎ちゃんは!」
「怖いのは、これからですよ。
――ひつじ族への正式な婚姻の申し出。
王国内の反発。
他国の思惑。
全部まとめて燃え上がる未来が、今から目に浮かびます」
それでも、と桜炎はわずかに微笑んだ。
「センリ様が一人で泣かなくて済むなら消し炭に」
「……お前は本当に、物騒な女だな」
大地が小さく呟くと、サエは恭しく一礼した。
「お褒めにあずかり光栄です、陛下」
静かな執務室。
だが、その中心には確かに一つの決意が刻まれた。
黒の魔王・黒黎の大地が、
嵐の夜に出会ったひつじ族の少女を―
ただの客人でも、ただの恩人でもなく。
「王の妻」として、
「番」として迎え入れることを決めた朝だった。




