表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

パレット

作者:

狭い入り口から狭い部屋へ戻ると、あたしはまず、水を飲む。

冬なんて空気が乾燥しているから、何をするにも喉が渇いて仕方がない。

外から帰って来た時なんて、口の中がざらざらするみたいな、永遠に紙を噛んでいるみたいな、いやな感覚しかなくなってしまう。

雨は嫌いなのだけど、水ってやっぱり必要なんじゃないのかしらん。

命っていうのはやっぱり水で出来ていて、ふわふわと揺蕩うままに、ぼんやりと続いて行く。

あら、それじゃあ命って、水に浮いているものなんじゃあないのかしらん。


どっちでもいいか。


一人に一つ、持てるものがあるだけでいいんじゃないんだろうか。

そうやって考えると、仕事がどうとか上司がうざいとか、そんなのは不幸の内に入らないわけなんだ。

命一つ持っていれば、なんもどうもなるわけだ。

かといって命がないのが不幸かっていったら、イスとか冷蔵庫とか、みんな不幸な内に入ってしまうんじゃないだろうか。

そういう小難しいことは、あたしが考えることじゃないんだ。


部屋の隅に置かれたキャンパスには布が掛かっていて、もう随分長いこと放置されている。

そしてこの埃を被った布の裏には、描きかけの油絵がある。

たまに見たくもなるのだけど、あたしには、この布を外すことが出来ない。

近寄ると油絵の具の匂いがして、なんだか切なくもなるのだ。


命があれば幸せとはいっても、一人の部屋はやっぱり寂しい。

ワンルームのアパートは程よく散らかっていて、なんだか安心するけれど。

特に冬なんかは、寒いし空気は冷たいし、無意味にその辺を引っ掻き回してしまいたくなる。

のんべんだらりと過ごす方が好きだけど、動いていれば少しは暖かい。


覗き込んだタンスの上には、靴の箱だとか、カバンだとか、衣装ケースなんかが雑多に置いてある。

一番隅の、埃を被った油絵の具も、何故あるのだかクレヨンも、大きな画用紙も、今は使われないままここに放置されている。


あたしはそれを全部タンスの上から払い落として、床の上にぶちまけた。

使いかけの絵の具とクレヨンが飛び散って、ばらばらになる。

衣装ケースは壁に当たって横倒しになり、靴の箱からはきらきらしたミュールが飛び出した。

いい感じに散乱したと、あたしはほくそ笑む。

ただ一つ、画用紙だけはひらひらと宙を舞い、ゆっくりと衣装ケースの下に滑り込んでしまったのだけど。


落ちた拍子に開いたクレヨンの箱から、十二色の虹が零れ出す。

あたしはその中から赤を取って、めちゃくちゃに床へこすりつけた。


いつまでも捨てられずに取ってあったものが、真っ赤に染まって行く。

使いかけの絵の具の箱も、プラスチックの衣装ケースも、きらきらしたミュールも、みんな、赤くなって行く。汚れたパレットも、細い絵筆も、よれた大きなカバンも、みんな。


クレヨンが半分まで減ったところで、扉が開く音がした。

それと殆ど同時に、女の悲鳴が聞こえる。


慌てて駆け寄ってきた彼女は、部屋の惨状を見て、大きく肩を落とした。

そしてふと部屋の隅に置かれていたキャンパスに視線を移し、あたしを見下ろす。

それから落ちていた絵の具のチューブを拾い上げ、寂しそうに笑った。


「何してんの、もう」


それは自分に対して言った言葉だったのかも知れない。

冷えて赤くなった指先が、大事そうに絵の具を箱に戻す。

それから彼女はあたしの体を抱え上げ、バスルームへ向かった。

あたしは抵抗したけれど、彼女は放してはくれない。


バスルームの鏡には、今にも泣き出しそうな笑顔の女と、真っ赤な猫が映っていた。

彼女にはきれいなスーツよりも、油絵の具の匂いが似合う。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] ご無沙汰しとりました。 思い出したようにやって来た栖坂月です。 床さんは長編のイメージがあったので、短編を見つけてちょっと嬉しくなりました。ただ、ホラーのイメージも強かったので、怖いのかコレ…
[一言] うまく表現できないけど、ピュアな感性があふれていて、とっても良かったです。 短いお話のなかに、たくさんの隠されたストーリーがつまっています。 それにしても、ネコにゃん可愛い。
[一言] 爽快な「してやられた」感でした。 ショートショートの醍醐味を味わわせていただきました。
2010/02/07 22:29 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ