パレット
狭い入り口から狭い部屋へ戻ると、あたしはまず、水を飲む。
冬なんて空気が乾燥しているから、何をするにも喉が渇いて仕方がない。
外から帰って来た時なんて、口の中がざらざらするみたいな、永遠に紙を噛んでいるみたいな、いやな感覚しかなくなってしまう。
雨は嫌いなのだけど、水ってやっぱり必要なんじゃないのかしらん。
命っていうのはやっぱり水で出来ていて、ふわふわと揺蕩うままに、ぼんやりと続いて行く。
あら、それじゃあ命って、水に浮いているものなんじゃあないのかしらん。
どっちでもいいか。
一人に一つ、持てるものがあるだけでいいんじゃないんだろうか。
そうやって考えると、仕事がどうとか上司がうざいとか、そんなのは不幸の内に入らないわけなんだ。
命一つ持っていれば、なんもどうもなるわけだ。
かといって命がないのが不幸かっていったら、イスとか冷蔵庫とか、みんな不幸な内に入ってしまうんじゃないだろうか。
そういう小難しいことは、あたしが考えることじゃないんだ。
部屋の隅に置かれたキャンパスには布が掛かっていて、もう随分長いこと放置されている。
そしてこの埃を被った布の裏には、描きかけの油絵がある。
たまに見たくもなるのだけど、あたしには、この布を外すことが出来ない。
近寄ると油絵の具の匂いがして、なんだか切なくもなるのだ。
命があれば幸せとはいっても、一人の部屋はやっぱり寂しい。
ワンルームのアパートは程よく散らかっていて、なんだか安心するけれど。
特に冬なんかは、寒いし空気は冷たいし、無意味にその辺を引っ掻き回してしまいたくなる。
のんべんだらりと過ごす方が好きだけど、動いていれば少しは暖かい。
覗き込んだタンスの上には、靴の箱だとか、カバンだとか、衣装ケースなんかが雑多に置いてある。
一番隅の、埃を被った油絵の具も、何故あるのだかクレヨンも、大きな画用紙も、今は使われないままここに放置されている。
あたしはそれを全部タンスの上から払い落として、床の上にぶちまけた。
使いかけの絵の具とクレヨンが飛び散って、ばらばらになる。
衣装ケースは壁に当たって横倒しになり、靴の箱からはきらきらしたミュールが飛び出した。
いい感じに散乱したと、あたしはほくそ笑む。
ただ一つ、画用紙だけはひらひらと宙を舞い、ゆっくりと衣装ケースの下に滑り込んでしまったのだけど。
落ちた拍子に開いたクレヨンの箱から、十二色の虹が零れ出す。
あたしはその中から赤を取って、めちゃくちゃに床へこすりつけた。
いつまでも捨てられずに取ってあったものが、真っ赤に染まって行く。
使いかけの絵の具の箱も、プラスチックの衣装ケースも、きらきらしたミュールも、みんな、赤くなって行く。汚れたパレットも、細い絵筆も、よれた大きなカバンも、みんな。
クレヨンが半分まで減ったところで、扉が開く音がした。
それと殆ど同時に、女の悲鳴が聞こえる。
慌てて駆け寄ってきた彼女は、部屋の惨状を見て、大きく肩を落とした。
そしてふと部屋の隅に置かれていたキャンパスに視線を移し、あたしを見下ろす。
それから落ちていた絵の具のチューブを拾い上げ、寂しそうに笑った。
「何してんの、もう」
それは自分に対して言った言葉だったのかも知れない。
冷えて赤くなった指先が、大事そうに絵の具を箱に戻す。
それから彼女はあたしの体を抱え上げ、バスルームへ向かった。
あたしは抵抗したけれど、彼女は放してはくれない。
バスルームの鏡には、今にも泣き出しそうな笑顔の女と、真っ赤な猫が映っていた。
彼女にはきれいなスーツよりも、油絵の具の匂いが似合う。