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ラティメリア(1)  作者: 和田ひろぴー
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シーラカンスのような古生代の生き残り的人物の、とある出会いの物語。

 Tレックスの骨格は、実に気高くも巨大であった。獲物を襲うためだけに特化した頭部に現存する生物よりは遥かに大きな歯が整然と並んでいた。しかし、その黒くて金属光沢を帯びた骨格は、もはや「生」の息吹きを全く感じられなかった。確かにかつては太古の大地を我が物顔で闊歩していたのかも知れない。しかし、その姿を想像するには、目の前のそれは、あまりに構造物的な塊でしかなかった。

「これが絶滅ってやつか。」

尋は、柵の外からただただ展示物を眺めるだけのために博物館に来たことを、幾分残念に思った。いや、むしろ、それこそが生命を理論的に捉える行為なのだと腑に落ちる点もあったのか、少し時間が経って、その襲いかかっては来ない無機質な物体と自身との関係を、科学的好奇心であると受け止める余裕も生まれた。そして再び、白く冷たい大理石の床を踏みしめて、オウムガイの標本の前で、ふと歩美を止めた。

「こいつらは、生き残っているよなあ。」

恐竜と時を同じくして、かつては大会の占有者として大繁栄していたであろうアンモナイトたちは、今やその姿を覆っていた貝殻だけを残して、跡形もなく消え去ったいた。小さい物、角笛のように真っ直ぐに伸びた物、あるいは拗くれて不思議な形になった物、そして何より、今では生きた姿を全く想像さえ出来ない巨大な巻き貝と化した物。そのどれもが、もはや地上にはただの石としてしか存在しなくなった。しかし、その説が正しいのであれば、宇宙より飛来した隕石がディープインパクトを起こし、巻き上がった粉塵が太陽光を遮り、その結果、植物を基礎とする一連の生態系が途絶え、地上や浅海の生き物は悉く死に絶えた。だが、地上では僅かに残った体の小さな恒温動物が、後の進化の後継者となり、行く行くは我々人類の出現に繋がったとされている。そして海洋では、大量絶滅前の大繁栄を他所に、敢えて競争を避けたのか、より過酷で冷たく、静寂と闇が時の流れを止めてしまうほどの深海へ、ごく一部の生命が消えるように身を寄せていった。そして、そのことが皮肉にも、従来とは異なる形で生命の受け渡し、生き残り戦略の巧妙さとして、後に人間に評価されるようになった。彼らには、そんな意図も思惑もなかっただろうに。

赤みがかった茶色の縞模様で彩られた貝殻の横には、切断標本がおかれてあり、その内部構造を窺い知ることが出来た。外部からはシンメトリーの巻き貝に過ぎなかったが、殻の入り口付近からすぐ奥が行き止まりになっていた。そして、その後ろは幾重にも小部屋が規則正しく並んで、内部まで渦巻き状に続いていた。

「これが生き物の作りなんだろうか。」

尋は、そのあまりに幾何学的な構造が、自然の造形物にしてはすぐには受け入れ難く、何らかの律のようなものによってなされた技のような気がしてならなかった。すぐ解説には、その貝殻の構造が「黄金比」によって整然と作られていることが述べられていた。勿論、そのような計算式は、かなり後になって人類が発見したものであって、オウムガイ自身が行えようはずがない。それだけに、では一体、何のために?、あるいは、誰が?と、思わずにはいられない、そういうフォルムの美しさがあった。その他にも、幾つかの展示物に目を留めることはあったが、やはりオウムガイほどのインパクトは得られなかった。

 荘厳な博物館の建造物を後にしながら、道端の脇に生えている青々とした雑草に目を落としつつ、考えることはやはりオウムガイのことであった。遺物としてしか残っていない、巨大なアンモナイトの貝殻達。そして、暗くて冷たくて、恐らくは寂しいであろう深海で、その当時より今に至るまで、ずっと受け継がれている生命の系譜。

「ああ、繁栄とは、衰退を前提とした一連の事象なのか。」

などと、独り合点がいったように思いつつ、しかし、やはり生き残ったオウムガイの逞しさとも妙ともつかない現象に、尋はずっと思いを巡らせていた。もしこれが、人間の倫理に当てはまるのであれば、欲を捨て去った者が最後には生き残る、そんな風に捉えることも出来るのだが、彼ら軟体動物には、モラルという概念など、無用の産物。人間の側の勝手な解釈が、科学的に客観性の謳われていることに対しても、いちいち先入観としてすでに入り込んでいるのだなと、尋は思った。

「純粋に客観的なものとは、人間の意志が介在しないものしかないのかもなあ。」

ふと空を見上げると、薄紫と橙が入り混じった鮮やかな秋空だった。尋は軽く夕食をとるために、近くのファーストフード店に立ち寄った。


 人を誘うかのように黄色を基調とした店内で、尋は薄っぺらいハンバーガーとコーラを注文し、トレーごと受け取ると、2階のイートインの片隅でガサガサと包み紙からハンバーガーを取り出して食べ始めた。そして、ストローからコーラを飲もうとした時、ふと店内を見回すと、どの席に座っている人たちも一様にスマホを弄っているか、もしくはラップトップのキーを叩きながら食事を取っていた。未だにガラケーでパケットもしていない尋には、みんなと自身との違いは別段いつもと変わりないことであったが、この日は何か、妙な違和感を覚えた。

「やっぱり、みんな、するんだよなあ。」

尋も道すがらインターネットをするタイプでは無かったが、自身の仕事場でラップトップで検索なりすることは普通にあった。それが、ここにいるみんなと同様なことではあったが、そんな風に自身も1つの行為のたなごころに乗ってしまっていることが、急に不思議に思えた。確かに、尋が若い頃にはそのような機種もシステムも、まだこの世には存在さえしておらず、連絡と言えば黒電話、情報を得るメディアと言えばテレビか紙媒体のみであった。それが、ここ20年ほどの間に一方向だった情報の拡散が、急激に双方向でのやり取りに成り代わり、そして、その状態こそが日常となっている。10代の若者に至っては、それ以前のかつての状況は、まるで産業革命以前、いや江戸時代のようにさえ捉えていてもおかしくない。

「これほどまでに、社会の変化が急だったことって、あっただろうか。」

その明確な移り変わりの瞬間を目にしている尋には、まだ前後の差を判断材料として持ち合わせていることが幸いに思える部分もあったが、しかし、同時に現在の便利さは、後戻りは出来ないだろうというより、むしろ自身もしたくはないとさえ思えるほどだった。だが、そのことに対してこそが、何か今感じている違和感の根源があるように、尋は直感的に気づいた。

GAFAガーファとかいった・・かな。」

ほぼワールドワイドな規模で生じている変化であるならば、もっと多岐にわたった企業や者達が参入していてもおかしくないのに、その実は、ごく数社のみが開発したシステムがプラットフォームとなって、それを世界中の人たちが利用している。尋は敢えて大げさに考えてつつ、比較してみた。多種多様な民族が存在すれば、それだけの数の文化も同時に成立しているはずである。なのに、地球上のどの部分においてさえ、人がスマホを手に取って、ネットが繋がる環境であれば、それは既にガーファの上に存在するのである。勿論、この事に対する何らかの警鐘は、各国の政治機関や経済的機構によって発せられてはいるだろう。富の分配率が極めていびつになっているのは明らかだからだ。しかし、まだそのシステムが始まって20有余年という歴史の浅さもあってか、その進化・発展を減速させる要因は未だに見当たらない。むしろ、世界中の誰もが、ほぼウェルカムな雰囲気で、さらに迎え入れつつある。その証拠に、とある一人勝ちの動画投稿サイトには、日々投稿がなされ、活字や静止画像だけであった情報源から、動く空気感を伴う、まるで世界中に開かれた窓のように、地域の自然や文化、人々の暮らし、意図、メッセージが溢れ出てくる。かつて尋が知っていた黒電話時代の娯楽とは、もはや比べものにならない。そして、さらなる進化形の出現についても、全く想像に難くない。

「でも、だからなんだよなあ。怖いのは。」

普段ならば、尋もいつものネット環境の1ページ程度にしか受け取らなかっただろうが、今日は少し趣が違う。そう、博物館での出来事が彼の脳裏に違和感を生じさせていたのは明確だった。

「大繁栄の終焉・・。」

あれだけ地球上で我が世の春を謳歌していた生物たちも、恐らくは一瞬にして無機質な構造物に変わり果てた。そして、そのようなことは地球の歴史上、行く度も生じていたはずである。そのほんの合間に、人類の誕生が位置して、そのまたごく一部の期間に、文明や概念といったものが出来ていったのだろう。そんなものも、再びか三度か、また隕石の飛来のような出来事が生じれば、地上の宴は同じくリセットされてしまうであろう。それは解る。しかし尋の思惑は、そうした自然現象的なものでは無かった。

「もし、人間を起因とする終焉があるとすれば、それは一体、何やろう?。」

これほどの余りある娯楽の恩恵を否定することなど、考えてみれば発想することさえ不思議な、いや、むしろ変人の域の思考だろう。しかし、尋にはあのアンモナイトの巨大で無機質な渦巻き塊が忘れられなかった。生命の息吹を帯びた貝殻の色では無い。黒く金属光沢のある、ただの石の塊。彼らがかつて生物であったならば、それが無機物に変容したのは事実である。その変遷が大繁栄の後に起こったからこそ、そのことに尋は想いを馳せずにはいられなかった。ふと店内から窓を見上げると、辺りは既に夕闇に変わり、さっきまでいた人たちも席を後にしていた。尋の座る席とは対角線上に位置する、紅いシャツを着た女性以外は。そして、気のせいか、彼女はこちらを見ているようであった。


「さて、そろそろ帰ろうかな。」

斜め向こうの視線が気のせいであるのを肯定するかのように、尋は食べ終わったトレーを返却場所に置いて立ち去ろうとした。すると、

「あの、さっき博物館で化石とか見てた方ですよね?。」

気のせいでは無かった。夕闇の窓を背景に赤いシャツの女性が近づきながら、尋に語りかけてきた。

「そうだけど。」

一体何故、というより、何が起きているのか、尋には皆目見当が付かなかった。自身に見知らぬ女性が声をかけることなど、何かの勧誘のときぐらいしか経験したことが無い。不用意な問いかけに肯定するより他に無い。しかし、不意に言葉が出た。

「あんなのが、かつていたんだなあ・・って。」

「そりゃ博物館だもの。」

「いや、そうじゃなくて・・」

こんなちぐはぐな言葉のやり取りな上に、お互いを知りもしない。しかし、尋には何かそこに親近感のようなものを感じた。

「あたし、あきら。レポートの課題で来てたの。そしたら、何か、ずーっと巻き貝の所で凄い顔して立ってる人がいたから、気になっちゃって。」

無防備な自分を、確実に見られていた。驚きと気恥ずかしさが一気に込み上げてはきたが、でも、それとは裏腹に、やはり言葉が付いて出た。

「ボク、尋。ボクは何となく来てたんだけどね。」

ようやく、互いが名のある人としての位置関係に至った。そして、尋と彼女は店を後にして街灯に照らされた並木道を歩きながら、少し互いのことについて語り出した。灼は短大に通っていること、そして、必修の講義のレポートが古生物についてのテーマであったこと、それが結果、展示物よりも不思議な男性を観察することになったこと、そういう他愛も無い会話ではあったが、尋にはかなり新鮮な出来事ではあった。彼はかつては生物の研究に従事したことがあったが、今は全く関係の無い仕事に就いていること、そして何かの拍子にかつてのことを思い出すように、今日みたいにふと博物館や水族館に行くことがあること、でも、こんな風に訪れた先で女性に声をかけられることなど皆無であることなどを彼女に伝えた。

「不思議な出会いとは、こういうことを言うのかな。」

と、何気に尋が考えていると、

「今何時ぐらいかな?。今日スマホ忘れちゃって。」

と彼女がいうので、ズボンの右ポケットから表面の剥げたガラケーを取り出して、それをパカッと開いて、

「7時半だな。」

すると彼女は、

「うわ、ガラケーだあ。ガラパゴスのガラケー。」

何かちょっと小馬鹿にされた気はしたが、彼女の悪戯っぽい言い方に尋は、

「うん、ガラケー。パケットも無し。」

「生きる化石って、あなたみたいな人のことかも。」

「はは。かもね。」

「そーいうの、確か、シーラカンスっていうんだっけ?」

「何か半魚人扱いされてるなあ。」

でも、尋には彼女の評した言葉が、実は先に頭の中に浮かんでいた。ただ、それが懐古的な表現の定型に思えたので、口にはしなかった。でも、彼にとっては普通過ぎる言葉も、彼女から発せられると、それはやはり新鮮な響きとなって耳に残った。それかまた少し話ながら歩いて、駅の近くに来た時、

「じゃあ。」

と手を振って、彼女はホームに向かって元気よく階段を駆け上がっていった。尋も少し手を振って、軽く別れの挨拶をして、再び歩き出した。また会う約束などすることも無く。今日交わした会話が、この日だけのもので終わってしまうのは、彼の中では惜しさというよりは、それが成り行きといった感慨が何処からともなく湧いては占めるのが、尋にとっては無意識的な出来事だった。あの時の、あの出来事以来。

「シーラカンス・・かあ。」

確かに、アンモナイトでは無く、オウムガイに対して食い入るように見つめる尋が、かつて海洋を思うがままに占有していた魚類の繁栄と衰退が全く同様な生態であることは知らないはずが無かった。地上に残る化石ばかりの古生物。魚体は肉質の部分を全て失い、骨格の跡のみが石化して、そして石版となって人目に晒される。ディープインパクト前に競争関係を避けて深海に住処を求めたほんの僅かのグループだけが今なお息づいていて、ひっそりと暮らし続けるはずだった。だが、そんな彼らが再び人間に発見されたことで、生命の系譜はやがて懸賞金扱いの産物にされて、逃げ延びて現存したことが逆に仇にさえなってしまった。彼らの住む近海の漁師達は、1匹釣り上げて、それを研究者に手渡すだけで暮らし向きが楽になるほどの大金が得られた。

「何とも皮肉な話だなあ。」

尋は一人呟きながら、シーラカンスに想いを寄せていた。ただ、今まではそれが憐憫であったのが、今日は何か少し違う、ほんのりと心地の良い懐古であることを尋は否定しなかった。夜の街をいつも通りに家路に着いているはずたったが、そこには何かがぽっかり無い、そんな感覚に見舞われた。

「正直に寂しいって認めるには、まだまだ時間がかかるかな。」

こういう、自身を客観視して皮肉りながら楽しむのも、いつもの彼の道すがらな気持ちの遊びだった。


 翌日、尋は夕方からの講義に備えてテキストの整理を為ていた。ろくに就職活動もせずにいたのを大学院当時の先輩が不憫に思ってか、街中の場末にある小さな予備校を紹介してくれた。ま、親への手前もあるし、いつも手元不如意なのもあれだったので、数年前に引き受けて以降、何となく講師を続けていた。間もなく夜の部の生徒達がやってくる。尋は左手にテキストを抱え、胸ポケットにマーカーが入れてあるのを確認すると、細い廊下を歩いて、窓越しに少し教室を眺めながら、

「やっぱ、みんな持ってるよなあ。スマホ。」

と、後部に座って談笑する女子の一群も、前列に座って講義を待つ制服組も、一様にスマホの画面に目を落としているのを見つつ、教室に入っていった。そして、生徒達は一斉にスマホを仕舞い、座り治した。

「え、今日は植物遷移の所からな。」

前置きは特になく、スムースに講義に入るのが尋のスタイルだった。前回の講義を聴いていなかった生徒のために少しだけ復習的におさらいのトークをした後、今地上にある森林が如何にして形成されたのかを、順を追って説明し始めた。何も無い大地に、風で運ばてきた鱗片状の羽根の付いた種、あるいは鳥たちが食べた後に未消化のまま残していった種の混じった糞。それらがやがて芽吹き、太陽のエネルギーと雨によって急激にアカマツの大木へと育っていき、やがては一面のアカマツ林に覆われていく。そして、更なる運び屋の鳥たちによってもたらされたドングリの実が遅れて芽吹きだし、密かにアカマツの林床部で育っていく。初めは隙間を狭そうに生えていたのが、やがてはアカマツ林の間を割って入るように成長し、そしていつの間にか、広い葉を持つシイやカシの木たちは、我が物顔で大地を展開していた細い葉のアカマツを徐々に覆い尽くしていく。そんな自然界では当たり前に起こっていることを当たり前にように語るだけでは学校の授業と何ら変わりない平坦な知識の羅列であるが、尋はそんな植物たちの移り変わりの様を、まるで自分が樹木の目撃者であるかのようにドラマティックに語った。なので、通常は閑散としがちな生物の授業も、彼のコマだけは比較的生徒で賑わうのだった。そして、一頻り遷移の単元を語り終えて次の所に進むべく、ホワイトボードの解説を消し始めた時、

「諸行無常・・かぁ。」

と、一人の女子生徒が何気に呟く声が聞こえた。ふと見ると、前から2列目の制服組に混ざって、一人鮮やかな黄色い上着を着た少女が、授業とは特に関係の無いイラストを交えながら講義のポイントをノートに写していた。今どき珍しいおかっぱ頭の少女を、尋は以前から少し気にはしていた。いつも決まった席に座り、シックな紺色の集団の中に、一人明かりを放つように黄色い出で立ちで収まっている。そして、黙々と板書を写す

周囲の生徒とは異なり、いつも講義を聴いているのかどうか、いまいち解らない風でノートの端々に何らかの絵を描いている。しかし、書かれてある文言は尋が語ることのほぼ全てを、まるで的を射るかのように箇条書きで並べているのであった。職業柄、尋は知っていた。無闇に丁寧にノートを書く生徒よりも、例え字が綺麗ではなくとも自分なりのポイントを書く生徒が確実に点を採ることを。事実、先日行われた模試でも、彼女はかなり上位の成績であった。

「諸行無常、そやな。確かにこうやって、どんなに旺盛に茂った植物も、やがては強かな戦略を持った植物に取って代わられていく。それが遷移であり、生物やな。」

その言葉を聞いて、いつもは顔を上げること無くひたすら絵と字をかいていた黄色い少女が、自身の言葉を受け止められてトークのネタにされたのに気付き、はっと目を見開いて尋の顔を見た。一瞬、尋と目は合ったが、次の単元に進むべく、彼はホワイトボードの方に向き直して再び講義を続けた。ほんの数秒間の出来事ではあったが、尋は、

「彼女、あんな瞳してたんやなあ。」

と、あらためて記憶に留め直した。おかっぱで、澄んだ目で凝視する黄色い子。絵は独特。そして、言葉のチョイスについても、なんとも言えないセンスを感じたのだった。彼は常々思っていた。生物とは、うつろうまでの束の間のあいだに、生を全うする存在。そして、そのことを端的に言い表した言葉を、かつて自身が高校生だった時代に、平家物語の一節に既に歌われていたことに、少なからず驚いた記憶があった。そして、黄色い少女は、無意識かどうか、その言葉を発した。単に最近習った言葉が口を突いて出たのか、それとも、尋の話を聞いて、生き物の本質を直感的に言い当てたのか。いずれにせよ、自然の変わりゆく様をあの場面でさらりと述べつつも、尋はふと彼女の何か造作的な違和感を思い出した。

「じゃあ、何故おかっぱ?」

全てを反芻しながら、彼はやはり彼女のことを、おかっぱ頭の黄色い少女と、強く認識するのだった。


 再び狭い廊下を通って小さい講師準備室に戻って席に着くと、ふと上の方を見上げて少し壁紙の黄ばんだのを眺めだした。そして、尋は初めてこの場所に来た事を思い出していた。それは実は先輩に紹介してもらって非常勤として勤めるよりもずっと前のことであった。彼はかつて、ここに生徒として通っていたことがあった。隣接する大手予備校のビルの狭間に一際小さな校舎が佇んでいて、真剣に受験に挑んだ同級生達は浪人が確定するとすぐに大手の校舎に入学したが、辛うじて卒業できる程度の尋は、特に選抜試験のようなもののないこの予備校を選んだのだった。勿論、浪人して予備校に通うことが即合格に繋がるなど、甘い考えではあった。入学当初は、ちんぷんかんぷんの数学の講義を受けたり、興味のある生物の講義に耳を傾けていたが、現代文の講義は何も考えずに単に受験に必要な科目程度に捉えていた。そして、黒いジャケットにピンマイクを付けた痩せっぽちな男性が静かに教室に入ってきた。そしてにこやかに掠れ声で挨拶しながら講義を始めた。尋は別段、国語という科目に思い入れは無かったが、彼の講義はこれまで出会ったどの国語の教師とも異なっていた。

「評論文には、必ず著者の目するカテゴリーがある。その価値判断基準を見抜け。」

明快その者であった。教科書で見かける文章など、作者が何となく思い入れを込めて書いているだけ程度に思っていた尋には、そのあまりに断定的な言葉が何か刃のようにさえ感じられた。そして、

「基準とは即ち、物差しだ。なので2つの対立言語を必ず比べながら書いている。その構造だ。評論とは。」

その比較された言葉のうち、どちらの側に著者の価値が置かれているかは、すでに冒頭と文末に述べられている。だからそれを捉えてしまえば、出題者の設問に完答することなど訳もない。つまり、人間とはそのような構造でしか思考できないのだから、それに則って読み進めれば文章の本質は必ず理解できるというのが彼の理論だった。

「この人、何者だ?。」

この世に存在するであろう文学の全てを一刀両断で語る潔さ、いや、妙なのか。人懐っこい感じの笑顔も、その言いきりの瞬間は眼鏡の奥底に眼光が鋭く光る。文字で包み込むように優しく綴られたものが文章ではないのか。いや、違う。彼の前では、まるで数式を一気に解く定理が中心にあるだけのものなのか。尋は既に魅了されていた。傾倒、そういった方がいいかも知れない。大げさでは無く、尋には目の前の彼が千里眼の如く、この世を明快に分析してのけるだけの能力があるように思えた。そして講義が終わると、尋は一目散に講師準備室に向かった。

「あの・・、」

軽食を取り始めていた彼は、尋に向かって、

「どうした。」

と声を掛けたが、尋は先ほどの講義に対する高揚感と、その語り手である張本人が目の前にいることの緊張感で、言葉に詰まった。そして、ようやく、

「どうすれば、そんな風にパッと解るようになれるんですか?」

と、一足飛びに答えを知ろうなどというのは愚問であることも気づかず、とにかく話がしたい、いや、関わりを持ちたいと思った。少し面食らった感じではあったが、やがて彼は、

「君は、エレンディラみたいな感じだな。まあ、いい。とにかく、今自分が置かれている状況を考えてごらん。自分とは何者なのか。考えて、考えて、考え抜け。」

そうアドバイスをくれると、彼は徐にタバコを吸い始めた。尋は一礼して準備室を後にした。その一言で十分であり、それ以上何か続けようにも、何の語彙も世界観も彼には全く不十分であることを無意識のうちに感じてい。心地良さと虚脱感が一度に押し寄せてきた。後に知ることになるが、この小さな予備校で彼が超花形の人気講師であり、オプションでどのコースの生徒も参加できる彼の小論文の授業では、200名は入れる教室が、通路も埋め尽くされるほどの熱気振りであった。尋も何とか席を確保して聴講してみた。確か第一回目の講義は、某大学が出題した中原中也の詩について、作者の意図を述べよという問題であった。前列に陣取った如何にも名門校からやって来ました風の連中が提出した模範解答に対して彼は、

「こんな問題も解らんのか君らは。あかんなあ。何をしとったんや。」

と、手厳しい言葉が浴びせられた。そして、詩のほんの二行から言葉を引用して、

「ここに表れてるのが、中也の決意や。」

と、その一語が小論文で書くべきキーワードであり、即ち、この詩の本質であると、彼はさも当然であるかのように一喝した。

 その後、他の講義は上の空で、彼の講義を聴きに行くことだけが目的で、尋はその予備校に通い続けた。本当は、もっと彼について知りたい、彼の側で言葉に触れたい気持ちはあったが、考えを同じくした連中がいつも彼の取り巻きとしてついて回り、気後れした尋はなかなか近付けなかった。常に華やかな人の中で一際異彩を放つ、そんな炎のような人であった。そして今、尋はその当時通った予備校に自らが講師として身を寄せている。あの黄ばみは、あの頃のものなのか。懐かしく思いつつ、自身が講師の道を志すようになったきっかけを懐かしく思い出しながら。


 たまのバレンタインデーに女生徒から小さなチョコの包み紙を貰う以外には女っ気の全くない尋だった。それでも別段、自身が起用に女性と距離感を縮められるタイプでは無いことは暗に解っていたし、過去に経験した別れが殊の外、後々まで引きずる痛みであることも十分に知っていた。それが彼の淡々とした、ある種厭世的なスタンスになっていた。

「ま、世に彼女のいない男性の割合も多くなったしな。」

日頃は周囲と同調した考えには異を唱えうつつ個性を示す尋だったが、この点についてはこんな風に考えては自身を埋没させていた。今までは。そして、ある週末の午後、尋はふとあの赤いシャツの女性のことを思い出していた。

「連絡先ぐらい聞くのがスマートだったのかなあ。」

今更後悔しても遅いことだった。あの日のあの瞬間だけが、ちょっとしたハプニングで、そのこと以外は普段と何ら変わらない日常に過ぎない。これまでのように自分に言い聞かせるだけでいい。しかし、尋はグレーの上着をサッと羽織って出かけた。そして、地下鉄を乗り継いで、開園当時は奇抜な構造で人気を博したとある水族館の前までやってきた。

「こんなことしても、あれやけど・・。」

彼は、あの赤いシャツの女性がレポート作成のために、あと幾つかの施設を回る必要があると話していたことをふと思い出した。だからといって、それが此処であるのか、何より今日であるのかなど、何の根拠も無い。衝動ってやつが、彼の理性を凌駕しつつある瞬間だった。そしてチケットを購入して館内に入り暗いゲートと

長いエスカレーターを登って行くと、目の前にドーム状の水槽が開けた。子供の頃には父に連れられてわくわくしながら巨大なエイやタカアシガニに興奮したものだったが、今日は趣が違う。目当ては魚よりも1人の女性であった。中央の大容量水槽にはジンベイザメが悠々と泳いでいて、尋は週末の混雑具合を久々に経験した。そして同時に、こんな中で来ているかどうかも解らない女性1人を探そうと思うなんてと、自身の行動に冷ややかな感慨を覚え、

「ま、折角来たし、久しぶりに魚でも見て楽しむか。」

と呟くと、集団とは逆方向に進み、殆ど混雑の無い近海物の魚が泳ぐ水槽の前に立った。そこにはタイやヒラメといった、これといって特に珍しい魚がいるわけでは無い。たまに小さなタコ壺に本物のタコが入ってこちらの様子を窺っていた。目敏い子供達は、

「あ、タコだ。」

「あ、カニさんだ。」

と騒いで喜んでいたが、尋は、

「カニさんは、タコさんに食べられるエサなんだよ。」

と、少し意地悪なことを連想して、子供の頭越しに水槽を眺めていた。そして、

「お、いたいた。イシモチ。」

銀色に光る体に丸い顔と大きな眼。そしてひし形の尾びれでフワフワと水槽の隅っこで浮かんでいるだけの魚に尋は近づいて行った。そして、イシモチが沈んでいくと、彼も姿勢を屈めてじっくりと観察し出した。スーパーや魚屋さんに行けば並んではいる魚ではあったが、生きた姿をこんな風に展示していることに気づく者は、果たしてどれほどいるだろう。そんなイシモチの飄々とした姿が、尋は好きだった。

「あれえ?。」

しゃがんでイシモチをしげしげと見つめる尋の上の方から、聞き覚えのある女性の声がした。ふと見上げて、

「・・・うわっ。」

「こんなとこにもいるんだ。あは。こんにちわ。」

全身の血が通常とは異なる方向に駆け巡っているのではと思うほど動転しながら絶句する尋とは対照的に、少しピンクがかったシャツを着た女性は、にこやかに挨拶を交わした。正真正銘、灼だった。

「こ、こんちわ。あー、びっくりした。」

「何見てるの?」

「これ。イシモチ。」

尋は隅っこにいる銀色の魚を指差した。

「へー、イシモチっていうんだ。」

「淡泊な味だけど、結構美味いよ。それにこの魚、鳴くよ。」

「え、魚が?」

「うん。ググって。浮き袋を振るわせて。」

みんなが大きなジンベイザメやライトアップされて様々に光り輝くクラゲを見る中、こんな風に何気ない魚を見ながら、しかもその生態についてまでサッと答える彼に、灼は妙な感覚を覚えた。そして、

「今日も何となく?」

尋は自身でも思いがけない言葉が口をついて出た。

「何か、会えるかも・・って思ってさ。」

彼女は、少し驚いたように眼を開いたが、でも、直ぐさま和んだように微笑んだ。

「今日もレポートの?」

「うん、そう。」

「じゃあ、解説がてら、案内してあげるよ。」

「やったー。ラッキー。」

そうして、2人はあまり人がいない水槽を見つけては、そちらの方に向かって歩き出した。


 中央の巨大な水槽からは青い光が降り注ぎ、週末で賑わう人達の顔を照らした。大人も子供も悠々と泳ぐ巨大なサメやマグロに歓声を上げながら見入っていた。そして、通路を隔てて2人は照明を落とした深海魚のエリアで足を止めた。

「大きなカニね。」

「タカアシガニ。子供の頃好きだったなあ。飼いたくても大きすぎたし。」

「ふふ。」

灼の笑みがこぼれた。そして、少し上の方を見上げて、

「この銀色のフワフワ泳いでるの、何?。」

見たことも無い不思議なフォルムで、まるで水を仰ぎながら泳ぐ魚に灼は目を留めた。

「ギンザメだよ。昔々のサメの仲間さ。こんな深海のサメがみられるなんてなあ。」

子供の頃のありきたりな魚しか見られなかった水族館と違い、今はいろんな生き物が展示されるようになったことに、尋は感慨深げにそう語った。

「じゃあ、この魚も深く潜っていったことで生き延びたタイプ?。」

「うん、多分。そうかも知れないなあ。」

前に博物館で会ったとき、尋から深海で生き延びた古生物のことを、灼は思い出していた。そして、その後もダイオウグソクムシや見たことも無い奇妙な生き物を、2人は見て回った。生命が織りなす造形の神秘と薄明かりのもと、2人は好奇心と高揚感に包まれていった。そして出口のゲートに辿り着くと、

「この後、予定は?。」

「ううん、何も。」

「じゃあ、何か食べてこっか?。」

「うん。」

辺りはすっかり暗くなり、ベイエリアの夜景が見える。海からの風は心地良かった。施設の横にはオープンテラス風のフードコートがあり、2人は大きな木を模してあるシートに座った。灼はたこ焼きとオレンジジュースを、尋はやはり薄っぺらいハンバーガーと小さなポテト、そしてグレープジュースをそれぞれ手にして食べ始めた。灼は少し首を傾げて、

「ハンバーガー?。」

「うん。何かシンプルで美味いんだ。パンとバーガーとピクルスの味がして。」

灼はふとした疑問が晴れた表情になった。色んなメニューがある中を、何故ハンバーガーなのかなと。そして、たこ焼きを熱そうに頬張りながら、今日の水族館の行程を思い出し、

「やっぱ尋さん、変わってるね。」

「そお?。」

少し驚いたというよりは、尋にとってはいつもの聞き慣れた台詞を彼女からも貰った程度に思ったからだ。現に彼には、そういうキャラであるという幾分の自負もあった。しかし、

「だからあんなに趣深く見つめてたのかあ。本当に面白いっていうか、楽しいね。」

意外だった。自身の趣味嗜好がこれまで誰かを楽しませることがあっただろうか。子供の頃、同じ生き物好きだった父とは共感し合ってたかも知れないが、こんな風に女性からいわれた記憶が無かった。そして、次の瞬間、尋は鼓動が早くなり、頬からこめかみにかけて火照っていくのを感じた。今日も赤のシャツで少しにこやかにたこ焼きを食べている彼女を木陰の木漏れ日が眩しく照らした。

「レポート、進んでる?。」

尋は取り敢えず言葉を繋いだ。

「うーん、あんまりかなあ。何とか書いてはみるんだけど、いまいちって感じで。」

聞くと、自身ではちゃんと規定通りに書いて提出はするものの、評価があまり思わしくなくって、少し行き詰まってるとのことだった。

「今、持ってる?。」

尋がたずねると、灼はショルダーバッグの中から書きかけのレポートを取りだして、彼に見せた。そして、添削を受けるのを待ついつもの学生気分に戻った感じがして、恐る恐る彼を見つめた。

「うーん、なるほどなあ。」

先程までとは違って、尋の目元が少し鋭くなった。そして、

「テーマに沿って、見て来たことをちゃんと伝える文章にはなってるよ。」

灼は、少しホッとした。しかし、

「ただ、最後の方が感想というか、私見になってるんだよ。」

彼女は意表を突かれた。これまで自分が書いてきたものがダメなもののような気がした。

「どうダメなの?。」

「いい、ダメの問題じゃ無いってこと。大学の教官って、学生が学んでる分野の見聞を如何に広げようとしてるかを、レポートで知りたがるのさ。そして、それを幾つも調べては引用するってのが、いい評価を貰うってことかな。」

明快だった。灼の思い入れは共感から求められているものとは、まるでベクトルが異なっていたことを初めて知った。

「そっかあ。そうだったんだ。」

「うん。創作するんだったら、いくらでも思いの丈をぶつけたらいいかもだけど、科学は客観性が命だからね。」

「でも、」

灼は首を傾げて、尋が言い出す言葉を待った。

「この、Tレックスが大地を踏みしめて周りの動物達を震撼させた・・ってのは、いいなぁ。」

と、尋は悪戯っぽく笑って灼を見つめた。

「ちょっと、やめてよお、もお。」

その後も、大木の根元辺りで2人の弾む声がしばし続いた。秋の港の夜景の中、その一角だけさながら南国の優しい日差しに包まれたようだった。


 一頻り話した後、2人は外に出て夜風に当たりながら港の夜景を眺めた。

「こういうのをロマンチックっていうのかなあ。」

灼が柵に肘をつきながら呟いた。足元の海から次第に対岸の方の光りに目をやりながら。

「暗闇に光りが浮かび上がると、人間は美意識を覚えるように出来てるのかもなあ。化石燃料の成れの果てだけどね。」

辺りのカップルとは到底空気感の沿くわない尋の言葉を聞いて、灼はくるっと向き直った。

「やっぱ変わってるね、尋さん。そっかあ。太古の生き物は、こうやって最後の命を燃やすのかあ。」

そういって、にっこり微笑んだ。夜景をバックに灼の笑みを柔らかい光が包んだ。

「いけねっ。ロマンチックだ・・」

尋は心の中で呟いた。しかし逆光の灼から目を逸らすことは、もう出来なかった。そして息を呑んで、暫し黙り込んだ。

「ね、また偶然を期待する?。」

言葉を繋いだのは灼だった。今日会えたのは偶然なんかでは無い。自身の気持ちがどうしてもそうさせたかったからだ。尋は解っていた。しかしそれでも会えたのは、やはり偶然なのかも知れない。

「こんな風に運を使っちゃ、しまいには無くなっちゃうなあ。連絡先、聞いていい?。」

スマートなやり取りかどうかなんて、どうでもいい。今日は2歩踏み出したが、尋はそのことを不思議とは思わなかった。

「はい。」

そういって、灼はスマホの画面を尋に見せた。そこには彼女のケータイ番号が示されていた。パケットの無いガラケーで、尋は灼にTelをし、2人はお互いの番号を交換した。そして、今日見た不思議な生き物の話などをしながら2人は駅の方まで歩いていった。そして、ホームの入り口付近にある並木辺りで別れの挨拶をしようとした途端、

「面白かった。ホント。じゃあね。」

といって近づいてきたかと思うと、灼は尋の頬に軽く口付けをした。

そして、階段を上がっていった。少し遅れて、尋が緩やかに右手を振った。今度も、また会う約束などもせずに。しかし、ガラケーには彼女の番号、そして今にも外に漏れ出しそうな鼓動が残された。

「こ、この胸のときめきは・・、不整脈?。」

などといってる場合じゃ無えーな、と、尋は1人でクールダウンがてら歩きながら帰路についた。いつも見慣れている地下鉄の窓には黒い壁面が流れて行った。ただ、いつもよりほんのり赤い色が走っているように尋には見えた。


 いつも日曜は何をするでも無く、遅い午前に起きてはパンを囓りつつインスタントコーヒーを飲みながら、ラップトップで動画を見たり調べ物をしたりなルーティーンだった。これまでは。

「やっぱ、誰かと出かけたりってするんだろうなあ。」

急に自身の行動パターンを、あらためて不思議なのかもと思いだす尋だった。そう思う理由は明らかだった。窓の外は秋晴れだった。しかし、尋は昨日のようにサッと上着を羽織ることは無かった。昔に負った心の奥底にある傷に敢えて触れてみて、何となくいつもの休日と同じように過ごそうとした。やはり大事なものが壊れる感覚は、出来れば避けたい。怖さとは、おいそれと克復できるものでは無かった。そして、近くのコンビニに買い出しにでも行こうかと思ったとき、

「ピポピポ♪」

と、尋のガラケーから古風なビープ音が響いた。灼からだった。

「もしもし、尋です。」

「灼です。こんにちわ。今、いい?。」

「うん。何?。」

「レポートのことなんだけど・・。」

昨日はザックリとレポートの書き方を説明はしたが、やはり論理的な文章を書くのには手順や形式といった慣れが必要だった。尋はゆっくりと書き出しから論証の列挙、比較検討などの方法と結論への結びつけ方などを説明した。灼は真摯に耳を傾けて尋の言葉を逃すまいとしているようだった。休みでもバイトに明け暮れる子もいれば、真面目に課題に取り組む子もいる。大学とは受かってしまえば後は遊びたい放題、そんな風潮のある中、彼女は珍しく後者だなと少し意外に感じた。何時会っても・・といっても2回だけだが、紅い晴れやかな服装に明るくにこやかなキャラ。でも、典型的な現代っ子にしては尋の嗜好に興味を示してくれる。そして課題に直向きな子。尋は心音の高鳴りとは別に、何か親近感のようなものを覚えた。実は彼も先に大学に受かる友人達を見て、遅ればせなが晴れて大学生になった暁にはパッと遊んで・・と思いつつ、全く上手く楽しめず、結局は真面目に課題や実験をこなすのみの学生生活であった。流行りのように大学に行き、流行りのように就職活動に切り替えるみんなとは、全てズレた所に尋はいた。かといって、このまま研究職に進むでも無く、日々を成り行きで過ごしてはいた。しかし、今となってはあの時のあの自身の姿勢が何らかの芯のようなものを形成して、そしてこうやって人に伝えることが出来ている。感謝の念も勿論あったが、人が何かを探求する際の観察という行為が普遍なものであるなと、あらためて感じるのであった。


 多忙な彼女を何処かに誘うのも気が引けたので、尋は文章の構成に必要な骨組みを端的に伝えたあとはすぐにケータイを切った。いつも授業で講義をするのとはまた別の、何とも言えない充足感があった。かつてホワイトボードの前で熱弁を奮ったあの現国の講師を思い出していた。

「知の継承かあ。」

人間が思考する上で最も大切なのは知、そしてその奥にある概念。そういうものをパーツとして組み立てていく作業、それが思考。出鱈目に積むだけでは何も形成されず崩れ去るが、言葉の約束事に則って組み上げればそれはやがて構造を成し、そして残っていく。そういうものが論理である。初めて聞いたときは自身の無知さに愕然とした尋であったが、やがては論理というものが如何に揺るぎがたく大事なものであるかを悟った。ただ、あまりの威力、いや、切れ味に対して逃れられない力強さを感じたものの、やはり今もそのツールを使いこなす以上の存在にはなっていない。そのことについては触れないままであった。

「さて、ちょい出かけるか。」

尋は近くのコンビニにではなく、少し足を伸ばして繁華街に出かけた。喧噪は決して好きでは無いが、レトロなテーブルゲームの並ぶゲーセンだけは別であった。3Dのゲームが全盛な中、尋は二次元のドット絵が荒々しい旧式のゲームを好んでプレーするのが数少ない趣味の1つだった。夕暮れで賑わう飲食店街を通り抜け、さらにその奥に進むと急に人気の無い古びたゲーセンがあった。書店で必要な問題集などを買った帰りには大抵立ち寄ってはプレーしていた。入り口付近のUFOキャッチャーの辺りを過ぎて、奥にあるお気に入りのテーブルに向かって進んだとき、尋はハッとした。

「黄色、だ。」

そこには目の冴えるような蛍光色のジャケットを羽織ったおかっぱの少女が座っていた。しかも、ゲームをする様子も無く、何やら本とノートを広げているようだった。あまりの光景に尋が息を呑んでいると、少し離れた所からでも異変を感じたのか、その少女がふと見上げた。

「あ。」

少し驚いた表情を見せたが、既にその何倍もの驚きに満ちていた尋は何気にたずねた。

「何してるの?。ここで。」

「勉強。見りゃ解るでしょ?。」

それは解る。いや、理解が追いつかない。澄んだ瞳で見上げる彼女の手元には、例の箇条書きのノートに自分なりの絵を添えて先日の授業を復習しているようだった。何も無い平原にやがて植物が茂りだし、陽性樹から陰性樹に移り変わる様をイラストチックに丁寧に模写していた。こんな細やかな作業を何故よりによってゲーセンの騒音の中で・・。

「いつもこんな所でやってるの?。勉強。」

「うん、たまに。家だと落ち着かなくて。」

やはり理解が追いつかない。図書館や、もっと落ち着ける場所が他にもあるだろうに。しかし、そもそもの出会いが一際映えた黄色とおかっぱ。雑音が静寂への転換点になっていたとしても不思議では無いのかも知れない。ま、十人十色ともいうし、などと考えていると、

「ねえ、先生。どうして移り変わるの?。木は。」

「それは遷移といって・・って意味では無くって?。」

「うん。彼らの間に残りたい、残すまいっていう感覚、無いのかなって?。」

最初の疑問に、彼女の奇異さは窺い知れた。なので、従来通りの生物学的な回答を求めてはいない所までは尋も何となく予想は出来た。が、しかし、擬人法では無く、さらにその先の樹木にもあるであろう精神という前提で質問されようとは。尋は答えに窮した。が、

「一般的には神経系が無い植物は、感覚を持ち得ないとは聞くね。でも、我々が知らないだけで、何かそんな攻防が密やかに行われてるのかもなあ。」

少女の澄んだ大きな瞳がさらに大きくなった。

「どんな風に?。」

「うーん、我々とは時間のスパンが全然違うから言葉で表現するのが的確かどうかわ解らないけど、きっと人間には聞こえない程度の唸り声のようなもので、根比べみたいなことやってるのかな。木だけに。」

少女は少し拍子抜けしたような様子だったが、次の瞬間、

「あは。木かあ。面白いね、先生。」

と、尋のくだらないウィットに反応した。そして頬に笑みを浮かべて、

「なるほどなあ。言葉は人間だけだもんね。唸り・・かあ。時間って概念も人間の側の考えだもんね。」

感嘆の弁を述べる少女の言葉を、尋は聞き逃さなかった。彼女は概念の何たるかを知っている、いや、心得ている。本来理屈のツールとして用いる単語を、彼女はまるで皮膚感覚のようにサラッと使っている。尋は衝撃だった。かつての師匠が一番注意せよと前置きして述べたのが、それであったからだ。

「時間と空間。このテーマには気をつけろ。並大抵の知識では振り落とされるぞ。」

樹木の移り変わりとは、まさに時間と空間の流れ。そしてそれを感性で捉える黄色い少女。おかっぱの。師匠の教えも易々と日常の中でさらりとこなしている。

「ね、アイスでも食べよっか?。」

「そうだな。」

古い地底怪獣を空気銃で倒すゲームをプレイしに来たはずが、とんでもない怪獣に出くわした。尋はこのちょっとした興奮を冷ますべく、表の自販機の所でアイスを2つ買って1つを彼女に差し出した。

「いいの?。ありがと。」

そういって彼女はモナカにぱくついた。尋もゆっくりとモナカを囓りながら、今日のこのことが決して無駄足では無かったと、あらためて思い返していた。


 気がつけば夜もそんなに浅い時間では無くなっていた。

「送ってくよ。最寄りの駅まで。」

「何で?。」

「いや、もう遅いし。」

「じゃ、いいよ。送ってくれなくて。」

尋にしてみれば、黄色い私服は着ていても普段は制服組に交じって勉強する生徒であることに変わりは無かった。尋は少し困惑した。すると、

「立場上、マズい?。じゃあさ、あたしと一緒にいてくれる?。」

図星な洞察と、次いで意表を突かれた言葉。尋は彼女を見据えた。少し上目遣いにこちらの様子を窺うその瞳は小兵ながらも夜行性の猛禽類のそれであった。尋は一瞬で萎縮した。

「なーんてね。それもマズいか。あは。」

この状況から解き放つ言葉を発したのは彼女だった。年嵩は随分下だが精神年齢は遥か上にあるなと、尋は何となく弄ばれてる感覚に見舞われた。が、事実、その通りであった。

「じゃ、あたし、そこの駅から帰るから。」

といって、ゲーセンのある通りから見える地下鉄の入り口を指差した。そしてにこやかにふり向きながら、

「アイス有り難う。さようなら。」

と、少し丁寧に会釈した後、右手を振った。去り際には、

「先生、面白いね。じゃあ明日。」

と言い残して駅の方まで弾むように去っていった。去り際まで尋の上をいく、ヘアスタイルと服装こそ不釣り合いだが鼻筋の通った端正な顔立ちに澄んだ大きな瞳。頭の中を禁断の二文字が過った。

「何か知らんけど、イカンぞ。」

と、尋は気を逸らそうとした。そして、少し冷静になったところで、

「あ、今回もいわれたなあ。」

彼の人生において、女性たちから自身をこんな風に評価されたことなど皆無だった。しかもここ数日に二度も。恐らく思春期の初期だったであろう。自身が異性から注目を浴びる対象の外に立っていることを自覚したそのときから、尋はやや癖のある自然体なスタンスで過ごしてきた。そのつもりであった。それが最近は自身でも妙に思うぐらいに異性との縁が。

「モテ期、到来かあ。」

と呟いた後、

「んなバカな。」

と、直ぐさま前言を撤回して、ゲーセンに戻るとようやくお目当ての機種に小銭を入れてプレーを始めた。無論、結果は散々だった。蝋梅の消えていないのを悟った尋は、そそくさと退散した。


 翌日、午前中に尋のケータイにメールの着信音が響いた。起こされたついでに小さなペットボトルのお茶を飲みがてらケータイを開くと、灼からメッセージが入っていた。レポートが一通り出来たので見て欲しい旨の内容であった。直ぐさま折り返し電話した。

「あ、もしもし、尋です。」

「もしもし、灼です。メール見てくれた?。」

「うん。出来たみたいだね?。」

「うん。でも、これでいいかどうかイマイチ解らなくて。今日時間ある?。」

早速の再会は灼からの誘いだった。尋が出勤前なら大丈夫と伝えると、2人は彼が勤める予備校裏の小さな茶店で落ち合うことになった。灼の通学途中の乗り換え駅も丁度その辺りだった。

「ゴメン、待った?。」

「いや。さっき来たとこ。」

2人は古風な木造りの茶店の、一番奥にある席に座った。柱を背に尋が、その向井に灼が座った。ここはかつて師匠が陣取り、取り巻きの生徒達で賑わった場所だった。そこを今は2人がひっそりと腰掛け、灼が書き上げたレポートをゆっくりと読む尋の姿に代わっていた。そして、読み終えた後、

「よくまとまってるね。引用文献とか、随分検索してあるし。」

「うん。自身の思い入れじゃ無くって、如何に過去の例をなぞっていくことが大事かって。その助言通りにしてみたんだ。」

淡々と答えた灼だったが少しだけ不満げに、

「でも、こんな風なのでいいのかな?。レポートって。」

「うん。むしろそうじゃ無いとね。キミの指導教官、話聞いてたら何か五月蠅そうだし。ただ・・、」

「何?。」

灼は尋の顔を見つめた。

「ぼくはあの自由な表現の方が好きだけどね。」

そういって尋は微かに微笑んで灼を見た。

「またあ。」

少し照れくさそうに灼は微笑んだ。そして、2人はテーブルに運ばれたホットミルクティーを尋が、ココアを灼が飲みながら、その後も談笑した。穏やかな時が流れていった。そして、

「ところで、尋さんって、この辺りに勤めてるの?。」

「うん、すぐそこ。」

といって、茶店の窓から隣にある建物を指差した。

「そこの予備校。非常勤だけどね。」

「へー、そうなんだ。そういえば・・、」

と、灼は何か思い出したようだった。

「妹も確かこの辺りの予備校に通ってたような・・。」

尋は別段、気にはしなかった。この辺りには幾つも予備校が建ち並んでいるし、自身が勤める所はその中でもマイナーな所。恐らくは大手のどこかに通っているのだろうと思った。しかし、今にして思えば、この時に気づいておけばと、尋はかなり後に思うのであった。


 その後、灼は大学に、尋は仕事に向かうため茶店を出て二人は別れた。去り際に、

「ねえ、今度お礼に食事しよっか?。」

灼がいった。尋はニッコリと微笑んで頷いた。

「じゃあ、また連絡するね。今日は有り難う。」

そういって灼は駅の方へ歩いて行った。その姿をしばし眺めて見送ったあと、尋も職場に向かった。彼が黙って頷いたのには訳があった。端的に言葉がついて出なかった。デートがてら女性と食事をしたことが無かったからだった。異性との雰囲気を楽しみながら街を散策する、そういう普通の若者がするであろうことに尋は興味が示せなかった。かなり以前に少しの間だけ女性とつき合ったことはあったが、相手への思い入れとは逆に如何にもマニュアル通りの要求に合わせることに、尋は辟易した。そんな矛盾をはらみながら続けた関係は、やがては必然的に別れへと向かった。そして、再び出会う以前の存在に戻るのでは無く、喪失感だけが尋の奥底に刻まれた。その時感じた潰えぬ闇を、紅く照らす炎が消し去ってくれるのかも知れない。いや、すでにその明かりの方に自らが惹かれるように歩み出している。もし、かつてと同じようにお決まりの食事に導かれたとしても、今度は何もいわないでおこう。そういう微笑みと頷きであった。


 出勤後、いつものように狭い講師室で夕方の講義の準備を済ませると、尋は空を見つめながら師匠のことを思い出していた。これと決めた女性に狙いを定め、猛烈にアプローチして落とす。そんな激しい恋バナの幾つかを熱く語っていた。現にパートナーとなった女性と尋も一度会わせてもらったことがあり、当時その界隈で噂になるほど美貌だった。スラッと背の高いエスニックな顔立ち。競争相手が後を断たない熾烈さを、あの情熱でゲットしたのであろう。

「何においても激しい人だったなあ。」

僅かな恋の失敗で隠遁生活のようになった尋には眩しい限りであった。そうこうしているうちに講義の時間になり、細い廊下を通って尋は教室に入った。今日も前列には制服組が陣取り、その中に黄色いおかっぱの少女も座っていた。が、先週までとは何かが違った。尋はテキストを開いて講義を始めながらボードに板書をしては振り返って生徒を見た。みんな一斉にノートを取っているが、その中からレーザービームのよな視線を感じた。そう、黄色の彼女だった。先週までは特に顔を上げること無く、要点だけを箇条書きにしながらノートの橋にイラストなどを描いていたのが、今日は彼女だけが尋の目を見つめていた。そして、心なしか楽しげにも見えた。いつもは淡々と流暢に生物の説明をするのが尋のスタイルだが、

「えーっと、植物の森林限界について・・やったかな。」

と、珍しくしどろもどろな出だしになっていった。例のゲーセンでのロースコアのことがフラッシュバックしていたことは、いうまでも無い。それでも気を取り直し、講義に集中するにつれて尋のトークは熱を帯びていった。樹木が高緯度になるにつてれ、植相が広葉樹から針葉樹へと変わっていく。その様子がすなわちその地域の自然を表しており、樹木の様子が暖かさや冬の厳しさも同時に表している。そしてやがては森林さえも無くなる凍てついた氷の大地へと変わっていく。しかし、そこで生物の営みが終わるのでは無く、カリブーやその他の動物が地衣類を掘り起きして食べながら逞しく生き抜く様や、氷に閉ざされた海洋では植物プランクトンが動物プランクトンを呼び、やがてはそれらを食する小魚を、さらにはそれをも食する大型の魚類や鯨類の壮大なドラマがあることも熱弁した。そして、一息ついた時にふと前列を見ると、やはり黄色い少女は真っ直ぐに尋を見つめていた。まさか講義の間中ずっとか・・と思い、彼女のノートに目をやると、いつも通りに要点だけはきっちりと箇条書きにまとめられていた。様々な森林のイラスト付きで。流石に尋は感心した。そして終業のベルが鳴って教室を出ようとしたとき、1人の生徒が尋を追うように近づいてきた。黄色い少女だった。そして、

「先生の話、その向こうに林が見えるね。流氷の下の生き物も。まるで生けるオーロラビジョンだね。」

といって、くるっと教室の方を向いて戻って行った。おかっぱのエッジが見事に円を描いた。何よりの、生徒からの評価であった。尋は彼女の言葉では無く、円を思い出しながら控え室へ戻っていった。


 何か最近、視覚効果が目まぐるしい。尋はそんな風に感じていた。たまに講義で熱く語る以外は淡々とした毎日。モノトーンな博物館で展示物を眺めたり、たまに生物でも観察をしに近くの公園で動植物を見るコトはあったが、それは彼が知っている色彩の世界に過ぎない。が、しかし今は違う。不自然なぐらいに2つの色が交互に視界を突き抜けて脳に飛び込んでくる。これまでと変わらぬペースを取り戻そうにも、最早無理なのでは無いか。それが再び動き出すということなのかも知れない。そういう流れに身を置いてみるのもいいのかも知れないなと、次第に尋は思うようになった。そんな週末のある夕方、仕事終わりの尋が帰り支度をしているとケータイが鳴った。

「もしもし、灼です。今いい?。」

「うん。レポート、どうだった?。」

「それがね、どうやら上手くいったみたい。かなり渋い顔してたけど。」

「渋い顔?。」

「うん、そう。本当に自分で書いたのかって思ったのかな。」

そう聞いて、尋は少しホッとした。あの手の小うるさい指導教官がすんなりとレポートを受け取ったり評価することは無い。しかし、そういう堅物だからこそ科学に対する忠誠心はぶれない。だからこそ相手に違和感は持ちつつも、そこに客観性が見出せれば肯定せざるを得ない。それが研究者という生き物であることを尋は解っていた。

「で、今日この後、時間ある?。」

灼が切り出した。

「うん、予定は無いけど。」

「じゃあ、この前いってたお礼。今から場所いうね。」

そういって、灼は尋がいる場所から少し離れた所に来るように伝えた。尋は少し不思議に思いながらも、

「OK。じゃあ、後で。」

そういってケータイを切った。番地から察するに、繁華街やそういう賑やかな場所では無く、少し奥まった住宅街のような所だった。歩いてみると結構な距離だった。そして、少し車の往来がある表通りを曲がって裏路地に入ると、やはりそこは住宅街だった。そこを左に曲がって2件目の家が指定された待ち合わせ場所だった。

「あれ?。ここ、お店みたいになってるな。」

見ると、そこは玄関部分が小さな店舗スペースになっていた。白いドアの硝子越しに覗くと、ほの明かりの灯った店舗にはカウンターがあって、中でお店の人が調理をしているようだった。そのドアを開けて中に入ると、

「いらっしゃい。」

といって、カウンターの中から灼が出迎えた。尋は驚いた。

「あれ?。ここでバイトしてるの?。」

「うん、まあね。正確にはちょっと違うんだけど。」

といって、灼は手際良く調理を続けた。僅かなテーブル席とカウンターのある洒落たお店で、壁にはドライフラワーが幾つも飾られていた。

「ここにどうぞ。」

灼はカウンター席の中央辺りに尋を案内した。そして、フライパンで何かを焼く音やフライヤーで揚げ物が弾ける音と香りが店内に広がった。今日の灼は紅では無く、バンダナで髪をまとめ、白いシャツにエプロン姿の料理人だった。

「何飲む?。お酒類は一通りあるみたいだけど。」

「いや、ソフトドリンクある?。」

「OK。」

そういって、灼はグラスに氷を入れて葡萄ジュースをを注いだ。そして、コースターを敷いた上に置いて尋に差し出した。

「どうぞぉ。」

「サンキュー。」

実に様になっているなと、尋は店内とカウンターで調理をする灼を交互に見た。そしてグラスに口を付けて、

「あ、これ、美味しいね。」

「絞りたて。」

「へー。凄いね。」

こういうジュースは既製品と思い込んでいた尋には衝撃な味だった。果物の香りと酸味、そして優しい甘さ。しかも、わざわざ絞って作るとは。そして程なく、

「はい、お待ち遠様あ。」

といって、白い皿の上にハンバーガーとフライドポテトが山のように盛られていた。

「うわっ。これ、キミが作ったの?。」

「そだよ。見てたでしょ?。」

そういって、調理を終えた灼も同じ物をカウンターに置き、バンダナとエプロンを外して尋の隣に座った。

「さーて、召し上がれ~。」

「うん。頂きまーす。」

尋は初めて会ったときと同じように、ハンバーガーにかぶりついた。ふっくらとしたバーンズに程よく平らにされて焼かれたハンバーグ。ファーストフードの比では無かった。

「美味っ。これ、ピクルス、どうしたの?。」

「えへへ。特製。ここで漬けてるやつ。」

そして、灼も一緒にハンバーガーにかじりついた。二人はモグモグ食べて、そこからしばらくは無言だった。口いっぱいでは、喋ることも出来なかった。ようやく、ポテトを摘まんで食べれるぐらいになって、再び会話が始まった。

「何か、何もかも驚きなんだけど。何でハンバーガーを?。」

尋は聞きたいことが多すぎて困ったが、まずは今回のチョイスについて聞いてみた。

「あんなにハンバーガーについて美味しそうに語る人、初めてだったから。」

尋はその時のことを徐々に思い出した。確かに期間もののメニューをお勧めするファーストフード店に乗っかってそれを注文するのは普通だろう。しかし、尋はシンプルにオリジナルな物が好きだった。そのことを彼女は覚えていた。

「で、私、ちょっと縁あって、美味しいバーガーご馳走出来るかなって。」

「それでここに?。」

「うん。」

そういって、灼はにこやかにポテトを摘まんだ。

「お決まりのマニュアルがどうとか・・って、そんな次元じゃ無いよなあ。」

ここまで心地良いご馳走の場なんて、果たして想像し得ただろうか。そして、カウンター席には尋と灼の二人だけ。

「あれ?。今日、お客さんは?。」

「来ないよ。貸し切りだもん。今日。」

さて、次に何から聞こうか。そう思って尋右横に座る灼を見つめた。美味しそうにポテトを囓りながら少し首を傾げて見つめ返す彼女を、後ろからの照明が照らしていた。乾いた花々の香りが仄かにした。


 葡萄ジュースを飲みながら、二人は暫し談笑した。尋はもてなしという言葉は勿論知っているが、本当の意味とはかくの如く出来るものなのかと熟々感心した。そして、

「紅、好きなの?。」

尋はたずねた。今日は調理のために上着は脱いでいたが、いつも紅い出で立ちで表れる彼女を不思議に思っていた。

「うん。好き。何かパッとするでしょ?。」

確かにそうである。尋の生活の中に原色を配したものは殆ど無い。ましてや纏う衣服は奇を衒わない落ち着いたトーンのものばかりだった。すると今度は灼がたずねた。

「あの時、何であの巻き貝、アンモナイトだっけ?。あそこにずーっといたの?。」

「何でだろう。ずーっと昔にあれだけいたのに、今、1つもいないしことが不思議でね。でも、ほんの僅かに難を逃れた種類は現存してる。それが唯一の生きてた証ってーのも、やっぱ不思議かな。」

「え?、それって何?。」

「オウムガイだよ。シンメトリーな巻き貝に入ったイカみたいなやつ。」

「え?、あれ、そんな昔から生きてるの?。」

「いやいや、勿論、世代交代はしてるさ。そんな長寿な生き物なんていないさ。」

尋は笑った。彼女の発想のユニークさに。灼はちょっと恥ずかしそうにジュースを飲んだ。そして、

「恐竜が大活躍して、でも急にいなくなったけど、その内の小さなトカゲとかが生き残って今もいるのは知ってたけど、それと同じかな?。」

と、素朴にたずねた。

「うん、多分。ディープ・インパクト以降は、体の大きな生物は自身の体を維持出来なかったんだろうな。陸上でも海中でも。で、それ以前に競争に負けて深海に逃げた連中だけが生き残ったと。ニッチっていうんだけどね。」

「ニッチ?。」

「うん。誰も行かない、手も付けないよーな所。そこを敢えて選んで暮らす生き物が、結局は生き残ると。オウムガイや、他には・・、」

「他には?。」

「シーラカンスとか。」

灼はニコッとした。

「やっぱり。じゃあ、あなたはニッチを見つけたんだ。」

2人は出会った時の事を思い出していた。そして、

「ニッチ・・かあ。」

尋は自信の言った言葉を、こんな風に灼から再び言われることで、あらためてその意味を噛みしめていた。

「あのね、今だから言うけど、あたし、色んな男の人を見てきたのね。でも、何故かみんな、何かを手に入れようとか、何処かに登ろうとか躍起になってるの。それが男性本来の姿なのかな・・って。」

尋は少し驚いた。見た目によらず、経験があったであろう告白に。

「でもね、博物館であなたを見かけた時、何か違うなって。今までのどの男性よりも。」

「どんな風に?。」

「何て言うのかな、競争心とか、そういうのを全く感じなかったの。」

ドキットした。尋が終始避け続けて来たものが他人との競争だった。生物を学ぶ彼には、そんな自身の面が生存能力において劣るもだという意識も手伝って、そのことに自覚的ではありながらも、あまり肯定はしていなかった。しかし、灼はそのことを言葉を交わすより前に見抜いていた。そして、灼は続けた。

「だから、思わず声を掛けたの。あまりに不思議だったから。」

「で、声を掛けてみて、どうだった?。」

尋はたずねた。その先を聞いてみたかった。

「思った通り。野心みたいなのを全く感じなかった。でも、自分が本当に好きなものを見つめてるんだなって。」

尋はグラスを置いて、彼女をじっと見つめた。そして、沈黙した。

「どうしたの?。」

「図星だなって。だから・・」

「だから、何?。」

灼はたずねた。尋の目を見て。

「自分の本当に好きなものを、今見つめてる。」

尋は少し微笑んで、再び沈黙した。灼もほんの少し微笑んだ。その僅かな時間の間に微かな息が掛かる程に2人の距離は近づいた。そして灼は目を閉じ、2人は唇を重ねた。そして、

「ソフトね。」

といって、今度は灼から口付けをした。尋は少し圧倒された。でも、抗うこと無く状況に身を任せた。

「あ、いけない。」

「ん?。どうしたの?。」

灼の言葉に尋が聞き返した。

「だって、外から丸見えじゃん。」

「はは。確かに。」

いくら裏通りとはいえ、ブラインドも閉めずにほの明かりの中で2人が口付けしている様子は人目を引く。2人とも我に返って笑い合った。そして、ようやく尋は本題ともいえる質問をしてみた。

「ここって、どういうお店?。」

「あたしの伯母のお店なの。で、たまに手伝いに来てるの。」

「どおりで、手際がいいワケだ。」

灼はニコッとして喜んだ。そして、

「でも、こんな風にバーガー作ったの初めて。」

尋は灼の心遣いをあらためて知った。何やら胸の辺りが熱くなった。そして、

「で、伯母さんは?。」

尋はたずねた。すると、

「旅行。2~3日出かけるって。」

そう答えると、灼は席を立ってカウンターに戻り、2人が食べた食器を洗って片づけ始めた。

「あ、手伝うよ。」

「いいの。座ってて。」

いわれるがままに座っている間に、灼は片づけを終えた。そして、

「さーて、閉店しよっと。」

灼は窓の上からブラインドを下げて、店の突き当たりにあるドアを開けて電気を付けた。そして、店の照明を落として、尋の背中に手を回した。2人は抱擁し、口付けを交わした。

「来て。」

そういって、灼は尋の手を握って、二階へ上がっていった。


 食事に訪れるのはいいが、一面識も無い人の家に勝手に上がり込むのに尋は若干の躊躇はあった。しかし、灼が再び首の後ろに手を回して来て、二人は熱く唇を重ねた。カーテンの隙間から通りの薄明かりが差し込み、灼の顔を照らした。頬が、黒い瞳が。綺礼だった。そのまま二人はゆっくりとベッドに倒れ込んだ。衣類の擦れる音、そして微かに漏れる声。静かに、激しく、それぞれの時間がやがて一つに結ばれていった。初めは灼が、やがて尋が。二人の逢瀬は幾度となく続いた。そして、どれくらいの時間が経ったであろう。心地良い気怠さの中、尋は天井を見つめた。左の頬を涙が伝った。感涙だった。

「どうしたの?。」

少し気怠そうに、灼がたずねた。

「うん、何かよくってね。」

尋がそう答えると、灼は左の頬にキスをした。

「どんな風に?。」

「こんな風な気持ちになることは、もう無いと思っていたから。」

尋は自身が恋愛が下手な上に、心の傷を引きずったままであることを自覚しながらも封印してきた。もうそのようなことには近づかない方がいいと、ずっと考えて生きてきた。しかし、初めこそ奇異な目で見てくる一人の女性が、やがてはそんな尋の心を魅了し、氷壁を解かして浸透していったのか、尋自身の心臓が熱源となって解け出したのか。いずれにしても二人は人生の時間が重なり合った。そのことを尋はこれまでに無い感慨深さで思わず芯の部分が熱くなった。そして涙した。そんな尋を見つめながら、灼も少し目を潤ませてニッコリと笑った。そして、

「あたしも、こんな風な気持ちになったの、初めてかも。」

「どんな風に?。」

灼の言葉に、今度は尋が聞き返した。自分より幾つも若い彼女が恋愛の経験は豊富そうなのは窺い知れた。だが、そのことを一度も確かめたことは無かった。灼も天井を見つめながら、

「何だろう。いつもはあんな風に声をかけることなんて無かったのに、何かきになっちゃって。でも、いざ声をかけてみたら、思った通りだったなって。」

「どう思ってたの?。」

「生ける化石。」

尋はきょとんとした。そして灼は再びニコッとした。そして、

「変わることの無い、そんな感じ・・かな。普通のハンバーガーでさえ、思い入れいっぱいで語るんだもの。」

そういって、灼は微笑んだ。尋は自身への評価に、至極合点がいった。さらに、

「だからかなあ。何か急にチャレンジしたくなっちゃったのかな。あなたに。」

自分の一体、何に挑まれたのだろう。そして、その挑戦の勝敗は如何なるものだったのだろう。尋は少し不思議に思った。でも、今こうしていることがその答えなんだろうなと、尋は思った。そして二人は横になったまま見つめ合い、抱擁してキスをした。そして二人は微睡んだ。


 翌朝、心地良い目覚めとともに、尋は昨日からの状況を少しずつ思い出していた。カーテンの隙間からは朝の日差しが差し込んでいた。隣には誰もいない。尋一人が横たわっていた。そうなると、やはり知らない人の家であったことが急に頭の中に迫ってきた。何となく申し訳なく思い、脱ぎ散らかした服をさっと着て寝床を整えた。そして一階へ降りていった。

「あ、おはよう。」

灼は既に起きて、カウンターで何やら調理をしていた。

「おはよう。」

尋も挨拶をして、昨日と同じカウンター席に座った。そして、

「何作ってるの?。」

「朝食ぅ~。お腹空いたでしょ?。あんなにガンバるから。」

そういって灼は微笑むと、再び調理を続けた。尋は彼女の言葉に少し照れながら、しかし、率直で飾りっ気の無い所に胸の辺りがときめいた。そして、

「はい、お待ちどぉ~。」

灼はトーストと小さなサラダ、そしてゆで卵とミルクティーを尋の前に並べた。そして、同じ物を持って、灼も尋の横に座った。尋は、モーニングといえば普通はコーヒーがと思うのを、さっと紅茶を出してきたことに思わず、

「あ。」

と、以前の出来事を声を出して思い出した。二人が茶店で合った時に、自分がミルクティーを飲んでいたのを彼女は覚えていたのかと。何だか目の前の女性が気遣いの達人に見えた。灼は尋の声に一瞬首を傾げたが、ニコッとしてトーストにかぶりついた。

「頂きま~す。」

尋も同じくトーストにかぶりついた。焦げない程度に程よく焼かれ、香ばしいバターの味が広がった。紅茶もいつも尋が飲むティーパックでは無い、何とも甘くていい香りのする茶葉だった。そして何より驚いたのが卵だった。

「この卵、どーやって茹でたん?。」

白身のみが固まって、中の黄身は完全にとろ身のままな半熟だった。京都の老舗料亭かよと、尋は思った。「えへ。ひ・み・つ。」

灼は笑って食事を続けた。恐るべし、達人。


 尋にとっては豪華すぎる朝食を済ませた後、職場に向かうべく先に店をる直前に、

「じゃ、また。」

といって、軽く口付けを交わした。灼は片づけがあるとのことで、尋を見送った後、店に戻った。気怠くも心地良い歩み。こんな感覚は何年ぶりだろうか。いや、初めてかも知れない。何処までいってもさり気なく、そして考え尽くされた心遣い。人はこんな風に人を持て成すことが出来るものなのだろうか。そして夜の仄かな光と朝の眩しい光に照らされた彼女の横顔。尋は急に胸の辺りが熱くなった。愛おしかった。そして、

「あ、イカン。俺、にやけてないだろうか?。」

尋は立ち止まって両手で頬を押さえた。そして、

「よしっ。」

と気合いを入れて、職場に向かった。到着後、講師控え室に入ると同僚で古典を教えている女性講師が先に来て講義の準備をしていた。

「こんにちは。」

尋が先に挨拶をすると、

「あ、こんにちは。」

と、彼女も挨拶を返した。と、いつもならそれだけだが、急に、

「あれ?。何か今日、ありました?。」

とたずねてきた。尋は雑談程度はする間柄ではあるが、こんな風に聞かれたことが無かった。尋は質問されたことを不思議そうに思い、きょとんとした顔で彼女を見つめた。すると、

「いや、何か凄い楽しそうだから。」

といわれ、尋は思わず、

「バレバレじゃん、俺。」

と、心の中で叫んだ。そして、

「いや、別に・・。」

と咄嗟に返したが、彼女は空かさず、

「いとおかし・・ですね。」

といって、少し上目遣いでにやっとした。どうして女性という生き物は、こういうことに関しては、かくも鋭いのか。いや、待てよ。自身の感情が実は露骨に出ているだけではないのだろうかと、尋は次第に自分の状態が解らなくなってきた。そして、控え室にある紙コップにスティックの紅茶を入れて、ポットからお湯を注いで飲もうとした。落ち着こうとして。しかし、

「暑っ。」

尋は口先を少し火傷した。すると、彼女が横目で、

「お気を付け遊ばせ~。熱いものには。」

といって、再びにやりとした。そうこうしているうちに講義の時間が近づき、尋も講義の準備に取り掛かった。そして時間になると、いつものように細い廊下を通って教室に向かった。ドアを開けると、いつも通りの面々が尋の講義を待っていた。勿論、前列の制服組の中に黄色いおかっぱの少女も。しかし、何か今日の彼女は少し虚ろな感じだった。まあ、色んなことがあってお疲れで眠り込む生徒もいるので、尋は特段気には留めなかった。そして、

「じゃあ、今日は海洋の植物群系について。いくぞ。」

と尋がいった瞬間、一斉にノートに向かって顔を下げる一団とは逆に、黄色い少女だけが急にパッと目を見開いて、彼を凝視した。尋は一瞬たじろぎながら、

「何でそんな風に見る?。」

と、心の中で呟いた。そして講義に入ったが、時々ノートを取りながらも彼女の凝視は断続的に続いた。尋は海洋のプランクトンが海の生命を支える生産者として如何に重要かを熱く語った。地球上の全ての生物は、植物の生産活動が無ければ成立しない生態系を成している。太陽エネルギーが化学エネルギーに変換されて、巡り巡って炭水化物となって我々の食糧となっている。そういう壮大な話を、今日も幾分の物語風な語りを交えながら講義は終了した。そして、テキストをまとめて退出しかけた時、

「先生、何かあった?。」

黄色い少女が話しかけてきた。尋は驚いて、

「え?、何で?。」

と慌てて聞き返した。

「だって、のっけからやる気出てたじゃん。いくぞ・・って。」

彼女の言葉に、尋は全く不意を突かれた。

「そんなこと、いったっけ?。」

と心の中で反芻した。しかし尋には思い出せる訳もなく、ただただ泡を食った。すると彼女が、

「ん?。」

といって、彼に少し近づいた。そして、眉を動かしながら、

「アディオース!。」

といって、背中越しに右手を軽く挙げながら教室に戻っていった。何か解らないが、途轍もない勝負のようなものに完敗した気分だった。やはり女性というのは・・。控え室に戻る際、入り口付近で件の古典の講師先生が、すれ違いざま、

「おほほ、残り香で御座りまするわ。」

と、宮中の女官の如く口元を軽く押さえて去っていった。

「・・・マジか。」

尋は閉口した。手弱女たおやめとは、実に手強めであった。


 「今日は早い目に帰ろう。」

関わる女性達にことごとく何か見透かされているような感じで居心地もイマイチな尋は、早々に帰路についた。たまに立ち寄る書店の前を通り過ぎようとしたとき、

「お、尋じゃないか。」

と、聞き覚えのある声がした。はるおだった。

「おお。」

といって、尋は立ち去ろうとした。

「何処いくねん。」

無下な尋の様子に少し苛立ちを見せて、膨は尋を呼び止めた。

「何や。」

「久しぶりに会ったのによ。」

「まあな。」

確かに久しぶりであった。尋と膨は中学以来の同級生で、優秀だった膨は進学校に、そうでも無かった尋は横滑りで行けるところにそれぞれ進学した。その後、不思議な縁で彼らは同じ予備校、つまり尋が現在勤めている所で出会ったのだった。そして、二人は暫くの間、運命を共にすることになったのだった。件の師匠の元で。話は当時に遡る。


「この小論文の解答、全然ダメやないか!。」

狭い教室に詰めかけて聴講する生徒達にことごとくダメ出しをする師匠。中原中也の詩の一節か彼の真意を描き出せという難題であった。その中に、

「一人だけ近い解答を書いたやつがいる。」

師匠はそういって、膨の名をあげた。尋は驚いた。彼がこんな場末の予備校に通っていたのを、その時初めて知ったのもあるが、そこまで優秀なやつだとは思っていなかったからだった。ぬぼっとして大きな体系だが、喋りはおっとり。しかし不思議と勉強の出来るやつだった。当時は気が合って、よく喋ったりはしていたのだが。やがて二人は予備校の帰りを共にするようになった。しかし、膨は師匠に気に入られて、しばしば師匠のお供に呼ばれるようになった。暗い予備校生活にあって、師匠と彼を取り巻く優秀な生徒の人垣だけが別世界であった。実に華やかで楽しそうだった。そんな中に、尋も膨の友人ということで末席ながら仲間に加えてもらえることになった。校内では人気講師でなかなか近付けない師匠が、息の触れる距離にまで近寄れる。尋は興奮した。何かが変わるかも知れない。そんな風な期待感を抱いていた。その後、師匠の教えに傾倒するあまり、尋と膨は本来の受験勉強から逸れていき、結局二人ともさらに浪人を重ねることになった。尋は、自分はともかく、優秀な膨まで何故・・とは思ったが、それだけ師匠の牽引力が協力であったのだろう。その後、尋はフリーターで居酒屋などでバイトをしていたが、あるとき、

「師匠が独立して予備校を起ち上げたぞ。」

と、膨から連絡が入った。彼は優秀であったため、師匠の右腕として勤める傍ら、自身の進学へ向けての勉強もしているとのことだった。尋は胸が高鳴った。また師匠から教えが教えを乞える。尋は膨に頼んで、そこへ入れてもらった。学費はバイトをしながら稼ぎ、夜は夜学で師匠の元に通った。教えは峻烈を極めた。師匠は今でこそ国語を教えているが、そもそも数学の秀才でバリバリの理系だった。それが訳あって急に文転し、現国の講師となったのだった。それから尋と膨を含む数名が勉学に打ち込んだが、尋はとあることから、そこを離れることになった。女性だった。


「じゃあ、茶でもいこか。」

尋と膨は近くのファミレスに入った。窓際の席を陣取って、夜景を眺めた。

「今、どないしてるん?。」

尋がたずねた。

「ああ、取り敢えず教官の口があったんで、そこにな。非常勤やけど。」

膨は師匠の元で学んだ後しっかりと進学の道に進み、そのまま研究の世界へ進んだ。アカデミックな世界に身を置くべく、地道な努力をしていたのを尋は知っていた。そしてとうとう、その入り口に立ったかと、尋はあらためて彼の優秀さを感じた。

注文したミルクティーとコーヒーが来た後、尋は再びたずねた。

「ところで、師匠とは?。」

「・・うん。まあ、結局は袂を分かつ形にはなったかな。」

言葉少なに、膨はカップに口を付けた。穏やかでおっとりとした膨だったが、あの師匠の激しさに自身が彼の右腕として何時までも伴っているのも、よくよく考えたら不思議なことではあった。いずれは一本立ちして自身の歩みを、そう考えていたのではないか。尋はそれ以上深くはたずねなかった。しかし、やはり気になることはあった。

「で、師匠は?。」

「亡くなったよ。」

「え?。」

尋は絶句した。まだ逝くには早すぎる年齢のはずであった。ただ、遠い昔に微かな予感はあった。

「ま、表向きは体調不良ってことにはなってるが、酒でな・・。」

膨の話では、自身が師匠と離れた後に、何かと上手くはいかなくなっていったとのことだった。元々酒宴空きで、周囲を人に囲まれながら、その真ん中であの掠れ声で喋りながら高らかに笑っている、そういう華のある存在。芥川のいう「真か偽か」を価値判断基準に、全てにおいて鋭く洞察しながら瞬時に論じる、そんな卓越した数学的センスと思考。そんな師匠も、晩年には自身の思い描く世界観に狂いが生じたのであろうか。痛飲は我を忘れさせてくれるのと引き換えに、その人から寿命を削り取っていく。師匠らしい最後といえばそうではあるが。

「そうか。教えてくれて有り難うな。」

尋は黙ってミルクティーを飲んだ。すると今度は膨がたずねてきた。

「ところで、今日のお前、妙に楽しそうやったな?。」

尋はミルクティーを吹き出しそうになるのを我慢して、丸い目で彼を見つめた。こいつはそんなことに敏感なはずが無い。いや、むしろ鈍感の申し子といっていいはずだぞと。

「な、何でそう見える?。」

「いや、顔に書いとったぞ。」

男相手にも同様の絶句をしないといけないのかと、尋は半ば諦めた。そして、

「ま、何とでも思っといてくれ。」

陰鬱な青春時代を、師匠の元で哲学、文学、宗教、文化と、ありとあらゆる談義を繰り広げていた間柄な反面、女っけはからっきし無かったのが、急に訪れた春を謳歌する男を奇異な目で見られても仕方ないことではあった。


 尋はこの後、特に用事は無かったが、

「じゃ、俺行くわ。」

と、早々にファミレスを出た。昔は膨とは気さくに喋る仲だったが、師匠の元で学んでいたとき、気まずい出来事があった。いや、尋にはくさびの様な出来事といっていいだろう。師匠は著名で顔が広かったので、彼の元には様々な人が訪れた。そんな中、一人の女性が彼を慕ってやって来た。すらっと背が高く、目は大きくパッチリと開き、潤んだ黒目が魅了した。それはまるで魂を得て何処かのショーウィンドウから抜け出したマネキンのような女性だった。師匠と彼女がどのような経緯で知り合ったかは定かでは無いが、師匠の元で受験勉強に励むはずの男共は気が気じゃ無かった。尋もそんな中の一人だった。問題を解く際、彼女が何か解らないところがあるといえば、周りの男達は挙って親切に答えを教えた。帰り際には、我先に彼女を送るべく熾烈な争いにもなった。特に尋は熱心に彼女にアプローチをした。上手い感じでさり気なく彼女の周りにいる手練れの連中と違い、無骨にただただストレートに彼女に気持ちを伝えた。愚直だった。当然、彼女は困惑した。しかし、尋はそんな様子を察することは無かった。そしてあるとき、

「おう。あのな、ちょっと話があるんや。」

と、膨がいって来た。いつもなら何気に話すのが、今日は折り入ってな雰囲気であった。みんなとは離れ、人気の無いところに二人はいった。そして、

「あのな、実は彼女が俺のことを好きだといって来たんや。」

膨は少し申し訳なさそうに尋に話した。尋は一瞬、胸に剣が刺さったような感覚に陥った。もはやその時の表情は覚えてすらいない。膨はみんなとは違い、彼女に特に何らかの感情を抱いている風には見えなかった。そして、僅かだが落ち着きが戻ったかのようにみせようと、尋は兎に角言葉を繋いだ。

「そうか。で、お前はどうなんや?。」

「うん、まあ、付き合ってみようかとは思うんや。悪いけど。」

尋は、最早掠れるように強がるしか無かった。

「そうか、良かったな。」

その後のことは全く覚えていなかった。尋は師匠の元から突然姿を消した。若気の至りと軽く語るのもいいだろう。しかし、尋の心は明るく燃え尽きる恒星が一気に超新星爆発を起こし、ブラックホールにでもなったようであった。その後、虚無のなかを彷徨い続けた。何一つ漲る者さえ無くなってしまった。生ける枯井戸。いや、死しているのかも。しかし、生命の不思議というのもあるもので、そんな彼にも少しずつ動けるような気がしてきた。何か解らないが、昔に一度だけいったことのある鄙びた宿に訪れてみたいと思った。そして冬の最中、尋は山中にあるその小さな宿に着の身着のまま向かった。まだ日の高いうちに到着し、何もすることが無かったので尋は谷間を流れる小さな小川にいってみた。両岸に降り積もった落ち葉をそっと手でのけると、

「あ、魚だ。」

冬眠でもしていたであろう小魚が、勢い良く流れの中に消えていった。岩を捲れば小さな蟹がちょこちょこっと次の隠れ家に身を潜めた。尋は昔川遊びをしていた頃の自分に戻ったような気がした。そうこうしているうちに珍しく空腹感を覚えた。例の一件以来、そんな感覚とはご無沙汰だった。

「何か甘い物が食べたいな。」

宿に帰ればお菓子程度の物はあっただろうが、尋はもっと甘い何かを求めてコンビニを捜し始めた。しかし、こんな山中、辛うじて舗装されている道路はあったが、行けども行けども何も無かった。そのうち、茅葺きの民家が忽然と表れ、軒には最近仕留めたであろう猪の皮が広げて吊されてあった。その横には熊の皮も。尋はその光景に一瞬見とれたが、程なくして、

「・・・ここは熊が出るんか。」

少し日も傾き始めていた。夜道になる前に宿に戻らなければ。尋は早足で来た道を戻った。途中、大粒の牡丹雪が北風と共に強く吹き付けてきた。大袈裟では無く、凍え死ぬかもと尋は思った。そして、どうにかこうにか宿に着いた頃には、体の芯まで冷え切っていた。空腹では無く、この体の震えを何とかせねば。と、尋は此処が温泉宿でもあったことを思い出した。何の用意もして来なかったので、洗面所にあるタオルを拝借して脱衣場に向かった。そして、ガラス戸を開けると湯気が一気に立ちこめた。尋一人だけだった。そして、熱すぎない湯船に身を沈めた。吸い込む空気に湯気が混じって入ってきた。皮膚の外からも肺の内側からも尋は温められた。そして、風呂から上がると夕食の用意が並べられていた。川魚の甘露煮、野菜の煮物、白飯。どれ一つ取っても美味しかった。英気を養うとはこのことだろうと尋は思った。その夜、彼は深い眠りについた。今までに経験したことも無い深い眠りに。


 翌日、尋は宿を引き払って家に戻った。何か無性にしたくなった。それからは毎晩近所にある大きな池の周りを走ったり、筋トレをしたりして体を鍛え始めた。別に何でも良かったのだ。今まで塞がっていた地下水脈の岩盤が一気に割れて水が溢れ出るようだった。ひたすら走り、ひたすら体を鍛えた。それは一冬中続いた。そして早春のある頃になると、、今度は頭の方も冴えて来だした。自身が浪人の身であることをあらためて自覚した。このまま心の傷を引きずってだらだらと生きるのか、それとも本来自身が進もうとしていた方向に歩み始めるのか。

「よし、本分に戻るか。」

もはや選択の余地はなかった。一度きりの人生、悔いの無いように生きるには自分がどれだけやれるのかを試すしか無い。しかも、思いっきり。そして春前に気持ちの整理を十分につけて、4月に最後のチャレンジと定め、仕切り直して勉学に励んだ。ここ数年、同じようにだらだらと過ごしていたとある友人が、前の年に大学に受かるという出来事があった。何気に理由をたずねてみると、

「俺も友達にいわれた予備校にかよったら、そこが良かったんよ。」

とのことだった。その友達というのも、話題に出た予備校に通い、一足お先に合格をしていた。そんな話の流れが巡り巡って尋の所に来たのだった。尋は精神的には今が一番漲っていた。そして、言われるがままに即座にそこに入学手続きをしにいき、教材と授業の開始までにしておくべき課題を渡された。尋はその日の午後から課題に着手し、一心不乱に取り組んだ。そして、春の訪れと同時に華々しく大学に通う学生を他所に、尋はとあるオフィス街にある静かな建物に毎日通うことになった。

「シンプルだなあ。」

尋がまず驚いたのは、テキストの内容と授業スタイルだった。余分な説明は一切無い。問題だけが順番に並んでおり、若干のスペースがあるのみだった。浪人生の予備校は卒業までに本来習うべき所をやっているはずだから、後はひたすら復習するのみである。よって、前日に明日授業でやるところを予習していき、授業の時には自身で正誤の確認と添削をするのみである。メディアで人気予備校講師が華やかに出演する時代、その予備校は一切の露出もパフォーマンスも行わなかった。古風で地味。それでいて説明と問題のチョイスおよび進度

は極めて的確。要はそこが提供するものを信じて、後は自身がひたすらそれに打ち込むスタイルであった。尋は如何に自身が勉強が不慣れであるかの自認はあった。しかし、逆に得意になって成績を向上させるためにはどうすればよいかを知らなかった。闇雲にやろうとしても、気力の方が先に萎えてしまう。その繰り返しだった。あるいは、解らない問題が出て来たとき、つい本屋に立ち寄りってより詳しい参考書や問題集を漁ってしまう。それが如何に時間の無駄であるかというのに今更ながらに気がついた。自分の頭の程度にぴったり合った問題集などこの世に無い。もしあったとしても、それは自分と同程度であって、向上を目指すものでは決して無い。だからこそ敢えて難しいものに取り組むべきなのだと。故に、此処での生活はまるで修行僧の雲水が黙々と日々の作業に三昧するかの如くであった。しかし、それが尋には心地良く感じた。

「今までの人生で、これほどに自身を信じて打ち込んだことがあったか。」

もはや疑う気持ちすら失せていた。ただただ淡々と予習をし、授業で自らのノートを添削し、帰宅後は添削部分の復習と、翌日のための予習。入試当日に正解を書くために今必要なことだけを行う。頭も心もどんどん合理的になっていった。反面、今まで自身が大事たと思っていた感情や拘りといったものが鳴りを潜めていく自覚もあった。本来、そういう様々な思い入れをもっているからこそ、人間というのは人それぞれで面白い存在なのだろう。しかし、真理を探究する研究者の如く、一つの結果を得るために今自分がすべきことは何かがはっきり解った尋には、この淡々とした生活こそが全ての呼吸、一挙手一投足となっていった。一日も休まず、帰宅後も勉強に励み、これまでは何もせずだらだら過ごしていた夏休みも朝の涼しいうちに前期の復習を行い、昼は少しだけ仮眠をし、夜は再び復習を行った。このようなストイックな生活と努力の結果は、時折行われる校内模試で如実に表れた。回を追うごとに目に見えて数字は上がっていった。しかし尋は一喜一憂することなく、淡々と普段通りに学び続けた。そして年も押し迫った頃のある夜、来月に行われる共通の試験を前に尋は星空を見上げながら、

「やれるだけのことはやった。この先、合格するために身体の一部が必要だというのなら、持って行ってくれていい。」

と、密かに決意の言葉を頭の中で呟いた。そして、

「もし、これだけやっても結果がだめだったら、流石に諦めはつくなあ。自分が進むべき世界では無かったということだろうな、」

と、いずれの状況に対しても心の準備は既に出来ていた。冬の星空の元、寒かったであろう空気を尋は感じなかった。体の芯の部分から何かが発せられているような気がした。


 失恋の痛手からその後の受験に身を投じた努力が実を結ぶに至るまでは、良くも悪くも尋の一生を左右するのに十分な出来事の詰め合わせのようなものであった。感情的で曖昧模糊としたことは、師匠の教え通りに論理的に思考すれば解決の糸口は見えてくる。学問で迷いが生じそうなときは、基本に立ち返って信じて学んだことを忠実に繰り返すことで自ずと答えに近づく。そういう甲斐あって今の仕事にも有りつけてはいるし、そうやって生活の糧を得ながら静かに暮らす分には何の問題も無かった。ただ、今は少し違う。置き去りにしてきた苦手なものが急激に尋の目の前で開花し始めていた。

「灼、何してるかな・・。」

尋は仕事帰りに何気にTelしてみた。

「もしもし、尋だけど。今いける?。」

「もしもし、うん。いいよ。」

「今日この後会える?。」

「いいよ。どこにする?。」

二人は繁華街近くの公園で待ち合わせをした。尋はすぐに到着し、灼は学校からの帰宅途中だった。ベンチに腰掛けながら賑やかな方向に目を遣ると、煌びやかなライトや気の早いジングルベルが恋人達のクリスマスをしきりに演出していた。

「ホントは聖なるものなんだろうけどなあ。」

尋はそう呟きながら暗くなった空を見上げた。眩しい街中にあっても、僅かに星が瞬いて見えた。すると、

「お待たせ~。ゴメン。待った?。」

灼が紅いジャケットに身を包んで現れた。背中に白い鞄を背負って。

「さながら、サンタやな。」

「ハハ。今日は荷物がいっぱいでね。」

そういうと、尋は辺りを少し見回し、人気が無いのを確認して灼に顔を寄せた。彼女はそっと目を閉じて二人は口付けを交わした。そして、

「何か食べに行く?。」

「OK。じゃあ、レッツ、ゴー!。」

二人は繁華街の方に向かって歩き出した。特に行く当ても食べる物も決めてなかった。そして、街行くカップルを眺めながら、

「何かカップルのためにあるような感じね。クリスマスって。」

灼は何気にそういった。尋はさっき公園で考えていたことを思い出し、

「ほう。じゃあ、クリスマスって、どんな風なのがいい?。」

尋がそうたずねると、

「うーん、やっぱ、神聖なものかなあ。」

そういう灼に、尋は驚いた。見た目に華やかで明るい感じでも、感覚は古風なのかと。尋はこういう街の雰囲気が嫌いでは無かったが、縁が無くて気後れした感があった。でも、彼女は違う。今の出で立ちが、いや、彼女自身の雰囲気がクリスマスの街に溶け込んでいた。尋は率直に聞いてみた。

「何か今風な感覚じゃ無いよね。無論、俺もそうだけど。」

灼は少し空を見上げて、

「あのね、母方のお爺ちゃんがね、アタシが小さかったとき、よく教会に連れて行ってくれてたの。」

尋は合点がいった。そういう所ではクリスマスは正に聖なるイベント。しかし、そういうことをよくは知らない尋は、

「あの、ああいう所でのクリスマスって、どんな感じ?。」

そう尋ねると、灼は少し遠い目をして、

「何て言うのかな、シーンとしてて、歌を歌ったりプレゼントを交換したりってのはあったんだけど、アタシ、ずーっと十字架を見つめてたの。昔々に、何があったのかなって。」

確かに、幼い子供が目にするには残酷なモニュメントではある。それがトラウマにでもなっているのかと、尋は一瞬思ったが、彼女は、

「小さい頃だったからお話は覚えてないけど、眼差しが、凄く優しかったのは、よーく覚えてるの。それをずーっと見てたなあ。」

「怖いとか、そーいうのでは無く?。」

「うん。逆。凄く興味が湧いたっていうのかな。後に歴史とかで学んで、そういうことだったのかって知ったけど。どちらかというと感動・・かなあ。」

そう聞いて、尋は少し微笑んで、

「やっぱ、キミも古風やな。」

そういうと、灼は、

「だから気が合ったんじゃない?。」

そういって、笑い合った。そして暫く歩きながら街の雰囲気やカップルを観察した。大きなオブジェがどんな構造で立っているのかや、イルミネーションが幻想的に見えるのはどういう効果や理由からなのかを語りながら。そうやって楽しげに喋る観察者自身も、立派なカップルとなって街の風景に溶け込んでいた。そして、

「そろそろお腹空かない?。」

灼がいうと、

「うん、じゃあ、とっておきの所へ。」

尋はそういって、繁華街を通り抜け、少し奥まった細い路地を入って行った。そして立ち止まったところには「蕎麦」と書かれた藍染めの暖簾が懸けられてあった。灼は微笑んで、

「ナイス・チョイスね。」

そういいながら、二人は暖簾をくぐって中へ入っていった。


 カウンター席と僅かな座席だけの小さな造りの蕎麦屋は、夕飯時ということもあって割と混んでいた。二人が入るのと同時に奥の席の客が出て行ったので、そこに腰掛けた。年季の入って居るであろう店内は柱や壁が深い色合いになって重厚さがあった。お品書きも昔のままのようで、値段を書き換えた部分だけが少し新しくなって、かつての色を際立たせていた。

「どうやって知ったの?、ここ。」

灼は不思議そうにたずねた。

「何気に路地裏を探索してたら、偶然見つけたんだ。」

特にグルメという訳では無かったが、尋は自身のちょっとした趣味のものを探しにいくことがあった。そんなとき、どうしても気になる食べ物屋さんにも、つい立ち寄ったりしていた。灼は話を聞きながら店内の雰囲気を目で堪能していた。

「何頼む?。何でも美味しいよ、ここ。」

「あ、注文ね。忘れてた。」

灼はメニューを見ながら狸蕎麦を、尋は最初から決めてたようににしん蕎麦を注文した。厨房では湯気の向こうで店主が、

「あいよ。」

と小気味良くいって調理を続けた。蕎麦をパッと湯に放ち、踊る様子を見極めながらサッと箸で掬い上げた。立て続けに出汁を注ぎ、用意されてあった揚げとニシンを器に乗せ、最後に葱を添えて、

「はい、お待ち。」

と、全く無駄の無い動きで二人の前に器を置いた。

「わあ!。」

灼は思わず感嘆の声を漏らした。何気ない蕎麦のようで、麺の折り返し具合や具材の盛り具合が完璧なのに驚いた。伯母さんのところで調理を手伝っている彼女には、食材の取り扱いや給仕に至るまでの様子がプロの仕事であるという風に見えたのだろう。関西風の薄い色合いだが出汁の香りが立つ蕎麦が二人の食欲をかき立てた。

「さ、食べよ。」

二人は手を合わせて頂きますのポーズをし、一心不乱に食べ出した。そして、

「うわっ、この出汁とお揚げさん。凄っ!。」

灼は感動しきりだった。尋は、

「な?。美味しいだろ。」

といって、再び二人は蕎麦に夢中になった。ニシンの味深さを確かめながら尋は最後の出汁の一滴まで飲み干した。灼は最後の方に出汁を少しだけ器に残して、じっと見つめた。

「何見てるの?。」

尋がたずねると、

「澄み具合。」

と、真剣な顔で答えた。普通、出汁の中で麺や食材が動くと濁りが出るのが、個々の蕎麦はいつまでもスッキリと黄金色の透明感を保っていた。そして、最後の出汁を飲み干して、

「うん。完璧。」

灼は大満足の笑みを浮かべた。尋はついたずねたくなって、

「どんな風に完璧?。」

と聞くと、灼は、

「出汁の取り方。関東風とは違って、色は薄いけど味わいは塩分が濃くなくって、少し甘くてまろやかなの。そこに旨味だけを引き出すのがなかなかね。でも、それが絶妙なの。これ。」

何ともプロフェッショナルな回答に、尋は聴き入った。彼女はレポートといい、食べ物に対する姿勢といい、探究心の塊なんだなと。それにしても、これほどクリスマスの喧噪とは無縁なカップルがあるだろうか。そんな雰囲気を二人は敢えて楽しんだ。

 店を出ると今度は繁華街とは逆の方向に歩いていった。人気は次第に少なくなり、辺りは暗い感じになっていった。それとなく・・な雰囲気であったが、突然、目の前に白い荘厳な建物が現れた。尖った屋根には十字架が据えられていた。

「こんな所に教会があったんだ。」

尋はドアの前に立ち、静かに上を見上げた。すると灼が、

「いこっ。」

といって、尋の手を引いてドアを開けて中に入っていった。尋は驚いて少し躊躇ったが、灼に導かれながら向こうに広がる中央の通路に吸い込まれるように歩んで行った。臙脂の敷物が優しく足音を消してくれた。街中のムードとは真逆に、キャンドルの仄明かりが周囲をそっと照らしていた。そして祭壇にはこちらを優しく見据える眼差しが十字架から降りてきた。灼は片膝を折り、両腕を組んで一礼した。勝手の分からなかった尋は彼女をまねて同じポーズをした。そして、暫くすると起ち上がって、

「どお?。」

灼がたずねた。

「うん、透き通る感じ。」

尋は思うままに答えた。今、この空間が何処で、そして何をしているのか。そういうことを超えた何か。それが存在というものなのかも知れない。ただそこにいる。尋はそう感じた。

「でしょ?。アタシも同じ。昔も今もそう。ここに来るといつもそんな感じ。」

灼がそういうと、二人は十字架を見つめた。暫く無言のままだった。幾千年、いや、それよりずっと以前から人は何かを崇めるべく、こうやって祈りを捧げてきたのだろう。古生物に比べれば僅かな期間かも知れないが、それでも確かに化石が大地に残るように、祈りもまた受け継がれてきたのだろ。

「いこっか。」

尋は再び灼に誘われながら教会の外へ出た。そして、

「この後、予定ある?。」

「ううん。別に。」

灼の言葉に尋がそう答えると、

「じゃあ、ウチ、来る?。」

誘われるがままに、尋は灼の家へ向かった。


 二人は南へ向かう電車に乗りながら車窓を眺めた。時折会話を交わしながら。やがて景色は都会から離れて小一時間もすると自然の残る合間にベッドタウンが広がっていた。

「こーいう町に住んでるのか・・。」

尋が呟くと、

「小さい頃に越してきたんだけどね。以来、ずーっとここ。」

灼は少し微笑んで答えた。駅に着いて改札をくぐると小さなロータリーになっていた。その周辺にはスーパーやコンビニが僅かに並んでいたが、その先は閑静な住宅街であった。二人がメインストリートを10分ほど歩いたとき、

「そこを左に曲がったところがウチよ。」

この辺りの家は軒並み大きな作りだったが、角を曲がった途端、

「うわっ。」

そこには一際大きなレンガ造りのマンションが建っていた。周囲を木々が囲い、その隙間からライトアップされた重厚な佇まい。如何にも高級感の漂うそこは、恐らくハイソな層が暮らしているのだろう。ガレージには尋でも知っているエンブレムの車が何台も止まっていた。灼は玄関付近のオートロックキーの解除番号を押し、

「さ、来て。」

といって尋をエレベーターに誘った。シックな造りのドアが開くと、臙脂のカーペットが敷かれてある。そんなエレベーターは大きなホテルでしか見たことがなかった。何階のボタンを押すのかと尋は後ろから眺めていたが、灼は躊躇わず最上階を押した。そしてドアが開くと、

「あれ?。」

尋は思わず声を上げた。下から見た外観では各階には幾部屋もあったのが、この階には小さなホールとドアが一つしか無かった。灼は鞄から鍵を取り出し、そのドアを開けて明かりをつけた。

「さ、どーぞ。」

尋は今ひとつ状況が掴めていなかった。そして、

「あの、何?、ここ。」

とたずねると、

「え?。何って、ウチよ。」

「このフロアー全部が?。」

矢継ぎ早に質問する尋に、灼は少し俯きながら答えた。

「このマンションが・・。」

尋は思わず口をあんぐりと開いた。そして、少しずつ合点がいった。つまりは、そういうことかと。すると灼は、奥の方へ尋を誘った。アイボリーの廊下には幾つか部屋のドアがあり、その突き当たりにステンドグラスを模したドアがあった。灼はそこ開けて明かりをつけた。

「うわーっ。」

尋の驚き方にも少しずつ慣れが見られた。何もかも驚きの連続で、声にするペースがゆっくりになっていた。そこは何十畳あるか解らないほどのリビングだった。巨大な窓には淡いグリーンのカーテンが、そして所々に巨大な調度品と南国を思わせる観葉植物が配置されていた。中央には何人座れるか解らないほどのソファーのセットがあり、巨大なスクリーンで何でも鑑賞出来るようになっていた。

「そこに座ってて。」

といって、灼は尋を部屋の右にあるカウンターに座らせた。そして反対側で灼が飲み物の用意をしていた。そして、

「はい、お待ちどー。」

といって、ミルクティーを差し出した。

「サンキュー。」

尋は暖かいミルクティーを飲みながら、気づかれないように自身を落ち着けようとしていた。そして、

「部屋にカウンターかあ・・。映画とかでしか見た事なかったよ。」

と、結局は目の前の桁外れな状況に驚きを隠せない言葉が口をついた。すると灼が、

「ゴメンね。でも、みんなに同じこといわれるの。」

尋の隣に座りながら、彼女もミルクティーを飲み出した。そのとき尋が、

「あの窓の方角って、南だよね?。」

とたずねると、灼が頷いた。すると、

「開けれる?。」

とのリクエストに、灼はカウンターの上に置いてあったリモコンのスイッチを押した。すると、静かにカーテンが両側に分かれていき、眼前には満天の星空が広がっていた。

「うん。やっぱりかあ。」

尋はカップを置き、窓の方に近づいていった。少し不思議そうな顔をしながら、灼も彼の横にリモコンを持って立った。

「照明、少し落とせる?。」

と尋が促すと、灼はスイッチのレバーを下げた。地平線には山々と何らかの鉄塔の先端が紅く光る照明が、そのすぐ上には幾つもの星が山頂すれすれに瞬いていた。二人は暫くその光景を眺めていたが、突然、尋が切り出した。

「何となくだけど、解ったような気がする。」

「え?、何が?。」

「キミの心遣いが、どーやって育まれたのかが。」

灼は不思議そうに彼を見つめた。出会ってから今まで、お互いについての話はしてきたが、それ以上のことは特に話してはいなかった。しかし、

「冬のダイヤモンドが一望出来るようなバルコニーなんて、余程じゃ無いとなあ。」

そういいながら、尋は眼前に広がる星空に六つの星座があることを語って聞かせた。星の見える角度が考え尽くされているマンション。そして振る舞ってくれる食材一つ一つへの思い。丁寧なレポートへの取り組み。彼女に備わっていたのは、古風などというのでは無く、時間に囚われない悠久なる環境によってもたらされたのだと。すると灼が、

「アナタも、やっぱり不思議ね。みんなは調度品やビジョンとか、そういうのばかりに目がいくんだけど。」

少し寂しげにいった。すると尋は、

「うーん、何から何までゴージャス過ぎるけど、ボクには物の値打ちは解らないな。ボクはボクにとって魅力のあるものにしか興味ないから。」

そういって、彼女をそっと抱き寄せ、口付けをした。


 と、突然、

「来て。」

といって、灼は尋の手を引いてカウンターの反対側にある通路に彼を誘った。その先にも幾つかの部屋があり、少し開いている一つ目の部屋では無く、二つ目の部屋に彼を連れ立った。彼女は紅いジャケットを脱ぎ、尋も上着を脱いだ。そのまま二人は白く大きなベッドに倒れ込み、激しく愛し合った。重なり合う二人の時は幾度となく続いた。彼女がイニシアチブを、そして今度は尋がリードを。そうやって互いの本能は、いつしか自然なる野生の営みへとなっていった。激しく、そして優しく。また激しく。どれくらいのときが過ぎたであろうか。いつしか二人に静寂のときが訪れた。そして、仰向けになりながら尋が、

「何だろう。まるで現実じゃ無いみたいだな。」

そう呟いた。

「どうして?。」

少し不思議そうに灼がたずねた。

「やっぱ、こういうスケールというか、世界観が実際にあるんだなって。まだ実感が湧かなくてね。」

尋がそう答えると、

「じゃあ、今日のことは?。」

灼は少し意地悪っぽくたずねた。すると尋は彼女の頬に近づいて肌の温もりを確かめた。そして、

「我々は生物。求めるときは求める。愛するときは愛し合う。」

そういって彼女の首筋にキスをした。灼も尋の額にキスをした。そして再び二人は抱擁した。と、その時、

「ん?。黄色?。」

尋は彼女の部屋に入る前に通った、手前の部屋の光景をふと思い出した。少し開かれたドアから見えた左側の壁に、鮮やかな黄色い服が掛けてあった。そして次の瞬間、

「まさか・・なあ。」

と、一瞬過った予感を頭の中で打ち消した。そして、

「のどが渇いたなあ。」

尋がそういうと、灼は起き上がって、

「じゃあ、さっきのカウンターへどうぞ~。」

そういって、二人はシャツを羽織ってカウンターの所に戻った。そして灼が冷蔵庫からグレープフルーツのジュースを取り出し、二つのグラスに注いだ。

「激しい運動の後は、これが一番。」

そういって、彼女はにこやかな顔でジュースを飲んだ。尋も喉を潤して一息ついた。すると、

「ねえ、聞いていい?。」

灼がたずねた。尋は首を傾げた。

「尋さんって、何にも聞かないのね。大抵の人は、どうしてこんな部屋がとか、お家のご職業はって。」

彼女がそういうと、

「うん。さっきもいったけど、不思議すぎてね。こういうことがあるんだって。だから何だか楽しくってね。お伽噺を何でとか、いちいち根掘り葉掘りは聞かないのと同じかな。」

尋はサラッと答えた。

「お伽噺・・かあ。アタシにはこれが日常なんだけどなあ。」

そういう灼に、尋は、

「はは。だからさ。みんなんもそれそれに日常を過ごしてるんだけど、日常って思ったより制約があるのかな。時間をタイトに感じたり、何かに囚われたり。でも、キミの日常は、大らかに育まれたんじゃないかな。そういうのを現実離れとか、お伽噺って。」

そういうと、灼が、

「じゃあ、アナタの日常も制約があるの?。そんな風に見えないけど。」

そう不思議そうにたずねると尋は答えた。

「ボクも例外じゃ無いさ。みんなと同じように、囚われてる感覚はあるさ。今まではね。」

「今まで?。」

尋の言葉尻に、灼が不思議に思ってたずねた。

「うん。ボクもみんなと何ら変わらずに時間に追われながら生きてたかな。でも、そういうのから外れてみたら、景色が違って見えたんだ。」

「それって、もしかして生ける化石みたいにってこと?。」

「ご名答!。」

そういって、二人はほほ笑み合った。決して豊かでは無い、寧ろ過酷な環境。しかし、そういうニッチがしっくり来る者にとっては、そこは正に時を忘れた新天地であった。そんな二人の妙な時間感覚がシンクロしたのだろう。

「化石になった生物たちも、当時は愛を謳歌してたんだろうなあ。」

「でも、やがては化石になる。」

「うん。だから、今を。本能の赴くままに。かな。」

二人は口付けをした。そして、

「さて、ぼちぼちいくかな。」

尋はグラスを置き、灼にシャワールームを借りた。総大理石の広々としたその場所は、宮殿の一部を模したとしか思えない作りだった。しかし尋は、

「これもお伽噺・・かな。はは。」

と笑いながらシャワーを浴びた。あまりに広いその場所は生活感がほとんど漂っていなかったが、洗面台を横切った際に、

「赤と黄色の歯ブラシ・・。」

その光景が目に止まった。そして、

「ま、それもお伽噺の一部かな。」

と、敢えて受け流した。そして服を着て、尋は灼とキスをして彼女のマンションを後にした。


 師走の喧噪とは、同時に受験シーズンの追い込みの時期も意味していた。尋は連日予備校で冬の講習を行っていた。街中の華やいだ様子とは逆に、どことなく重い真剣な空気で教室内が張り詰めていた。制服組や冬服に身を包んだ生徒達は概ねダークカラーな出で立ちだったが、その中に紅一点ならぬ、黄一点な姿が前列にあった。黄色いおかっぱの少女。以前ならばノートの端にイラストを描きながら、それでいて講義の要点はちゃんと箇条書きにしていたが、今は何か雰囲気が違う。

「えー、呼吸の経路についてですが・・、」

落ち着いた自然な様子を演出しながら尋は講義を進めていたが、やはり黄色い少女がこちらを凝視していた。普通、生徒はボードに書かれた板書を写すか、講師の方を何気に見る程度だが、彼女は尋を直視していた。少し前からそうであったことは気づいていたが、今はまた一段と見つめるようになっていた。そして時折、優しく笑顔を見せながら首を傾ける仕草も。教室の床と彼女の前髪が若干の鋭角を作った。

「えっと、それで・・。」

いつもは流暢な尋の語りが、時折途切れた。それとほぼ同じくして例の鋭角が形成され、その傾斜に尋は心が吸い寄せせられているような錯覚に陥った。それにつれて、彼の呼吸系の回路は高回転になっていった。

「この回路によってエネルギーであるATPは大量に産生されて・・。」

尋は自身の額が汗ばんでいるのを覚えた。この時期特有の空調と教室の密度のせいだともいえるが、彼はそんな状況に備えて暑くならないように、教室には薄着で臨んでいた。それでも、額の汗は嘘をつかなかった。

 何とか講義を終えて、尋は廊下に解放された。控え室に戻るや否や、

「あら、何かお疲れのご様子ね?。」

と、古典の講師先生が聞くとは無いし喋った。

「いえ、別に・・。」

尋は何故か解らなかったが取り繕わなければと思った。女性講師は笑みを浮かべて、

「何が随分と益荒男になられたような。」

と、古風で意味深な表現を静かに尋に浴びせた。彼は自身が弄られていることにもはや慣れていた。ただ、今回のことは自身でも全く整理の着いていないこと。周囲に、特に此処の同僚達には悟られてはいけない背徳感のようなものを感じた。

「・・・背徳感?。」

その言葉が浮かぶということは、自身の心に何が起きているのかを理解せずとも認めているようなものだった。それでも、他の教室での講習にも追われ、あまり囚われている場合じゃ無い。尋は何かを振り払うように次の教室に向かった。そうやって、朝からいくつもの講義を終え、くたくたになりながら控え室に戻ったとき、

「せ・ん・せ・い。」

と、ドアの辺りから控え室を覗き込む生徒がいた。黄色い少女だった。尋は何故か同様したが、それを悟られまいと、

「ん?。どうした?。」

と、いつものトーンで返事をした。

「質問があるんだけど、いい?。」

彼女がそういうと、尋は控え室に招き入れた。そして尋の向かいに座るとノートを開いた。相変わらず要点だけをちゃんと箇条書きにしてあった。多少の自前イラスト付きで。

「この呼吸の代謝経路がイマイチ解らなくて・・。」

質問の内容は至って普通だった。誰もが引っかかるクエン酸回路の計算問題だった。ただ、ふと尋は思った。

「この子のレベルなら、自力で出来るはずなんだが・・。」

しかし、再度丁寧に説明をし、計算式の立て方を見せた。他の講師達が帰っていく中、古典の講師先生は、

「では、御免遊ばせぇ。」

と、気を利かせた風に退出していった。控え室には尋と彼女の二人だけになった。すると、

「先生、この後、ゲーセンいく?。ここ、もう閉まっちゃうでしょ。」

と、彼女がたずねてきた。普通ならもう少し静かな所で説明をするのだが、彼女はあそこの方が集中出来ることを尋は知っていたので、

「うーん、仕方ないな。じゃあ、続きはあっちで。」

といって、二人は予備校を後にした。その道すがら、

「先生は、どうして先生やってるの?。」

「ま、成り行きかな。」

「生物の講師になりたかった訳じゃ無く?。」

「なりたくて、なる人、いるのかなあ。」

「でも、先生の講義、メッチャ臨場感あるよ。」

「そうかあ?。」

「うん。」

などと話していると、件のゲーセンに着いた。平日の夕方なので、テーブルゲームは空いていた。この前と同じ席に二人は陣取り、彼女は冬の講習で疑問に思っていた部分を次々と尋にたずねた。尋は一つ一つを端的に答え、それをスポンジの如く彼女は吸収していった。その優秀さを尋は解っていたが、それとは別に、

「何故彼女に・・。」

と、自身の心が何となくザワつく理由を、それとなく考えてみた。目の前で尋の回答を書き取る彼女は鮮やかすぎる黄色と髪型がエキセントリックな雰囲気を醸し出していたが、それとは違う何か懐かしいたおやかな感じが漂っていた。と、そのとき、

「ねえ、先生。」

彼女が尋を見上げた。そして、

「アタシ、こーいうの、下手なんだけどさ・・。」

といって、いきなり尋に顔を寄せた。そして、

「有り難う。」

といって、尋の頬にキスをした。尋は途轍もなく驚いた・・はずだった。だが、逆に何かから解き放たれたような感覚が走った。そして、

「大胆だなあ。キミは。」

といって、彼女を諫めるとも諭すとも無く、微笑んで見つめた。


 その後も授業に関する質問に答えつつ、二人は和やかに過ごした。見た目は。彼女は今までよりは距離を詰めた感じで体を乗り出して、尋の話に聞き入った。尋は淡々と答えてはいたが、

「やっぱ、コレ、アプローチ・・だよなあ。」

と、内心は穏やかでは無かった。元より、彼女は美形ではあったが、それとはまた違う雰囲気が尋の何かを擽った。そんなとき、女性に慣れていない自身のことを思い返し、

「オーバーラップは、やっぱマズいよな。」

と、自制心のようなものを無意識に働かせていた。我慢というよりは自信の無さと、何より、その後の展開を少し想像してのことだった。すると、

「ね、先生のこと、好きになってもいい?。」

と、いよいよ大胆に彼女が切り出した。流石にその手のことには縁が無く無頓着だった尋にも、ことの成り行きは理解出来た。というより、状況が理解より先に生じていた。尋は当然、驚いた。だが、

「うーん、それは正直、滅茶苦茶嬉しいな。ホントなら。」

と、当たり障りの無い言葉では無く、本心を伝えた。

「かなりホントだよ。」

と、彼女は微笑んで尋を見つめた。すると、

「でもね。俺、もの凄い下手くそなんだ。恋愛が。」

尋がさらに続けようとすると、

「好きな人、いるんでしょ。」

と、アッサリと見抜かれた返事が来た。

「え?。何で解るの?。」

「そりゃー解るよ。バレバレじゃん。」

やはりそうだったのかと、尋は自身の無防備さに少し恥ずかしくなった。そして、

「うん、一度に複数人と上手く付き合える人はいるんだろうけど、それがみんなにとって幸せに繋がるとは、何か思えなくてねえ・・。」

と、自身の思い描くモラルとは異なる、もっと先にあるようなことを見据えて、尋はありのままを伝えた。これで彼女をがっかりさせてしまうのは申し訳ないなと思いつつ、でも、お茶を濁さず、対峙する生き物同士の真の言葉が、この場合最も適切であろうと考えてのことだった。ところが、

「先生って、ホントの意味で謙虚で粗野だよね。アタシ、ますます好きになったよ!。」

「へ?。いや、だって・・。」

尋の返答は、どうやら逆効果どころか、炎に薪をくべるが如くだった。そのことに彼は驚嘆と動揺を隠せなかった。

「いいの。先生は先生のままでいて。アタシが頑張るから!。」

と、彼女は闘志を漲らせた。おかっぱの毛先が若干逆立って、オーラのようにさえ見えた。そして、彼女は尋の頬にそっと両手を添えて、

「今日は有り難う。」

といって、口付けをしてサッと席を立って、

「アディオース!。」

といって軽く右手を挙げて立ち去った。尋は数秒間呆然として、そして、

「いやいやいやいや、そーじゃ無くって・・。」

といってみたところで、ゲーセンのビープ音が鳴り響く中に、一人戸惑う男がポツンと座っているだけだった。試しに尋は、座っているゲーム機に100円玉を入れかけて、そして止めた。

「どーせ、今日も惨敗だろーな。ハハ。」

と、力なく自身を嘲笑しながらゲーセンを後にした。帰りの道すがら、やっぱ、自分の身に起きていることが納得出来ず、急に立ち止まって腕組みをしながら、

「どーなってんだ?、コレ。」

と、思わず叫んだ。周囲にいた人達も何事かと思い、一斉に尋の方を見た。ハッと我に返った尋は、視線の真ん中に自分がいることに気づき、慌てて早足でその場を立ち去った。そして、家に着くなり、冷蔵庫から冷たいジュースを取り出してコップに注いで一気に飲んだ。一種の鎮火だった。そして、着替えもそこそこにソファーに横になりながら、

「確かに魅力的だよなー、彼女。しかも、OKサインまで。なのに俺は、安っぽいモラルに囚われてるだけなのかなあ。世の男性と同様に、よくある出来事として・・。」

と考えてはみたものの、やはり自身の才覚の程を冷静すぎるぐらい見る癖は、殊の外、彼をニュートラルな状態にさせた。

「これまでは情事を拒む自分が。そして、そこから抜け出す自分。その先に、さらに飛躍する自分が、果たして居るんだろーか・・。」

と、拒絶でも無く、忘却でも無い、流れに身を委ねる、そういう自分に賭けてみようと、尋はふと思った。太古の生物が生を謳歌したのに、今の自分がそうしないのも、何か生物としては、どーなのかな・・と。妙な理屈ではあったが、尋なりの自然体な姿であった。ぎこち無さ満載の。ただ、何か一つ気にかかるというか、思い出せそうで思い出せないことがあった。そして、

「あっ!。」

尋はそのことを確かめておく必要があると思い、灼に次に会う約束の連絡をした。


 数日後、尋は仕事帰りに灼と待ち合わせをした。確かめたいことを聞くだけならケータイでも済むことだったが、そうはしなかった。いつもの駅の外にある植え込みの所で待っていると、

「お待たせえ。」

と、元気よく歓談を降りて来て灼が右手を挙げた。彼女も学校帰りだった。そのまま二人は楽しげに話しながら、近くの土壁に囲まれたレストランで食事をすることにした。オリーブの木が植えられていたそこは、外観こそ何屋さんかは解らなかったが、入ると途端に何かの生地が焼ける香ばしい香りがした。

「へー、ここ、何屋さん?。」

「ピザ屋さん。」

尋は以前ここを通りかかった際に、オリーブが気になって、何気に覗いたことがあった。そのときに知ったのがこの店であった。店内は地中海のざっかけない飯屋といった感じだろうか。イタリアンレストランと呼ぶにはほど遠かった。店内の中央には妙に邪魔な焼き釜が配されていた。メニューもシンプルなピザが二、三種類ほどで、後はその日に入った肉料理と飲み物が少々置いてあるだけだった。

「相変わらず、嗅覚効くね。」

と、灼は尋を見つめてつくづく感心した。二人は窓際の席に座ると、マリゲリータとオレンジジュースを頼んだ。無愛想な店主が手際良く釜に木べらでパイ生地を出し入れして、焼き加減を調節していた。二人はしばし黙って、彼の手さばきに見とれていた。程なくして、二人のピザが焼き上がったようで、縁の焦げて、チーズがブツブツと音を立てながら皿に乗ってやってきた。オレンジジュースと共に。

「うわーっ、凄い!。」

いびつだろ。」

そういいながら、二人は早速手で千切りながらピザを頬張ろうとした。

「熱っ!。」

液状化したチーズは、まるで溶岩のように二人の口の中に攻め込んだ。そして、何とかモグモグと頬張りながら、

「旨っ!。」

と、どちらとも無く声を上げた。そして、熱さで火傷しそうな口を労るべく、オレンジジュースを飲んだ。

「うわーっ、染みるぅー。」

少し苦み走った柑橘類の酸は容赦なかった。しかし、そんな刺激の繰り返しを二人は夢中で続けた。そして、

「いったことは無いけど、あっちでは多分、こうなのかもなあ。」

と尋がいうと、

「こっちの方が、ずっと美味しい。オレンジは現地そのもの。」

と、灼が即答した。

「どう美味しい?。こっち。」

「うーん、生地の粉選びや捏ね方もだけど、それとこの焼き方のマッチングがベストなの。あと、オリーブオイルかな。いいの使ってる。」

尋は彼女の海外経験より、食への感覚に俄然、興味を持っていた。そして、一頻り食べた後、

「やっぱりね。」

「何が?。」

「アナタ、イタリアのこと、全然聞かないのね。」

灼はまるで面白がっているかのように、彼にいった。すると、

「ハハ。確かに。キミとピザに夢中だったよ。」

尋はあっけらかんと答えた。灼はそんな彼の様子に少し照れながら、でも安心したような顔をして、

「ここの料理、一期一会ね。だから、焼きたてのまさにこの瞬間のみが美味しいの。」

と、今目の前にある食事と、それにむさぼりつく自身たちのその瞬間を互いが心底楽しんでいることにこの上なく満足した。釜の熱気が店内の温度をさらに高めた。残りのオレンジジュースを一気に飲み干し、二人は店を後にした。

そして、二人は年の瀬でライトアップされた街路樹の下を歩いた。そして尋が、

「一つ聞いていい?。」

「ん?、何?。」

「この前、妹さんがいるって話してたと思うんだけど、ひょっとして、黄色い服とか、よく着てる?。」

そうといかけると、彼女は少し驚いたように、

「え?。何で知ってるの?。いつも黄色。」

彼女が答えた。そして、

「もしかして、おかっぱの?。」

と尋がいうと、彼女は、

「うん、そう。あれ?、ひょっとして・・。」

二人の推測ゲームが大詰めに近づいた。そして、

「下の名前、何ていうの?。」

と尋がたずねた。

てん。きいろに、うらなうって字。」

尋はイルミネーションの街路樹の、その枝先よりさらにずーっと上の天を仰いだ。

「うわーっ、マジかあーっ。」

尋の予備校では授業が始まる際、着席の位置で名簿の出席を確認する。そして、そこには難読な名前の女生徒が一人いた。黄に占う。すると灼は、

「アナタが教えてたのかあ。姉妹共々、お世話になってまーす。」

といって、改まってお辞儀をした。

「いーえ、こちらこそ。」

と、尋も畏まってお辞儀をした。そして二人は顔を上げて、しばし笑い合った。

「ハハハハ。」

そして、

「でも、何でアタシの妹って解ったの?。」

と彼女はたずねた。もっともである。尋は一瞬、

「うっ。」

と、心の中で声を詰まらせたが、

「前にもボクの職場近くの学校に通ってるっていってたし、あと、申し訳なかったけど、キミの家にいったとき、ドアの開いてる部屋があって、見覚えのある黄色い服が掛かってたのが見えてね。」

それを聞いて、彼女は、

「ま、確かにアタシ達、原色好きだから・・ねえ。」

と、色は違えど映える色の嗜好性が遺伝的なものであることを認めた。そして尋は、現時点までに起きたことに対する若干の後ろめたさと、それより先には踏み出していないことへの安堵の狭間に自身が立たされていることを再確認した。


 黄色い少女が灼の妹であることが解り、尋には二つの感慨が湧いた。一つは彼女が奇抜な出で立ちをしていた割に、どことなく親近感を覚えたこと。恐らくは、彼女の中に姉の雰囲気を無意識に見出していたのだろうと尋は思った。そしてもう一つは、やはり似ても似つかない異質な様相であった。どこにいても、

われがタンポポ、我がヒマワリ。」

といわんばかりの神々しい黄色を放って屹立する姿勢。すると灼が、

「あの子には何をやっても敵わなくてねえ・・。」

と、妹のことを語り始めた。

「二つ下なんだけど、背はあっちの方が高いし、頭も抜群にいいし。それに・・、」

「それに、何?。」

尋は興味津々なのを隠しながら、何気に聞いた。

「もの凄い変わり者。解るでしょ?。」

確かに尋の第一印象でも、彼女の出で立ちは突拍子も無いという記憶だった。しかし、何度か話を交わすにつれ、

「でも、生物に関する興味というか熱心さは、そっくりのように思うなあ。」

と、尋の思うところを率直に述べた。だが、

「ええ?、アタシが?。あの子はともかく、アタシはそこまでは・・。」

と、灼は妹と同じように見られることへの抵抗感を示した。同族嫌悪というやつかも知れない。しかし尋は、

「気を悪くしたらゴメン。でも、キミが課題に打ち込む姿勢とか、出来上がった内容を見ても、やっぱ無意識のうちに洞察が働いてると思うな。そうで無きゃ、あんなにストイックには出来ないと思うよ。それに料理だって・・。」

そんな風に評すると、灼も次第に神妙な面持ちになり、

「そうかあ。いわれてみれば、そうなのかも・・。」

と、食材に対する姿勢についていわれて、何となく納得がいったようだった。と、そのことに対して、尋があらためてたずねた。

「前からずーっと聞きたかったんだけど、料理というか食材に対する知識が半端無いなって。」

「うん。それはね・・、」

灼はあまり自身のことを語る方では無かったが、両親が留守勝ちなこと、その分、不自由の無いようにいつもお金は置いてくれてはいたが、慎ましやかに料理店を営む伯母の影響で、物心ついたときから出来るだけ自身で料理をするようになったこと、そして、それが色んなことへの探究心に繋がっているのかもと、訥々と語った。一方、一見、天真爛漫風に見える妹も実は寂しがり屋で、幼少の頃は姉と二人でいつも寄り添うように過ごしていて、料理も灼が作ってあげていたとのことだった。そして、何時の頃からが、それが当たり前になり、灼は時として母親役で妹の面倒を見るようになったのだった。そんな姉の庇護を受け、妹も次第に強い姿勢を示すべく、凜とするようになっていったとのことだった。

「ふーん、そういうことだったのかあ。」

尋はしみじみとした気持ちになった。彼女が、灼が何故、灼としているに至ったのか。そして、妹の黇ちゃんが、ああいう風になるに至ったのか。そうやって培われたものが、彼女たちの心の中心に根ざしていて、人を想う気持ちが育まれたのだろうと。と、そのとき、

「何から何まで正反対な感じだけど、アナタにいわれて、似てるところはあるなあって、あらためて気づかされたな。」

灼が切り出した。

「あんまりいうとアレなんだけど、他に似てるところが、もう一つあるのよねえ・・。」

少しため息混じりだった。尋はたずねた。

「何?。」

「男性のタイプ。」

灼の言葉を聞いて、尋は顔を強張らせた。しみじみしていた気持ちが一瞬で素っ飛んだ。が、灼はそれを見逃さなかった。

「アレ?。もしかして、あの子、アナタに何かした?。」

尋は、滅相も無いといった感じで、

「いや、授業で解らないところを質問に来るぐらいで・・。」

といったのを聞いて、灼は、

「質問?。あの子が?。ははーん、通りで最近、妙に楽しそうだったのよねえ・・。」

と、もの有り気ないい方をした。灼の話しでは、妹は学校で先生に質問をすることが、まず無い子だった。反面、自分が気に入った相手には、何かと理由を付けて近づいていくとの話しも。

「ま、あの子のことだから、不意にキスでもされたんじゃない?。」

と、灼は淡々とした様子でたずねた。

「え?、いや、その・・。」

どぎまぎする尋を見て、灼は、

「ま、いいや。ところで、妹はアナタとアタシのこと、知ってるのかな?。」

と、たずねてきた。尋は自身の行いがスルーされたことにも相当な驚きはあったが、次の質問の意図が分からなかった。

「いや、何もいってないよ。」

と、聞かれるがままに尋が答えると、

「じゃあさ、アタシ達のこと、妹には内緒にしててくれる?。」

「ハァ?。」

尋は全く訳が分からなかった。普通、逆じゃね?・・と。さらに意図が分からなかった。そんな中、唯一口をついて出た言葉が、

「何で?。」

だった。すると灼は、

「多分、向こうはもう気づいてるかもだけど、その方が面白いじゃん!。」

と、尋に向かってニッコリと微笑んだ。尋の背中に少なからぬ戦慄が走った。


 尋はモテる方では無い。いや、寧ろ全くだった。女性と付き合った経験も殆ど無い。だが、人並みにそういったことについてのモラルのようなものは暗に持っていた。あるいは、社会に何らかの秩序を維持させるには、西洋に端を発した宗教観が一夫一婦制を拠り所にするような思想も、解らないでは無かった。ただ、同時に、そのような制度的な縛りが、本当に生物の種としての本能と如何に一致するかに対しては、正直違和感も持っていた。だからこそ、敢えて縛りによる秩序の維持が、ひいては平和的な男女関係をもたらす秘訣なのかもとも思っていた。しかし、灼の一言は、尋の知る判断材料のどれともそぐわなかった。

「ぶっ飛んでる・・。」

そう思うしか無かった。律儀に見えて、実は自由奔放。庶民感覚とはかけ離れた生活環境が彼女をそうさせていたとしても不思議は無い。そして、そういうものが彼女の魅力にもなっているのだろう。一緒に過ごしていて心地良く、和み、そして何より愛おしい。と、彼女が、

「ねえ、アナタの部屋、いっていい?。」

といい出した。

「うん、いいけど。何も無いよ。」

尋がそういうと、彼女はニッコリした。そして、尋の右腕にしがみ付いた。その後、地下鉄に揺られながら二人はしばし語り合った。そうこうしているうちに、尋が住むアパートの最寄り駅に着いた。

「へー。ここに住んでるんだあ。」

灼は妙に感心した。尋にとっては何てことは無い、下町の住宅街で、学生用のアパートが幾つか建ち並ぶ程度の普通な街並みだった。

「ちょっと待ってて。」

と、尋が近くのコンビニに寄ろうとしたとき、

「アタシも。」

と、二人は一緒に店内に入った。尋は出来合の物やインスタントばかり買っていたが、流石にこのときは、

「彼女は、そんな物食べない・・かな。」

と思い、何気にたずねた。

「何にする?。」

「アナタがいつも食べてる物。」

そういって、灼は尋が何を棚から取るのかを、じーっと見つめた。今日は夕食を済ませてあるからと、彼はいつものチョイスで、フランスパンとバターを取った。そして、濃いグレープジュースも。それを見て、

「ふーん、そう来るか・・。」

と、彼女はどう評価したのか解らないコメントを下した。そして、レジに向かう直前、

「ちょっと待って。これもお願い。」

といって、尋の持つカゴにフライドポテトの袋を一つ入れた。それを見て、尋は彼女を見てニコッと笑った。何か不思議な安堵感があった。そして、そこから歩いて10分ほどで彼のアパートに着いた。二階に上がり、ドアの鍵を開けて、尋は灯りをつけて、

「はい、どーぞ。」

と、彼女を奥へと誘った。男の独り暮らしとはいえ、彼の部屋は本当に何も無かった。ただ、部屋の片隅にカラーボックスが二つほど置いてあり、仕事に必要な書籍類と、その手前や上には石のような物が数個置かれているだけだった。

「わー、何も無い!。」

灼はしきりに感心した。そして、棚の石を見つけて、尋にたずねた。

「これ、何?、化石?。」

「うん。」

尋は答えた。その石には小さな貝殻な幾つか封じ込められていた、そして、

「当時は生きてた生物の痕跡・・かな。河原で拾ったんだ。」

その数があまりにも少なかったので、灼は、

「別に集めるのが趣味では無くて?。」

と、咄嗟に聞いた。

「うん。大きな完全体の化石とかはカッコイイけど、高いしね。それに、何となくこいつらの息吹きみたいなのが感じられたら、それがいいのさ。」

と尋は答えた。すると、

「そっか。だからあのときも、あればっかり眺めてたのか。ほら、例の・・。」

「オウムガイ。」

彼女の推察に、尋は先回りして答えた。そして、

「でも、正確には少し違うんだ。彼らは今も息づいてる。そうならなかったのが、今キミが持ってるその石さ。どちらにしても、細々と儚い感じだけど、でも、オウムガイはそうはならなかった。」

「そして、シーラカンスも。」

灼がそういうと、尋は黙って頷いた。そして二人はソファーに座って口付けをした。

「ところでさ・・、」

と、尋はさっき思った疑問を彼女にたずねた。

「さっきボクが買い物したとき、そう来るか・・って。アレって一体・・。」

すると彼女は、

「ふふーん、あれはね、他にも色んなパンがあるのに、何でフランスパンとバターなのかなって。」

といった。尋は、

「色んなパンも美味しいけど、味が決められてるじゃん?。だから、素朴なフランスパンにバターが、かえって美味しく感じるなーって。」

と、思うところを答えた。

「流石ね。一番シンプルだけど、一番難しい。それでいて、いつまでも愛されてるパン。だから今もずーっと生き残ってる。アナタと同じ、生ける化石。」

といって、彼女は微笑んだ。そして、今度は逆に尋がたずねた。

「じゃあ、あのポテチは?。」

灼は少し参ったといった感じで答えた。

「だって、美味しいもの。自分でも何度かチャレンジしたけど、やっぱ、市販の物には勝てなくてね。メーカー様々って感じ。」

そういって、早速買って来た袋を開けて、彼女はポテチを摘まんだ。それを見て尋は台所からグラスを二つ持ってきて、グレープジュースを注いだ。

「ボクも貰おっと。」

パリパリと音を立てながら、二人は文明の恩恵にあやかった。



 和やかに時間は流れたが、尋には一つ疑問があった。いつもは人のことを詮索はしなかったが、今日はふと聞いてみた。

「前から聞こうと思ってたんだけど・・、」

「何?。」

「遅くなったりしても、大丈夫なのかなって。」

灼は少しくうを見つめて、そして語り出した。

「アタシん家って、何ていうのかな・・、凄く放任なの。この前も来てもらったとき、夜なのに誰もいなかったでしょ?。別に両親がいなかった訳じゃ無いけど、それぞれ別の部屋にいたの。あのマンションの。で、アタシと妹は同じ部屋にね。」

それを聞いて、尋は想像が追いつかなかった。あの建物の中に、家族の各人が好きに暮らしている。唖然とした。冷静を装うべく、

「そうなんだ。」

とだけいった。実際、それ以外に言葉が思いつかなかった。

「それに、お前はもう大人なんだからって。小さい時からそんな風だったから、参っちゃったわよ。逆に自制心がついちゃって、気がつけば妙に真面目にはなっちゃってたなあ。」

と、少し不満げに家のことを述べた。それを聞いて尋は、

「でも、だからこそ、自主性が育まれたんじゃないかな。周りに影響されない、自分の感覚や考え方が。」

灼は、ハッとした顔で彼を見つめた。そして、

「うん、そうだ。やっぱりそうだったんだ!。」

尋が不思議そうに彼女を見つめると、

「何でかなって、ずーっと考えてたの。例の博物館で。」

尋は聴き入った。

「何でこの人に興味が湧いたのかなって。そして、お話しして、さらに興味が湧いて。アタシが出会った、どの人とも違うなって。」

「どんな風に?。」

尋の言葉に、灼は少しニコッとしながら、

「変な人。」

と答えた。尋は少し複雑な表情をした。

「でも、その変なところが、何となく面白くって、心地良くて。周りに影響されてない、自分独自のものを持ってるな・・って。そこが何か、好き。」

そういって、灼は尋の首元に額を付けて抱きついた。彼も灼をそっと抱き寄せ、

「ボクは自分に興味を持たれたこと自体が、凄く不思議だったなあ。でも、あの時から・・、」

「あの時から、何?。」

と先を訪ねる彼女に、

「頭を離れなくなったんだ。キミのことが。」

そういって、尋は灼と口付けをした。そして、ソファーの上で二人の時間が一気に激しく絡み合った。そして加速し、やがて緩やかになっていった。そして、灼は尋の胸にもたれながらたずねた。

「アナタのこと、聞いていい?。」

「ん?、何?。」

「いつから生物とか古生物とか、そういうのが好きになったの?。」

尋は天井を見つめながら思い出そうとした。しかし、

「うーん、いつからだろう。気がつけば生き物とか、そういうのばっかり見てたなあ。言葉より興味が先だったなあ。で、いつしか・・、」

尋がそういうと、灼は彼を見つめて先の言葉を待った。

「自分達が現れるよりも、ずーっと以前から、彼らは存在してたんだなあって。そして、自分達がいなくなっても、その種は延々と続くんだなーって。勿論、絶滅しちゃうのもいるだろうけど、太古と変わらずに、ずーっと続くものも。そういう彼らの時間に触れるのが、心地良かったのかな・・。」

灼は尋を見つめた。

「人は、悠久なるものに心惹かれるように出来てるんじゃないのかな。理屈じゃ無くって。ボクには興味は無いけど、稀少金属や宝石に惹かれるのも、ひょっとしたら同じ心理なのかもなあ。物質じゃ無くて、その向こうにある時の流れに。」

尋がそういって灼を見つめると、彼女は目を輝かせていた。そして、

「ふーん。面白い。やっぱりアナタ、変過ぎて面白い。すっごく!。」

尋は再び複雑な表情をした。そして、灼は、

「あの子が聞いたら、きっと喜びそうだわ・・。」

と、少し俯いて含み笑いを見せた。

「あの子って?。」

「黇。アタシの妹。」

その名を聞いて、尋はまたもや戦慄が走った。しかし、灼が嫌な顔どころか、むしろ楽しそうに今の状況下でその話題を持ち出すことに、尋は何とも摩訶不思議な感覚に見舞われた。

「あの・・、」

と、尋はいい難そうに切り出した。灼は、

「何?。」

と、尋の顔を覗き込んだ。

「こういうことって、何ていうのかなあ、もっと複雑な感情とか湧いたりしないのかなって。」

尋の言葉に、灼は少し上目遣いに、

「それって、嫉妬ってこと?。うーん、ま、もしそうなれば、なくもないかな。でも・・、」

尋は是非共にといわんばかりに彼女の次の言葉を待った。

「誰かが誰かを好きになるって、止められないじゃん。別に勝ち負けじゃ無いけど、そのときに一番惹かれ合った者同士が共に過ごす。そういうもんじゃない?。」

圧倒的に大人だった。何がどうすればそんな境地に至れるのか。尋は吊り下げられて乾燥した鮭の干物のように口をあんぐりと開いていた。


 灼は両手でそっと尋の頬を持ち、その口を塞ぐように口付けをした。そして二人はいつものように互いの時を重ね合わせた。ときに熱く、ときに静かに。それは思いやりに満ちた行為だった。尋はほとんど経験の無い方だったが、それでも彼女との体の相性は凄くしっくりいっていると感じた。そして、暫くした後、二人はグレープジュースで喉の渇きを潤した。

「あの・・、」

尋が少しいい難そうにした。

「何?。」

「ボクって、下手かな?。」

灼はきょとんとした。そして、

「そういうこと、聞く?。」

「ゴメン。」

バツの悪そうな返事に、灼は微笑んで、

「凄く優しい。で、」

「で、何?。」

尋がたずねた。

「今までに感じたことの無い感覚・・かな。芯が熱くなるっていうか、うーん、とにかく気持ちいいの。」

そういって、灼は尋に抱きついた。そして、

「あんまりいうとアレなんだけど・・、」

「かまわないさ。」

少し躊躇する彼女に、尋は促した。

「やっぱり、自分本位って感じの人が多いかな。アタシもそれが普通なのかなって思ってた。男の人って。

でも、そうじゃ無い人もいるんだって。」

そういって彼女は尋を見つめてニコッとした。

「ふーん、そういうもんなのかなあ。だって、こういうのって、二人の共同作業じゃん。」

「共同作業って。」

と、灼は思わず吹き出した。

「ケーキ入刀じゃ無いんだから。でも、それがアナタなのよねー。何だか面白い。やっぱ。」

そういって灼は力強く尋を抱きしめた。尋は圧倒されながらも、彼女を抱擁した。

「でも・・、」

と、灼がいった。

「黇は、そうはいかないわよ。」

再び妹の話を始めた。こんな状況下でも話すんだと、尋は少し驚いた。そして、

「どんな風に?。」

とたずねた。

「強引。とにかく強引。それでいて、何か、ここぞというときに・・、」

「いうときに・・?。」

尋は固唾を呑んだ。

「技があるみたい。みんなそれでやられちゃうんだって。」

灼は口を尖らせた。

「技?。」

「うん。何か解らないけど、最後はいつも、あの子が勝っちゃうの。」

尋はただならぬ雰囲気を察知した。

「それって、キミの彼氏が・・ってこと?。」

「・・うん。だから、アナタは取られたく無いなーって。」

それを聞いて尋は、

「だってボクたち、こんなに・・、」

といいかけたとき、彼女は尋の唇に人差し指を軽く押しつけた。そして、

「みんな、そーいうの。最初は。でも最後には・・、」

と彼女がいいかけたとき、今度は尋が彼女の両肩を抱いて、

「ボクはそうはならない。」

と、真剣な表情で彼女を見つめた。灼は微笑んで、

「嬉しい。でも、男女の仲は何が起きるか解らないから・・。」

と、少し尋をいなした感じだった。その雰囲気に、尋は彼女がこれまでに味わってきたことが、恐らくは余程のことだったのであろうと推察した。

「あのね、正直にいうね。」

と、尋はこれまでのことを語り始めた。灼は尋の目を見つめた。

「確かに妹さん、ボクの講義を熱心に聞いたり、質問したり、そして、好意を寄せてくれているようなことはあったんだ。」

それを聞いて、灼はやっぱりといった表情をした。

「でも・・、」

「でも、何?。」

「教え子だし、受験もあるから、無下に拒むのもどうかなと思って、ちゃんと対応はしてるつもりなんだ。でも、ボクは自分でも信じられないぐらい、キミのことが好き。だから・・、」

そういいかけたとき、灼の瞳から涙が一筋零れ落ちた。そして彼女は尋に抱きついて、

「アタシも。」

と、涙混じりの熱い吐息が彼の耳元に触れた。そして二人の夜は絶えること無く続いた。いつの時代も、生物の子孫繁栄への行為は、斯くも熱いものなのだろうか。尋は何気にそんなことを考えた。その時の流れの一端を、今、自分達も担っている。そして、やがては・・なんて、考える必要は無い。今、二人が求め合う強さが熱量となって絡み合い、そして激しく重なり合い、慈しみ合えば、それでいい。それが生を全うするということなのだろう。薄明かりの中で、灼が尋の胸元に持たれて寝息を立てている。尋は彼女を起こさぬように、頬に、額に、そっと口付けをした。この愛おしい子を、瞬間を思い、尋も目頭が熱くなった。そして彼も眠りに落ちた。殺風景な部屋に、安らかな二つの寝息が響いた。かつて地上で生を謳歌していたであろう、石に封じ込められた者達が優しく二人を見守った。悠久の時。その時々に生じる熱き語らい。明けぬ夜は無いというが、この時ばかりは時間が止まりそうなぐらい、穏やかな夜であった。


 翌日、二人は気怠い朝を迎えた。尋の方が少し先に目を覚まし、

「おはよ。」

と、灼の頬にキスをした。そして、昨日買ったフランスパンをカットしてトースターで軽く焼いた。バターの香りが部屋中に広がった。遅れて灼も起き上がって、二人で燃料補給とばかりに空腹を満たした。グレープフルーツのジュースをごくごくと喉を鳴らしながら渇きを癒やした。

「ふー。蘇ったぁ〜。」

灼が漲った様子でいった。

「・・らしいな。」

と、彼女の姿を見て呟いた。

「何が?。」

「正に今、蘇ったって感じが。」

彼女の屈託の無い明るさと溌剌さに、尋はますます惹かれていった。そして、

「散歩でもしよっか。」

と、尋は灼を近所の大きな池に誘った。温かい格好をして、二人は暫く歩くと、そこには木々に囲まれた大きな池が広がっていた。

「わー。何か新鮮。」

灼が感嘆の声を上げた。渡り鳥だろうか。小さな水鳥たちが水面に羽毛を膨らませて無数に浮かんでいた。互いにコミュニケーションを取っているのだろうか、高い声や低い声でで

「ピーピー。」

「ブーブー。」

と鳴きながら少しずつ滑るように移動していた。二人は柵に寄り掛かりながら、その光景を眺めていた。

「いつもはアヒルだけなのに、冬になるとこうして沢山来るんだ。」

「何処から来るのかな?。」

「寒い所から・・かな。」

「此処も十分寒いのにね。」

灼がそういうと、

「彼らは、ボクたちも想像の付かないくらいに、冬に凍てつく所にいるんだろうなあ。そして、あんなに小さいのに、何千キロも彼方から此処にやって来て、丁度いい気温のこの辺りに来るんだろうなあ。」

と、尋は語り始めた。

「多分、こういう営みも、何万年も変わってないんだろうな。壮大な旅。我々は、そのことを殆ど知らない。新参者だから。ね。」

尋がそういうと、

「ネットや何かで調べれば、種類ごとに情報は出ては来るけど、それって文字だけってことなのかな・・。」

灼が鳥を見つめながらいった。すると、

「だから、想像を働かすんだろうなあ。我々は全部は見れない。地道に調べる研究者のお陰で、ほんの少しだけど、その一端を垣間見ることが出来る。そうやって、我々は鳥の旅の行程に想いを馳せたり、こうやって眺めているつもりが、実は鳥たちもこっちを観察してて、昨日何かいいことしたんだろうとか、仲間といいあってるんじゃね?。」

尋が少しふざけていった。

「もう。真剣に聞いてたのに。」

と、灼は少しはにかんだ。そして、尋の左腕にしがみ付いた。朝の冷たい空気と、木々の間から注ぐ木漏れ日が穏やかに眩しく輝いていた。

 昼前に尋は灼を駅まで送った後、少し足を伸ばして大きな書店のある繁華街へ出た。入試問題の傾向を調べるつもりだったが、既存の問題とは別に、最近流行りの話題が出題されることも多くなっていた。勉強ばかりでは無く、世間のニュースにも耳を傾けておくようにとの出題側の思惑かも知れないが、いずれにせよ、最もホットな生物学的な話題の書物を物色するつもりだった。

「環境問題は、定番かな。となると、やはりマイクロプラスチック辺りが怪しいな・・。」

と、ブツブツといいながら背表紙にそれらしいタイトルが書かれているものを探した。そして、

「ウミガメの誤飲に関する本かあ・・。」

と、尋がその本を取ろうとしたその瞬間、右側からも同じ本に手を伸ばす女性の姿があった。指先が触れた瞬間、

「あっ。」

と、お互いが同時に発した。そして、

「あーっ。」

と尋は彼女の黄色い上着を見て、心の中で叫んだ。彼女も、

「ああ。」

と、一瞬驚いたような表情をした後、ニコッと微笑んだ。

「先生も来てたんだ。奇遇だね!。」

尋は、ホントに奇遇なのか・・と一瞬思ったが、平静を装って、

「おう。何か生物系の本でも探してたの?。」

と、彼女にたずねた。

「うん。だって、最近の出題傾向って、さも流行りのものを盛り込もうとしてるし。ダサいとは思うけど、出る以上は、ね。」

と、彼女はシビアに的を射た見解を述べた。そして、

「プラスチックが分解され難いのは解るけど、これってホントになくせるのかな?。」

と、シンプルな疑問を尋にぶつけた。

「うーん、まあ、レジ袋とかストローとかを有料化したり代替え品にしたりって努力はしてるけど、現実問題、難しいかな。」

と、尋も率直なところを述べた。すると、

「結局は、人類が誕生して石油からプラスチックなんか作っちゃうから、こうなったんだよね。じゃあ、便利さを捨てて・・って、先生のいうように無理なんだったら、ウミガメとかを守るには、人類が居なくなった方がいいって論理になっちゃうよね?。」

彼女は極論だが、正論を述べた。

「まあ、動物保護に熱心な層には、そういう考えの人もいるかな。」

尋は彼女もそんな風に思ってるのかと、一瞬驚いたが、

「でも、人類が居なくなるって、SFじゃあるまいし、何より、一度得た快適さって、捨てないよね、普通。」

と、贅を知った人間が如何なる振る舞いをするのかを、達観しているかのように彼女はいった。

「ところで先生、」

彼女が切り出した。

「この後、時間ある?。」

尋はほんの一瞬、躊躇したが、

「いや。特には。」

「じゃあさ、ゴメンだけど、また質問してもいいかな?。生物の。」

と、彼女はいつものカバンを軽く持ち上げて、尋に見せた。


 彼女がこういう都会の喧噪の中で本当に勉強をしているのは、尋も知っている。それにしても、何故こんな騒々しい所の方が集中出来るのか。人それぞれではあろうが、尋は敢えて聞いてみた。

「あのさ、何で騒々しい方がいいの?。」

彼女の答えは的確だった。

「だって、その方が孤独になれるでしょ?。」

通常は逆だろう。だが、それを聞いて尋は唸った。

「うーん、確かにそうなんだよなあ・・。」

尋は、物心ついたときから、自分が人とはかなり異なるタイプの人間なのかも知れないという自覚のようなものがあった。クラスや友人達と楽しくワイワイしようとすればするほど、自身と人の輪との間にクレバスのようなものを感じた。そこの見えない、地下何百メートルにも及ぶであろう深い亀裂。そういう自分に気づく度に、自分はこの世の誰とも共感し合えないのではないかという孤独に苛まれた。しかし、彼女は違う。その孤独を寧ろ住処にしているようにも見える。そしてさらに、孤高に浸っていたかと思うと、瞬時に人と距離感を詰める術もある。

「ひょっとして、灼がいってたのは、このことか・・?。」

と、何気に妹を評した言葉を思い出した。しかし、今は彼女の向学心に集中しよう・・と、尋は思った。

「また、ゲーセンで?。」

尋がたずねた。

「うーん、それもいいけど、もうちょっと集中したいな。だから、」

と、彼女は尋をとある場所へ連れて行った。飲み屋街やらラウンジが建ち並ぶ通りをすり抜け、少し進むと、突然、打ちっぱなしの壁に巨大な鉄の扉が聳えていた。

「何じゃ?、ここ?。」

尋は、あまりにも無造作に屹立する建造物に唖然とした。

「さ、いこ!。」

と、彼女はカバンからカードキーを取り出して、鉄のドアの横にある小さな装置の溝にカードをスライドさせた。すると、

「ゴゴゴゴゴ。」

と、重厚なドアが唸りを上げて右へ滑っていった。そして、内部に通じる薄暗い通路の両脇にはかがり火が焚かれていた。彼女に誘われるままに、尋も静かな通路を先へ進んだ。そして、突き上がりにはまたドアがあり、そこを開けると、聞いたことの無い大音量で、80年代の洋曲がガンガンと流れ、あちらこちらに極彩色の反射光が照り返していた。

「いらっしゃいませ。」

と、フォーマルなスーツを着たスタッフらしき人物が二人を出迎えた。尋は目を丸くしながら、

「ディスコ・・?。」

と呟いたが、

「今は、そんな風にはいわないの。さ、来て。」

と、彼女は尋をテーブル席に座らせた。そして、自分も向かいに座った。スタッフがオーダーを取りにやって来ると、彼女は手慣れたように、

「ジンジャーエール二つ。ね。」

と、尋の方を見て、確認しながらオーダーした。尋は雰囲気に圧倒されながら、

「・・はい。それで。」

と、状況に実を任せた。そして、スタッフの去り際に彼女が人差し指で自分の耳と口元をなぞるような仕草をした。

「これじゃあ、教えるどころじゃ無いよ!。」

と、尋は大声で叫んだが、彼女は右手の平を尋に向けて、ちょっと待つように彼を制した。そして、

「お待ちどおさまでした。」

と、トレーにジンジャーエールとインカムを二組運んできた。彼女はインカムを二つ取ると、

「はい。」

といって、尋に一つを差し出した。そして、彼女が先に付け、尋にも同じように付けて、耳元のボタンを押すように手で合図した。

「どお?、これで聞こえるでしょ?。」

といって、ニコッと笑った。中央のステージでは、まるで憑依したかのように踊り狂う者がいたかと思えば、洞穴風の小さなボックスシートでは、愛を囁き合っているであろうカップル、カウンター席には雰囲気とドリンクを楽しむ、少し年配の人達。年齢層は様々だったが、明らかに一見さんが来るような所では無い。現に彼女も会員カードのようなものを通して、ここまでやって来た。本来ならば、尋は相当に驚いていた・・はずだった。しかし、彼には免疫のようなものが出来はじめていた。

「灼の妹だもん・・なあ。」

そう思いながら、尋は彼女に質問のある箇所についてたずねた。すると、彼女は少し不思議そうな顔をして、

「ねえ、此処のこととか、聞かないの?。」

と、逆に尋にたずねた。

「まあ、ねえ。驚きすぎて、言葉が出ないな。あと・・、」

「あと、何?。」

「あんまりいえないけど、最近、ボク、不思議すぎることが続いててね。だから、そういうのは率直に驚こうと思ってね。」

と、ちょっと慣れた感じでサラッと返した。すると、

「ふーん、いいね。それ。」

と、彼女は益々上気した。そして、

「じゃあ、早速・・、」

と、カバンからテキストを取り出して、生物に関する細々としたことを尋に質問した。相変わらず、ユニークな発想から来る疑問に、尋も面白がりながら、でも、丁寧に想像も交えて解説した。時折、ジンジャーエールで渇きを潤しながら、気がつけば2時間近く、マンツーマンのレクチャーを行っていた。


 これまでの壮大な生態系に関する所とは異なり、彼女は細胞の構造と機能に関する質問を重点的に尋にたずねた。

「このゴルジ体ってのは、一体、何?。」

かつては特に働きも解らなかったいち小器官だったが、

「昔は物質の分泌・貯蔵をする器官とだけいわれてたけど、最近の研究では、より複雑な働きをしてるってのが解った所かな。確か、ノーベル賞も貰ってたよーな・・。」

と尋がいうと、すかさず彼女が、

「じゃあ、出題される可能性は大ってことだよね。」

と、近年ホットな話題ほど、その年の出題傾向にあることにも敏感な様子を露わにした。確かに科学は進歩するし、それに応じて教科書の内容も少しずつ改訂される。内容の普遍なる部分と新たに書き加わる部分、そして、入試の場では、後者の方が用いられやすいことを、尋は仕事柄知っていた。しかし、彼女は受験の直中にありながら、その両方を見ている。将来のステータスのためにでは無く、学問の本質に興味を抱いている部分が窺えた。後々に研究の道を志しながら、そうなっていく子もいるが、彼女は違った。出来るのなら一足飛びにでもフィールド調査でもしたそうな雰囲気であった。そんなことを何気に思いながら、尋は彼女の質問に細々と解説をしていたが、その際、

「どうも。」

「あ、こんちわ。」

「Yo!。」

と、時折、彼らのテーブルを通り過ぎる際に、彼女に声をかける人達がいた。店の雰囲気に圧倒されながらも、解説に集中していた尋ではあったが、流石に少し気になりだした。説明が一段落したとき、

「ところで、」

と、尋は彼女に切り出した。彼女はノートから顔を見上げて、

「ん?。」

と、おかっぱ頭を揺らして上げた。

「さっきから何人かがキミに挨拶してたけど、知り合い?。」

「うん、まあね。」

と、特に聞くほどのことでも無いといったように、再びノートに集中した。尋も、やはり余計なことは聞かぬが華かなと、何事も無かったかのように解説を続けた。そんな風に不思議な空間での真剣な講義が終わり、

「先生、助かったー!。有り難う。」

といって、テーブルにきちんと置かれた尋の両手の甲を鷲掴みにした。熱く上気した彼女の温もりが伝わってきた。そして、

「じゃ、出よ。」

と、彼女は尋を外へ連れ出そうとした。そのとき、

「あれ?。会計の紙は・・、」

と、尋はテーブルを見回したが、スタッフはコースターとグラス以外には何も置いていかなかった。

「いいから。いこ。」

と、彼女は尋と腕組みをしながら出口の所までいき、スタッフに入出の際に使ったカードと借りたインカムを渡した。そして、彼がそのカードを持って奥に入ると、明らかにスタッフでは無いであろう年配の人物を連れ立って現れた。そして、

「どうも。お気を付けて。」

と、深々と彼女にお辞儀をした。それにつられて、尋も深々と頭を下げた。やがて、もと来た通路を通りかかったとき、

「生物のダイナミズムって、大きくても小さくても、何か凄いね!。」

と、今日の尋の講義を噛みしめるように、彼女は興奮気味に答えた。

「うん。我々が知っているのは、たかだか数百年から千年ぐらいの成果しか無いからね。解像度の悪かった顕微鏡を駆使して、何とか先人達が見つけたものを元に、さらなる研究が続いている。そして、これからも・・。」

尋の言葉に、彼女も目を輝かせて頷いた。しかし、一瞬、ふと我に返ったような感じで、

「さっきのこと、聞きたい?。」

と、彼女は尋がさっきたずねた件について、自ら蒸し返した。

「いや、キミが喋りたくなかったら、別にいいさ。」

尋はスルーしようとした。すると、彼女は少しいい難そうに、

「ここ、父のなの。で、さっきの人達、父の知り合い。」

と、さっきとは明らかに異なる小声で彼女は答えた。

「うーん、そうかあ。現実離れしたというか、タイムワープしたというか、凄いコンセプトの所だね。もしボクたちが微細な物質なら、細胞内部って、さしずめこんな感じなのかもなあ・・。」

と、尋はあらためて内装の重厚さと不思議さを見渡しながら感嘆の声を上げた。すると、

「先生って、ホント、不思議で面白いよねえ!。」

と、再び、さっきの元気を取り戻し、尋の腕にギュッと抱きついた。そして、

「こんなにアタシのこと聞いてこない人、初めて。」

と、少し嬉しそうな顔をして尋を見上げた。

「ハハ。ボクはただただ、この雰囲気に圧倒されてるだけさ。それ以外は、生物のことを少し知ってるだけの普通の人間かな。前にも似たようなこといわれたことあったけど、ボクにはスケール感が掴めないや。」

と尋がいった途端、彼女は抱きついていた尋の腕から離れ、

「それ、姉貴でしょ?。」

と、突き放すようにいい放った。尋は酒が入っていた訳でも無いのに、急に酔いが覚めたようになった。そして、少し戸惑いながらも、この子にはちゃんと話をしておこうと思った次の瞬間、

「解るよ。だって、姉貴の香りがしたもん・・。」

と、彼女は呟いた。

「知ってたんだ。何も、隠すつもりは無かったけど、話すのも変かな・・と、」

と尋がいいかけたとき、

「先生、本当に優しいね。だからあのときも頑なに拒んだのかあ。普通、アタシにも姉貴にも内緒にして、両方抱くと思うんだけどなあ・・。」

と、突拍子も無いことをいい出した。尋は思わず、つんのめりそうになりながら、

「普通・・って。」

と、突っ込んだ。しかし、ここはやはり本当の気持ちを彼女に話そうと思い、

「キミのいう通り、お姉さんと真剣に付き合ってる。だから・・、」

と、ありきたりな断り文句をいいかけたとき、

「アタシって、そんなに魅力無いかな・・?」

と、彼女は尋の正面に立ち、彼を見据えた。すると尋は、

「あるよ。思いっきり。ボクはお世辞はいえないから。でも、灼さんのことを本当に好きなんだ。自分でもどうしようも無いくらいに。」

と、少し申し訳なさそうに彼女を見つめた。その瞬間、彼女は少し目を潤ませて、

「あー、今回ばっかりは、負けちゃうかな・・。」

と、天井を向いて呟いた。これで尋も本心は伝えたと、ホッとしかけた次の瞬間、彼女は再び目を見開いて尋を凝視し、

「だから、好きっ!。」

と、ドンという音と共に尋の胸に突進し、そして力一杯抱きしめた。尋が最後に見た光景は、彼女の瞳に映る両脇のかがり火の炎だった。


 少し困惑の表情を浮かべながらも、尋はそっと彼女の両肩に手を置き、

「さ、他の人も来るから。ね。」

と、胸から彼女を静かに剥がした。尋の優しい所作に彼女も納得した様子で、

「うん。解った。」

と、小声で仕方なく頷いた。そして、再び重厚なドアの所まで来ると、魔法のように自然とドアが開いた。尋は少し慰めるように、

「正直、もの凄く驚いたけど、滅茶苦茶楽しかったよ。こんな所教えてくれて、有り難うね。」

と彼女にいった。すると、

「楽しかったのは、ここだけ?。」

とストレートに聞いてきた。

「ううん。キミも。そして、このシチュエーションも。こんなに生物に思い入れがあって、でも、僕とは別世界の存在で。それが、こんな凄い空間で出会えて、何もかもが奇跡的じゃん。」

尋は感じたままを言葉にした。彼女は尋を見つめて、

「うん。そうだね。最高に楽しい!。でも、何でこんなに楽しい相手が、選りに選って姉貴の彼氏なんだろう・・。」

少し不満げな表情を見せる彼女に、

「もし、タイミングが逆だったら、ボクはきっとキミのことを・・。」

と、尋は頭の中で言葉を巡らせたが、

「さて、夜も遅いし、送ってくよ。」

とだけいって、この前と同じく、駅まで彼女を送った。途中、まだ聞き足りなかったのか、生物の質問を幾つかたずねつつ、去り際に、

「ね、先生?。」

と、尋の右腕にしがみ付いて、少し顎を上げて彼を見つめた。尋は何故か解らないが、

「ヤバイ!。」

と思って、一瞬だけ彼女を見た。おかっぱ頭に大きく潤んだ目に、夜景の反射光が映り込んでいた。尋は言葉を失った。すると、

「よーし。見てろよ、チキショウ!。」

といって、彼女は両手を腰に当てて、尋の前に仁王立ちになった。そして、

「いつか必ず!。」

と、右手の人差し指を尋の胸元に指して、

「じゃあね、先生。有り難う。バイバーイ。」

と、元気よく駅の階段を駆け上がっていった。尋は少し呆然としていたが、ハッと我に返って、

「ふーっ。終わった。」

と、何か多大なミッションが一つ終了したかのような感慨に見舞われた。そして、

「今日はキスされなかったなあ。」

と、安堵とも物足りなさともつかない気持ちが、夜風と共に彼の頬を撫でた。と同時に、彼は冷静さを取り戻しつつ、

「やっぱり、恐ろしいほど魅力的だったよなあ。」

と、彼女の外観だけでは無く、ストレートにありったけの気持ちをぶつけてくる姿、そして何より、灼と同じDNAが彼女の中にもある。もし、同時に二人からアプローチされたら、一体自分はどうしていただろう・・と考えたところで、

「いや、イカンイカン。」

と、やはり違いは、ほんの僅かなタイミングの差でしか無いことに気づきつつも、それ以上の心的領域の詮索に踏み入るのを敢えて避けた。何故、自分はこんなに倫理に忠実なのか。それとも、そうでは無い何か必然的なものが、自分を然るべき立ち位置に思いとどまらせているのか。そうだとしたら、それは一体何なのか。そして、彼の口から言葉が漏れた。

「このままじゃ、チキショウだよなあ、俺。」

人間は、いや、生物は社会が秩序やルールを規定するよりも以前に存在している。その昔は本能の赴くままに行動するのが自然であったであろう。そして、自分も彼女も、その生物の本質について探究している。なのに、非生物的な制度というものに苛まれている。背徳的で危険な考えではあるが、それが現実である。尋はこのテーゼに結論を急がせることなく、

「たゆとうに任せよう。」

そう思いながら、夜の繁華街を少し遠回りしながら家路についた。


 さて、入試もいよいよ近づいて来て、尋の職場にも熱気を帯びて来だした。テキストの内容も基本的なことは既に終えていて、実践形式の過去問風な問題が中心になっていた。生徒の様子も前列を中心に集中力が高まっており、講師の解説を聞き漏らすまいと、一語一句書き留めながら、時折板書を鋭い眼光で見て、再びノートに顔を落とす動作を交互に繰り返していた。この時点で、気乗りがしなかったり、目的意識がイマイチ

になった生徒達は既に来なくなっていた。予備校とは、そのような淘汰の働く場所でもある。自身の進路に対して漠然とでは無く、確固たる信念を持って挑んだ者にのみ、勉強の神様は微笑む。この時期特有の光景を、尋は既に何年も見て来ている。そして同時に、何年経験しても、この時の緊張感が教室中から伝わってくる。

「意気込むのはいいが、気負うなよ。」

発破を掛けたり、檄を飛ばす講師もいるが、尋はその点、いつも通りに淡々と生物に関するエピソードトークを交えながら授業を行った。ただ、いつもよりは入試の傾向に即した内容になってはいた。それぞれの学校が出題する内容は毎年違えど、やはり学校別に癖のようなものがあった。通常、問題作成は大学の教授達が持ち回りで行う。そして何より、自身が行っている研究分野の最先端に近い内容を出す傾向がある。つまりはそれぞれの学校・学部が研究室ごとにどのような実験を行っているかの情報を掴むことで、実は暗に出題内容を把握することも可能であった。勿論、その内容は決して漏れないよう、守秘義務が課されている。1月に行われる共通のテストでは、その内容が漏洩することはまず無いが、二次試験に関しては少し様相が異なる。尋は積極的にでは無いが、かつての研究仲間が赴任した先にそれとなく連絡をし、今、どのような実験をしているのかを何気に聞いたりしていた。そして逆に、多方面から得た最新の情報を伝えたりもしていた。つまり、ギブアンドテイクである。そうやって得た話しを元に、尋は想定問題を作ったりしながら、生徒達を入試に備えさせた。そんな風なルーティーンであった。が、今年は少し様相が異なっていた。

「あら、先生。どうなされたんですか?。」

控え室で一息ついている尋の元に、異変を察した古典の女性講師が早々やって来た。

「え?。どうって、休憩してるだけですが・・。」

「そうでは無くて・・。」

と、女性講師は少し顔を近付けて、尋の未見の辺りを繁々と見つめた。そして、

「ははーん。やはりですわ。」

彼女の言葉に、尋は暫し固まった。すると彼女はさらに近づき、尋にだけ聞こえるように小さな声で、

「女難の相が出てますわよ。」

そう囁いた。尋は少し目を見開いて、

「いや、だってボク、順調ですよ。」

と、彼女の言葉を否定しようとした。しかし、

「ワタクシ、仕事柄、八卦見も学んでおりまして。師匠の元に付いて幾年か修行もして参りました。古典に登場する人物は、概ね、そのような原理原則に則って日々の暮らしを営んでおります。現代、表立っては、そのような生活は失われているように見えますが、その精神は今なお脈々と我々にも流れておりますのよ。そして、人間とは社会の顔を持って生きるもの。しかし時折、その面を突き破って、精神が表出する瞬間もありますのよ。」

彼女の真剣な表情に、尋は自分が単にゴシップ好きな彼女の好奇心を遮ろうとしたことが如何に浅はかだったかを一瞬で悟った。確かに、ヒトだけが他の生物とは異なり、高度に社会化された生き物であること、そして、外面と内面のような精神の二重構造を形成し、その狭間に悩まされる存在になってしまっていることも思い出し、

「あの、そんな風に見えますか?。」

と、思わず彼女に相談を切り出そうとした。すると、

「なーんて、ね。」

と、高い声で尋をトンと突き放した。尋は一瞬呆気に取られて、言葉を失いつつ拍子抜けした。そして、

「もー。お願いしますよお。先生い。」

と、尋は安堵の色を浮かべて彼女に返した。しかし、

「でも先生、いつもとは少しご様子が違うのは本当ですわ。」

と、いつものトーンで彼女は答えた。そして、

「もし気になることがおありでしたら、ワタクシの師匠に一度見て頂いたらよろしいかと。」

と、淡々と答える彼女を見て、

「八卦見は、本当にされてるんだ。この先生。」

と、そのことに少し驚きつつも、予備校で講師をしようと思う方々は、やはり、それなりに一癖も二癖もあるもんだと、自分のことを棚に置きつつ、尋は感心した。科学的なことに根拠を置いた価値観や視点でものを考えるのが尋の癖というか習慣ではあったが、今、自身に起きていることの不思議さ、そして、彼女にいい当てられたかのような自身の心理。これは一度、その師匠という方の元に伺うのも、ひょっとしたら何か得るものがあるのかもと、尋は黙考した。そして、

「あの、先生。もしよかったら、その師匠が居られる場所を教えて頂けませんか?。」

尋は彼女にお願いした。

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