パルランド-1
――「私のことは忘れて、自由に生きなさい」。
ふっと、そんな言葉が脳裏をよぎった。
いつ、誰の、言葉だったか。灰塵卿は夜空を見上げ、物思う。
「はあ、やれやれ」
修道女エレインが引き起こした魔素低下。それによって緩んだ封印術の補修が、ようやっと終わった。鎧の身体で伸びをする。
「全くも~徹夜だよ徹夜。は~疲れた、疲れない体だけど疲れた」
ずっと一人だと独り言が増えるのだ。灰塵卿は監視塔へとのんびり歩いていく。
「ただいま、おかえり」と自己完結して、今日のことを日記につけて、それから、別の日記帳を手に天辺へ。日記を読みながら夜を過ごすのが、いつもの彼の夜だった。
静かな夜だ――日記を読み返す度、忘れていることが点々とあることを思い知る。
こんなことあったっけ。でも、記されているから『あった』のだろう。自分の記憶という実感がない。他人の日記を読んでいるような心地だった。
いいや、これは俺なのだ。そう自分に言い聞かせる。
しかしこの無限の静寂が、ふと、こんな考えを頭の中に持って来るのだ。
(俺はまだ、俺だろうか)
ただ、満天の星空を見上げる。
――それから、幾日かの時が過ぎた。
灰塵卿が日記を読み返しながら監視塔にいると、空から大きな羽音が聞こえてきた。
魔族グリフォンが曳く飛空馬車がこちらへと向かっている。馬車を飾る紋章はツァハリアス家の家紋――あの紋様を掲げられるのはこの世に二人しかいない。灰塵卿と、彼の弟だ。
魔族の都市に住む弟が訪ねてきたのである。馬車が厳重武装であるのは、小竜が発生する危険地域に訪れるゆえだろう。
(弟の名前は……、)
一瞬、思い出せなくてゾッとした。だけどちゃんと思い出せた。
(……――ユリウス・ツァハリアス)
灰となって地面に降り立ち、着陸した馬車へ向く。馬車の扉が開くと、恰幅のいい老いた男が現れた。眼鏡をかけたそのかんばせは神経質そうな気質が窺える。
「ごきげんようユリウス閣下、……危ないから来るなと言ったろう?」
弟ユリウスは都市のまつりごとに関わる高官であった。恭しく一礼してみせる兄だが、後半の言葉は小さな弟を窘めるような物言いで。
対するユリウスはフンと鼻を鳴らすだけだった。これは「分かるだろう?」だ。
「用事があるなら手紙で……と言いたいところだが、手紙をよこさず乗り込んできたということは、顔を突き合わせて話さねばならないことがある、と捉えてよろしいか?」
「正解です、マリウス卿」
声質は似ている、だが弟ユリウスの方が老いており、厳かだった。
「……やれやれ、立ち話で済ませられそうな内容じゃなさそうだな。こちらへ」
灰塵卿は監視塔へと歩き出す。
(ユリウス、こんなに老けてたっけな……前に会ったのはいつだった……?)
久しぶりだな、とは遂に言えなかった。